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『徒然日誌』 2002年11月から2003年12月

2003年12月31日(水)くもり
大晦日、皆様一年お互いにお疲れ様でした。平和でよい年になるといいね。
一足お先にHPのトップは正月に変えました。もう5時間余りで新しい年。GYROの3人は、年越しでLiveだそうです。僕も年越しの護摩をLiveで行います。平和のために護摩を焚きます。良い年になるといいね。
暮れの掃除やらお札書きやらで少々疲れ気味。風呂に入ってから一杯やるか。外は大晦日の寒さに満ちている。本堂も厳かに緊張して寒さ一杯です。
今年も何人かの方とHPを通して知り合いました。いつかお会いできる日を楽しみにしています。僕と一年関わってお付き合いいただいたみなさん、本当にありがとう。感謝です。みんなの健康と幸せも護摩の祈りにこめるよ。

2003年12月30日(火)晴れ
天気も良く穏やかな年末。
公務員の僕にとっては27日から休みに入っているので、まだ明日が大晦日というところが待ち遠しい感じ。
暮れの掃除は今日で終わり。明日しなければならないことを除いて本堂の荘厳も終わり。今日は午後3時過ぎからお札書き。先日買ってあったCDをやっと訊きながら午後8時まで70枚を書く。明日お札を頼みに来る人も居るが、今日までの分を全部仕上げたので、明日は予定通りにのんびりとゆったり穏やかに大晦日を迎えられそう。
今夜は同志会の引継ぎの総会後の飲み会に行って来た。12月30日はこの八日市場に住む若衆にとっては大事な日。今夜は現役と同じくらい僕らOBが来ていたけれど、後の続かない現状では僕らが彼らの支えにならなければならない。でも楽しい2時間半ばかりを過ごしてきた。
日中が暖かいので、体も動きやすいし、寺の掃除もはかがいった。こんな暮れはありがたい。
お札を書きながらそれぞれの人のことや家族のことを思う。こんな時が坊主で居たことを“良かった”と思う時だ。明日の夜は平和のため、祈願者のために、一生懸命護摩を焚きたい。これが僕に与えられた嬉しい使命なのだからな。

2003年12月28日(日)晴れ
納め不動。
28日はお不動様の縁日。今日は師走の納め不動。お不動様一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
朝から一日吐きっ放し、でなくて掃きっ放し。落ち葉を掃き始めたらここで区切りというところがなくなってしまって、一日掃いて終わりとなった。まあこれで外は完璧。鐘楼にも縄を張りあとはシメを30日に飾るだけ。庫裏の年神さんには今日のうちにシメを張った。来年は閏月があるので、13枚のシメを張るのが慣わし。少しずつ厳かに旧い年と新しい年の交代劇が始まっている。良い年になればいい。明日も掃除と新年の仕度。明日からお札を書き始める。

2003年12月27日(土)晴れ
今日は完全にOFF。
昨日自分に約束した通り今日は何もしない一日で終わる。ゆっくりと衛星放送を見て、明日からの段取りを頭の中で組み立てて終わる。
さっきまで台所でラーメン屋の人気ランキングを見ていたので無性にラーメンが喰いたくなっている。食いたくてもわが家ではすぐに行けるラーメン屋などないので、食べるとしたらカップ麺かインスタントラーメンだ。
正月はよくカップ麺にお世話になる。酒飲んで平常の生活をしないので夜遅く食べたり、午後3時頃に食べたりと。
息子は年賀状に「猿がたくさん出ます」としたためたらしい。昨日昼間部屋に居て、頭上(屋根)が騒がしいので外に出たら、4匹猿が屋根を飛び回っていたという。猿もいよいよ走る師走か、押し詰まってきた。夜はだいぶ冷え込む。外の水道詮もそろそろ閉めなくちゃいけんなぁ。

2003年12月26日(金)晴れ
仕事も今日で終わり、いつもより二日も早く年末休暇が始まる。
二日早いんだから一日くらいはボケッとして過ごしてもいいだろう。空自の先遣隊は今日発つらしい。
これで始まってしまう。この戦いが終結し、例えばまた何年か後にこのような場面が出てくると、もう議論をする必要も国民に問うようなことも必要はない。平和への思いや世界に誇る憲法も、少しずつ砂の城が波に洗われるように崩されていく。次に議論されるのは軍隊をしっかりと持とうということだ。
決して誰もが命を軽んじているわけではないということは理解できる。小泉にしても石破にしてもまた然り。
僕の心の中の馬鹿は、もっと悲惨な現実を目の当たりにしなければもっとしっかりとした首をもたげないのかもしれない。寒さに布団の中から抜け出せない朝のような、亀の頭のように世間の様子を伺いながらの気持ちか。しっかりとしなくてはな。
(12:30) あたたかい穏やかな仕事じまいとなった。もう半日。今夜は早く帰るか。思いのままにならないことばかりだ。これが現実の壁か。お釈迦様の掌と現実の壁は果てのない宇宙。Free Jazz爆弾で壁を取っ払えたらいいのに。

2003年12月25日(木)晴れ
誰も止めることができないのだろうか?力のなさをつくづく感じる。
トホホ...である。空自の先遣隊が年内にイラクに向かうのだ。「消防隊員が火中に飛び込む使命と同じです」と言ってのける彼らの言葉に、なんとも虚しい響きを感じるが、この狭い部屋の中のPCと向かい合いながら吼えているだけの僕の力のなさを思い知らされる。生きて帰ってこいなどと、戦争ドラマでしか聞いたことのない言葉で、今まさに現実で使う言葉とは思ってもいなかった。
ライオンの小泉は、部隊を前に吼えた。百獣の王ライオンの言葉は絶対である。勘弁して欲しい。薮睨みの石破が部隊旗を手渡す。無気味な笑いが世界全体を包む。
クリスマスなんぞに浮かれている場合ではないと思いながらも、時間が切り替われば歳末のイルミネーションに包まれた街が映し出される。札幌の町で、恋人をイラク派遣に盗られてしまうという女性は、イブの夜も反対署名を集めに街頭に立ったのであろうか。思いが束にならんことを。

2003年12月24日(水)晴れ
クリスマス・イブ。
クリスマス・イブだそうだが僕は仕事で遅い帰宅。職場には、行き場のない男と女が7人も残業していた。なんとも絵にならないイブのフロアだ。
「五つの赤い風船/ゲームは終わり(解散記念実況盤)」のCD化がなり、あきらめていた音を聴けることになった。うれしい。すごくうれしい。ものすごく楽しみ。まだ昨日から聴けてないのだ。この後すぐ聴く。風船ももちろんいいのだけれど、斎藤哲夫の「吉祥寺」がいいんだなぁ。
仕事はあと二日。仕事が終われば寺の仕事が待っている。正月が来れば少しのんびりできるので、それだけが待ち遠しいなぁ。酒飲んでゆっくり好きな音楽につかりたいなぁ。

2003年12月22日(月)晴れ
冬至のかぼちゃ、冬至の柚子湯。
あたたかい冬至だ。
育成会のクリスマスも、子どもたちは30人にも満たないが、小学1年生から中学3年生まで、用事のある子を除いて全員参加。特別に何をするという計画も立てなかったが、ビンゴをして揃った者からプレゼントを選びに来るのだが、個々の性格が一様に違う。あっさりと選んで持っていく子や全部の物を手で触って確かめてから選ぶ子や、「どれでもいいから取ってきて」なんて子までいる。面白い。サンドイッチよりも寿司のほうが人気があったのもちょっと意外だったな。まあ仲良くやってくれているところが一番よいところ。
昨日は大聖寺を去っていく檀家があり、気分的には落ち込んでいたが、まあこれも仕方のないことだ。夜女房と寺の行く末を話してみたら、あまり希望はないように思えた。寺を支える者たちが絶対的に少なくなってくることがよくわかった。
午後の仕事にもどらなくちゃならない。
(21:12)冬至の柚子湯と書いたのが呼び水になっていたのかもな。デイサービスの利用者が持ってきてくれた柚子を寮母から帰り際に10個ほど貰った。7時半に帰ってきて一杯やってゆず湯は気持ちよかった。女房は柚子を砂糖漬にして、早速柚子湯を飲んだ。僕はこの砂糖漬けを焼酎の湯割のつまみに喰うのが好きだ。明日は明王寺の冬至祭。法螺貝がうまく吹けるだろか。かぼちゃのほうとうをいただくことになる。良い天気になればいいが。

2003年12月21日(日)晴れ
夕べ見た夢。
小泉「うまくいったな。うまく送り出せたな。」石破(薮にらみ眼いっそう陰鬱に)「そうですね。」小泉「これでも俺たちも、イシロー並にアメリカじゃヒーローだな」。
自衛隊諸君。彼らはあなた方をイラクに送り込みさえすればいいのです。ブッシュの顔色うかがいながら、向こうの言いなりになって、ホワイトハウスから日本を称える言葉が伝えられることだけを思っているのです。あなた方の生命の危険などきっと、これっぽっちも考えていません。イラクの砂漠に散っておいでと思っているのかもしれません。こんな彼らのために命を賭すなど馬鹿げたことです。仮に任務で赴いたとしても、決して命を落とさないように。
今朝は朝から青空だ。師走の快晴だ。息子は大学に、レポートの件で指導教授に会いに出かける。中学3年の娘は、いよいよケータイが欲しくなったらしく、夕べからカタログを覗いている。お昼から育成会のクリスマス会。これが済めば育成会の行事も終わり。今年度で育成会もお終い。猿も来なくてほんとにいい穏やかな朝だ。

2003年12月20日(土)くもり
風花の舞う寒い日でした。
朝から曇って今にも降り出しそうで、体は硬直したまま炬燵から出られない。風花も舞う。
急に冷え込んできて列島が寒波に覆われているとか。
温かい格好をして午後からすす払い。竹を切り、笹をまとめて、あまりうまくはないがこれですす払い。ニュースにはならないがわが家(寺)でも今日がすす払い。一人ぼっちのすす払い。悲観的では決してないが。
すす払いを終えてそのまま、外の掃き掃除。ケヤキの群れもほぼ裸木になった。刻々と一年が終わりに近づき、新しい年の待ちわびる声が聞こえるようだ。過去数年の年を払拭できるような素敵な新しい年を期待したい。希望だけは持ちたいものだ。

2003年12月19日(金)晴れ
自分に都合よく生きていくということ。
割と僕たちはその時々で自分に都合の良い選択をしながら生きている。例えば小さな集落の運動会で玉入れをする。上・仲・下の組に分かれると、一応そこで応援合戦が始まり、少々の罵声も飛び交う。それが町や郡や県の単位まで都合よく進む。昨日敵同士だったものが、一緒に肩を組んで山梨県の甲子園出場校を応援する。竹田節など歌ったりし、甲斐の人を鼓舞する。
僕にもそれは理解できる。こんなやり方をしていかないと、皆苦しくなってしまう。僕も、同じ仏教徒であるからいいやという大きな輪の中で考えられたらそれで気持ちは少し落ち着くと思うが、今はなかなかそうならない。これが途上にある仏教僧の現実の姿だ。僕の生活する地に真言宗が少ないので、全体的なレベルでの真言宗に対する理解度は浅い。弘法大師が嫌いとかいうものでは決してないが、ただ馴染みがないというだけで敬遠されてしまうという理不尽なところがある。
つまらんことを朝から書いた。いちいち小さなことに動揺しない強い気持ちで寺守をしなければならないのだ。ここを拠り所とする檀家もあるのだからな。
(12:30)こういうことが昨日も今日も起こるなんて一体どうなっているのか、これは学校に落ち度があるなどと、責任を押し付けている場合ではないだろう。亀の島の住民はすべてが病んでいる。あくまでもイラク派兵にこだわる人たちも病んでいるとしか思えない。
檀家の方が寿司を巻いてきてくれた。美味しくいただいた。元気の出る寿司だった。ありがたい。

2003年12月18日(木)晴れ
あまり愉快ではないことが寺にあり、頭抱えるぜ。
寺と檀家との信頼関係を否定するような出来事があり、夕べ帰ってきてから、なんだかここに暮らすこと自体のばかばかしさみたいなものを感じている。どちらかというとそのことから掘り進んでいろんなことに思いを馳せてしまうところがあるので、悶々と眠れない夜を過ごした。
一夜明けて何も外は変わっていないので、僕だけが夕べからの続きを見ているのだ。これじゃ仕事にも身が入らないよな。
日曜日に事情説明に来るといっているが、この暮れにきて悩み事のあるのはこっちとしても決して望むところではない。

2003年12月17日(水)くもり
まだ薄曇りな朝。
今年は去年の年末のように、田中耕一さんがノーベル賞を受賞したような癒し系のニュースに乏しい。
ということで余計に寒い。冷え込みが厳しく感ずる。夕べ2時間半をじっくりと見てしまった「俺たちの旅〜30年目の運命」のような番組は、やけに懐かしくて、一番逃げ込みたいところになってくる。ドラマの中でも使われていたが、僕も更年期障害なのかもしれない。
今日は歳末の障害者施設入所者の慰問。人生の選択も許されずに病床にあるものや、交通事故の後遺症で車椅子での生活を余儀なくされてしまった後輩もいる。誰にも厳しい現実があることはわかっている。今風は凪いでいるが、午後はまた甲府盆地に八ヶ岳おろしが強く吹く日になるのかもしれない。

2003年12月16日(火)晴れ
今夜は柚子の風呂でポカポカ。
柚子の濃い黄色と香りが風呂の中に漂い、今夜は柚子の風呂で体ポカポカ。こんな事が小さな幸せになる。
ローカル新聞の読者蘭に、同じ真言僧の意見。日本だけがかっこつけて知らぬ振りするなと。よく存じている方なのだが、数年前からかなり過激な発言をなさる。どうもこういう方とはご一緒したくないので、最近会う機会も減ってきているので好都合。
まあ、人それぞれの考え方もあるわけで、どれが正しいというような判断はできないと思うが、僕の考えとこの方の考えが、まさに対極にあるということだけは間違いがなさそうだ。柚子の風呂はきっとむこうも好きだとは思うが。

2003年12月15日(月)晴れ
毎朝この冬一番の冷え込みを更新。
フセインが拘束されたとニュースが夕べから報道されている。自衛隊派遣中止の鍵になればいいなと期待する。アメリカはこれをもって、もうイラクから身を退き、国連に後を任すべきだ。国民感情を逆なでするような状況に陥るばかりだと思う。清く身を退いたと思われるようなところで、国連に後を託すべきである。
オウムの麻原といい、今回も穴倉の中に潜んでいたなどと、落ちてゆく最後の哀ればかりを感ずる。
寄付の話である。いま共同募金運動を行っていて、社協からも大口募金のお願いをしているのだが、実は10時半頃に郵便の配達があり、その中に募金協賛のはがきが混じっていた。「内容は12月15日の午前9時頃取りに来てください。(遅くても9時半までに)」というもので、慌てて先方に電話を入れた。出た奥様曰く、「えー?いま届いたんですかぁ〜〜?金曜日に出したんですけど」と不機嫌丸出しであった。こちらも非があるわけではないので、「いま届いたんですよ、ダメでしたらそうおっしゃってください」と。まあ、「今すぐ来てください」とのことで1万円はいただいたのだが。職場が役場と違って宿日直がないので、休日は完全に建物を閉鎖してしまうので、郵便局でも土曜の配達はしないのだ。ただ、どうなんだろう。月曜の朝取りに来いという内容の手紙を果たして金曜日に出すのは、どうなんだろう。こっちが試されているみたいで、少々不愉快だった。僕だったら土曜も日曜も挟まるし、遅くても木曜くらいにはせめて出すだろうな。

2003年12月14日(日)晴れ
多分今年最後の法事、終わる。
風も無くよい天気に恵まれた日曜日。3週続きの日曜日の法事も無事に終わる。イラク派兵に反対することを法話の中に盛り込んだのだが、今日の話はあまりうまく話すことができなくて、会食が始まってからも自己嫌悪であった。
ちょっといい気になっていたのかもしれないと反省。話さない者飲むべからず。うまく自分の言いたい事を伝えられなくて、なんだか今日は恥ずかしい日であった。
もう今年も残すところ2週間。一年を反省しなければならないなと思った日でもあった。寒い日が続きますが、どうぞご自愛くださいまし。
hiromiちゃん、順調ですか?幼児虐待なんて報道もたくさん聞こえるけど、授かった命、いただいた命、そしてつないでいく“いのち”のこと大切にしようね。

2003年12月13日(土)晴れ
新酒を買い求める。
午後女房と増穂町の萬屋醸造店に行ってきた。今年の「春鶯囀(しゅんのうてん)」の冬期限定新酒一番しぼりを2本買う。大吟醸から吟醸などなど、400円でグラスのぐい飲みを買って試飲する。それで一番美味しかった「ここだけのお酒です。」(720ml)という商品を1本別に買った。
ここ何年かこの一番しぼりを心待ちにしている。実に美味い。ストーブの焚かれたあったかい部屋で、ちびちびとこの冷たい酒を飲むのがまた格別。この酒を飲むとき、「この島国に生まれてよかったなぁ」としみじみとする。
2本のうちの1本は今夜同志会への差し入れ。小林会長にご苦労様とこの酒でねぎらえたらと思う。また明日も法事があるのでたくさんは飲めないが、酒を酌み交わし、旧交を温めるというとこか。
夕方頭を刈ったので、頭が冷えて寒い。暖冬だなんてついこの間まで言ってたが、前言撤回だ。
S子さんから、風の旅団の復刻CDと、野戦の月の2003年音楽集というCDも送られてきて楽しませてもらっている。風の旅団は曲馬館という演劇集団の解散後にできた集団である。実際に観たことはない。でも演奏家たちが素晴らしい。特にこの復刻盤には、若くして病に逝った篠田昌巳の演奏も聴くことができる。僕は篠田というsax吹きがどうしようもなく好きだ。彼のアルバムはどれもが秀逸だ。そして(うまく言い表せないが)音楽とはこんなもの、というようなことを僕に教えてくれる。
去年のこの土曜日、日は一日ずれるが、不破大輔・高岡大祐の「低音環境」のLiveを寺でした。僕にとっても新しい始まりの心底寒いが熱くなった夜だった。素晴らしい低音環境のアルバムも、「不破大輔商店」から「地底レコード」というメジャー?からの発売に格上げされたし、不破氏も今年の後半はもうPlayをがんがんにしているようなのでよかったなぁ。いい音楽を聴こう。

2003年12月12日(金)くもり晴れ
天候が爽やかになってきたと思ったら猿のお出ましだ。
お昼に帰ってきたら迎えてくれたのは数10頭の猿たちだった。畑にも道にも僕の部屋の洗濯物の横にも猿。猿。猿。でも去らない。ずうずうしい。居座る猿。人間など眼中にない猿。手も足も、余りの数に圧倒されて声も出ない、俺。
今日は猿を撮った。土蔵の屋根の突端に一匹だけ見張りみたいに座っていた奴。ちょっと、孤独な猿を演じている風なたたずまいだが、そんな姿にだまされちゃいけない。こいつ等が衣を着て本堂に座っていても、頭だけが見える後姿なら、格子戸を通しての眺めなら僕と区別がつかんかもしれない。危ない危ない、大切な住職の座を奪われないように精進しなくちゃな。
今夜は職場の忘年会。猿の出た話でもして、焼酎の湯割でも飲むか。

2003年12月11日(木)くもり
零下2.5度の反対署名集めもある。
年末にきて、個人的に内外でせわしないが、自衛隊のイラク派兵のことを考えないわけにはいかない。何ができるだろうと考えても、法事の席で法話のなかに組み込むとか、反対の意思表示のチラシを作って、外の掲示板や本堂や庫裏に貼りだしているくらいしかできることはない。利用のほとんどないネット上の掲示板のタイトルも「こころ安らかなる日々のために」に改めた。
今日の朝日新聞には「彼をイラクに行かせないで......1人で署名集め」の見出しで、札幌の雪降る夜の町で、まさにイラクに送り出されることになる自衛隊員の恋人を持つ女性が、派遣反対の「署名」を集めていることが載っていた。イラクの任務から戻ると、隊のなかでの地位が上がったりするらしい。階級が上がり給料も上がるのだろうが、命を落としてしまったらなんにもならない。
逡巡する自衛隊員もいるだろう。彼らにもまた痛みはあるはずだ。だが小泉や石破には逡巡する姿は微塵もみえない。自信満々に「送るといったら送る!」と言い切る奴らには、こう言ってやりたい。「オメェーが先に行ってこいよ!」バキッ☆\(−−;
祈るしかないのだな。祈りはきっと通じるということを信じるしかないのだ。小泉首相や石破防衛庁長官にゴー・サインを出させない、呪縛にも似た祈りも込めてだ。

2003年12月10日(水)晴れ
ボーナス出る。たくさん税金やら共済積立やら引かれてい、明細だけの空袋。
今朝の朝日新聞の、日本新聞協会が実施した「新聞広告を広告する」新聞広告コンテストの最優秀作品が全面広告で載っていた。
『日付にのせて』と題した作品で、末尾はこう結ばれている。「日付をつけるとコトバは強くなる。」ぜひ覗いてみてください。さわやかでした。
それに比べて、この御仁だ。ここに昨日の内閣総理大臣の談話もお知らせしておきましょう。
そして、防衛庁長官の石破茂。彼は僕と同い年かひとつ下の同世代。夕べの筑紫さんの番組を見ていたけれども、まあこの男も恐い人間だ。前々からこの人相の悪さや薮睨みの目付きが気になっていたが、危険極まりない人物に思えるなぁ。「私が決める」的発言は、他の痛みをよく理解できていない証拠だ。
「自分が痛苦をなめてこそ他の苦しみのほどが理解されるのです。」とは、松原泰道老大師の言葉である。本当の事を見よう、本当の事を見つける努力をしよう。何か訳のわからない言葉でもって、言いくるめられてしまい、あとで後悔しないような、丈夫で思慮深い頭をお互いに作りましょう。自衛隊の派兵がありませんように。オンアビラウンケン 合掌。

2003年12月9日(火)晴れ
自衛隊がイラクに派遣されたとして、彼の国の人たちの誰が、自衛隊を軍隊ではないと識別できるだろう。
また小泉の強行突破が始まる。現職の自衛隊員やその家族、またその親などによって、インタビューに返す言葉や思いはまちまちだ。現職は仕方がないと、命令に従うしかないと言う者や、アメリカ追従ではなく日本もここまできたら、自衛隊をしっかりとした軍隊に変換させるべきだという者もいる。
親たちは過去の戦争の悲劇を目の当たりにしているので、「絶対に行かせたくない、行かせない」と強く主張する。
この派兵は死を賭してまでいくだけの価のあるものだろうか。僕にはそうは思えない。簡単に死を賭してはいけない。
夕べは納めの光明真言で、昼間好天だったせいか、夜はいっそう気が引き締まり満月がくっきりと美しかった。イラクにもアメリカにも、世界中にこの月はひとつだ。地球に暮らすもの全てが、命を授かりこの月を仰ぐ。月を大切に思うことは命を大切に思うこと。

2003年12月8日(月)晴れ
今日はまた風もなくポカポカ陽気。
本当にこれで大丈夫なんだろうか?暖冬だ。あたたかい。ストーブをつけることも少ない。
今夜はいい満月が眺められそうだ。今年最後の光明真言である。
昨日の法事で横に居た来年70になるという遠藤さんと話した。「曙に同級生は何人くらいでしたか?」と訊くと、「24人くらい」と返ってきた。「先週の法事で訊いた10歳年下のSさん達は、50人くらい居たらしいですよ」と話すと、「多い年もあるけど、疎開で来た子どもたちで人口が膨れたんだ」と話してくれた。
疎開なんて言葉がだんだん死語になってくるような時代になればいいと思う。「薪を背負ったり、貧しい思い出ばかりだ」とも話してくれた。凶弾に倒れた奥氏の敵を討つのではなくて、慎重にこの国が今何をなすべきかを考えて行動してほしいと思う。今夜は透きとおった師走の空に満月を楽しみたい。

2003年12月7日(日)晴れ
今朝は猿もいなくなった。青空が広がり冷たい風が少し強く吹いている。
友達のところでも昨日は猿が出たというメールが届いたが、うちのところも昨日は猿が大量に出た。気がつかずに窓から外を眺めたら、畑に猿が10匹以上。大豆のこぼれたのをあさっているではないか。撮影は間に合わなかったが、後から隣接する別のお寺の墓地の下の畑に出ているところを撮った。
畑から本堂の脇の山道を走っていくものや、庫裏の屋根に天下を盗ったように仁王立ちになるものまで、その鳴声も集団の結束を鼓舞するように激しい。奴等に集団で飛び掛られでもしたら、人間様もお終いである。
夕べは消防の忘年会へのお誘いを受けた。午後6時15分に迎えの車で出かけ、帰ってきたのが午前0時半近く。およそ6時間を「あまんどう」で飲んで歌って語り尽くした。なんという愛すべき仲間たちだ。涙がこぼれる。娘のように年の離れたコンパニオンに「和尚さんの頭気持ちいい。」と、僕は慈愛の仏のような気分で撫でられるがままにする。
新しく入るメンバーがいるわけではなく、ひとつずつ年を重ねる僕らだが、結束はより強く確かになるような気がする。請われるままに定番の「雨上がりの夜空に」を歌う。僕がこの歌を歌わないと納得しない。今日も法事があるので、夕べは焼酎のお湯割で通したのが効を奏したのか、決して爽やかとはいかないがまあまあ大事に至らずに今朝である。
先週の法事はあとを深くいただいてしまったので、今日はそれなりに慎まなきゃならん。もっともホテルでの会食だから、「時間の許す限り」という言葉は、本物ではないのだ。これだけ飲んでもいいというだけの話を考えなければならない。

2003年12月6日(土)くもり
イラクへの自衛隊の派兵中止を求めます。
僕も、田舎の山寺からでは在りますが、自衛隊のイラク派兵の中止を求めます。「テロに屈しない」「復興支援・人道支援」などという言葉にだまされないでください。今こそ泰然自若して、憲法第九条を遵守する姿を全世界に見せる(誇る)べきです。これが私たちがするべきことだと考えます。
弘法大師の言葉に「死んで仏になってなんになる、今この与えられた身で仏にならずしてなんになる」という言葉があります。これはきっと、生きているうちに仏のような行いをし、「あの方はまるで仏のようだ」と、皆から言われるような生き方をしようということではないかと解釈します。
今日は朝から寒い、寒い。

2003年12月5日(金)晴れ
残業。なかなか前に進めない。
2日残業で遅く帰っているが、9時ごろにご飯を食べると、もうすぐに風呂に入ってゴロン太くんだ。パソコンをする元気も失せているので、コタツの中で筑紫さんの番組を見たりしながら、もう寝たくなる。眠くなるのじゃなくて“寝たくなる”。あ〜あってな感じで、眠ってしまおうという気持ちになる。冷たい布団の中で、両掌を股にはさんで縮こまって我慢していると知らぬ間に寝てしまう。今朝は寒かった。昼は暖かいが朝の寒さは増してきている。新年度の予算を立てて、役場の福祉健康課に出さなければならない。町の合併を来年に控え、事業が無くなるものや前倒しで事業を打つようにというお達しのものもある。今夜はどうしようかと昼休み当番は考えている。
でも、「おっといけねぇ」と、僕は9時前には帰る。まあ、期限までには処理できるだろうと、僕は仕事を他人事のように考えている。まあ、あまりガツガツと前に進めないな。年賀状も考えなければ。

2003年12月4日(木)晴れ
天候のいい日が続けば庭の落ち葉が乾く。
乾くと掃くのも楽だ。落ち葉は水分が抜けてカラカラになり羽毛のように舞い上がるくらい軽くなる。数日天気が良いので落ち葉が乾いてきた。天候が安定してくれるとありがたい。昨日もお昼休みに15分くらい山門と石段の周りを掃いた。落ち葉が山のようになる。堆肥になるのでもったいない気もするが、火をつける。もくもくと白い煙が天に昇る。
だいたい、女房の知り合いなどが、「落ち葉、畑の堆肥にするから貰いに行くね」などと一度来ても、翌年来た例はない。袋に詰めたりしてもそんなにたくさんの量を運べるわけではない。きっと畑に入れてみると、たくさん運んだつもりの落ち葉が、情けないくらいのわずかな量だったりするのだろう。で、「もういいや」なんてきっと思うのだ。内でも畑に入れるなんて事は滅多にしない。なんといっても落ち葉焚きに限る。これが晩秋の風物詩だ。これに焼き芋が入れば、「どっちの料理ショー」に供される食材やメニューにもまさるのではないかと思う。今日も良い天気になりそうだ。
喪中のための年始あいさつの欠礼状が10通以上届いている。生まれることと同じくらい死についても大切に考えなければいけない。決して無駄な死であってはいけないと思う。無駄な死などないかもしれないが、「あいつの死は無駄だったよなぁ」などと思われない死でありたい。

2003年12月3日(水)晴れ
香り。
昨日の夕方金婚式の記念写真をF先生宅に届けたら、「ちょっと待て」と言われ、貰ったのだというゆずを数個いただいた。車の中に入れておいて、帰る道すがらいい匂いに幸せな気分になった。
線香の匂いもまたいい。朝の明けるのが遅くなったので、ろうそくの灯り一本で薄暗い本堂や客殿である。線香も高いものではなく僕は昔ながらの記憶の匂いをくれる線香を使う。隣りの隣町で作られている線香で、市販の線香より倍位に太くて、匂いは子供の頃にかいだ線香のままだ。最近は少煙・微香なる線香流行のようだが、きちっと匂いは欲しい。ちょっと高価な線香はあのわずか10センチ足らずのなんとも頼りなさげな一本ではあるが、一本の線香からの煙と匂いの流れが大勢の人を気持ち良くさせてくれる。
朝刊で、京都の愛宕念仏寺の西村公朝師の訃報を知った。ご本人とは面識など当然ないが、息子さんのコーケンさんとは、喜多郎のイベントで何回か会った。パオに家族で住んでいると話されていた。公朝師もコーケンさんも仏像修復に携われていた。弟の公栄さんは、僧侶でシンセサイザー音楽を作られている。謹んでお悔やみとしたい。合掌。

2003年12月2日(火)晴れ
久しぶりの良い天気。暑かった。
まるで梅雨の頃のように洗濯物が部屋の中に乾されていて、今朝起床とともに僕は洗濯物を外の物干し竿に吊るす。女房は朝飯の仕度。
洗濯物を外に出すのはなんとなく新聞の受け取りといっしょに僕がやったりしている。早くから太陽が登れば、乾くのも早いだろうと。それから洗濯物が乾くのは気持ちのいいこと。気持ちがすっきりといい気分になる。
今では洗濯などしないけれど、食器洗いや洗濯は割と好みなんです今でも。朝の食器洗いなんかも時々やるよね。なんつうか、自分のことは自分でやって片付けるっつうのが僕は好きで、これは家族(妻)があっても、いつでもそれをすることに抵抗はないんですが...。
師走に入って、新年度の予算のことや補正予算や、なんだか煩わしいことが山積している(と思っている)のだが、残業をしたくない気持ち。でも明日のことなんかわからないけどね。12月なんてこれもまた飲んだ二日酔いだなんていってる間に、つごもりになっちまうんだ。心してかからなければ。
試験中の勉学に励む娘の後姿に、「すまん」と酒臭い息を吹きかけるのである。

2003年12月1日(月)
師走入り、今日も雨。
山梨は今日も雨だった。うんざりするくらいの雨ばかりの毎日だ。庭の落ち葉を掃きたくても乾かないので、掃除ができない。明日は天候が回復するというが、体の芯まで寒い。
心まで寒くなるような出来事ばかりが伝えられてくる。この国はどの方向に進もうというのか。地上デジタル放送の開始に浮かれている画面の片側に、イラクで殺された大使館職員がある。「もうここには来るな!」と通告されているようだ。自衛隊員の反応もまちまち。
こんなニュースを知れば知るほど、ぼくはここで静かに生きようと思う。ここで物を考え、動じることなく寺に在りたいと思う。静かに深く思えば通じるかもしれないということを信じたいのだ。

2003年11月30日(日)くもり
雨上がる。今日は法事一件。
早起きして雨が激しい間に境内と墓地を見回り、側溝の詰まりもきれいにする。8時過ぎには雨上がる。大降りだった。
9時半から、近くの集落の秋葉神社で火伏せのお経上げる。長靴を履いて山道を行く。おばさんたちが今日は4人しかいなかった。だんだんとこれも廃れていくか。ワンカップを一本空け皆で御神酒とする。家事のない冬でありますように。帰りがけに写真撮ってたらこの後前のめりに滑って膝をついた。カメラ汚さなくて、壊さなくて良かった。ホッ!
10時半から法事であります。

2003年11月29日(土)
朝から振り出してめちゃめちゃ寒い。 パソコンの前に座ってヨシダタクロー聴いてるんだけど、寒い。「落陽」はいい曲だなぁ。
「エホバの証人」で検索。ちょっと調べたいことがあった。彼らはこの寒い年の瀬の雨の中も、静かに静かに長いコート羽織り、カバンを提げて、或る者は幼い子供の手を引いて門付けして歩いているのだろうか。寒い光景が見える。彼らの多くは親から続く2世という証人たちであるらしい。で、自然消滅する2世たちも多いようだ。幼い頃から親に手を引かれて歩いていると自然にここの教義だけが世界の全てになる。
大学進学などへも、教団からの介入があるようで、やはり大人になる過程で、「何か変だぞ?」と思い始めることもあるようだ。ちょっと読んだだけなんだけどね。ただ、あれをやったらいかん、これはダメですというようなことが多いものには、その裏側に、「それされたらこちらの嘘がばれます」みたいなモザイクされたようなものがなんとなくボーっと浮かんで来るんだよな。
タクローが終わって、太田裕美をかける。1曲目は「雨だれ」。どうもセンチメンタルな気分になってくる。やっぱり他を眺めても寛容でいてくれるようなものが僕はいい。ヤマギシにしてもそうだし、新興宗教、新新興宗教と呼ばれるもの。例えば、僕は真言宗醍醐派の一末寺の僧侶であるが、醍醐派とひじょうに近しい真如苑などもはっきり言っていぶかしい存在ではある。金を布施させる巧みさにはとても長けている。わが本山もその恩恵を少なからず得ているのである。いや“大”と言ったほうがいいだろう。金、金、金で教団は末端を締め付けてくる。頭でっかちになって引き返せなくなっている。BBSに書いた「渡部俊現」老師は、(追い出されたといわれているが)こんな教団に愛想を尽かして出ていったと僕は確信している。こんな本山に頼らない僧侶としての生活ができれば一番良いと思っているが、ここが苦慮する部分ではある。
雨降りでなんだか愚痴っぽく湿っぽい話になった。
(20:28)新しいデジカメで撮影。OLYNMPIS C-755Ultra Zoom。楽天の1円オークションで落札。16MBの添付されたピクチャーカードでは、10枚も撮れないことがわかり、128MBと32MBを一枚ずつ別途注文。
朝の「徒然」の後に護摩札作り。尺5寸の大札は手書きなので11枚書く。これだけ書けば多分足りる。ストーブを焚いて、ジャズを聴きながら午後3時過ぎまで。午後4時過ぎに下部の東前院ご住職の通夜に行く。後継になる方が父の教え子で、父の葬儀にも来てくれたし、順調にいけば来年の今頃は同じ町内同士になるので、大降りであったが出かける。通夜の前にBrother Nのところに寄る。さすがに一杯飲むというわけにもいかずお茶で一時間ほど話す。帰ってきて庫裏の風呂で頭を刈る。明日法事がある。
さっぱりと刈り上げた頭は口ほどに物を言ってくれるものだと信じて、法事や葬儀の前には必ず刈ることにしている。

2003年11月28日(金)晴れ
社協の指導監査もあっけなく終わってしまい、少々拍子抜け。 まあ、ざっと流して終わってくれるのはこちらもありがたいことなんですが、一日たっぷりお付き合いする気持ちでいたので、わずか2時間で終えて変えられたのには少々拍子抜けでありました。彼ら曰く「今日はちょっと用事がありまして、早く切り上げねばなりません」。
経理関係はK氏の仕事振りが証明されたようで、まさに非の打ち所がないという奴でありました。指摘されたのは僕の怠慢ばかりでありました。全くするつもりもないんです今後も、と言っておきましょう。就業規程と36協定を労働基準監督署に届け出ること。この辺は全く無関心な部分でした。私自身が役場の人間なので、社協の労使関係のことなどあまり考えたことはなかった。12月に入ったらゆとりがあれば考えてみるか。
合併も控えてますから、それなりに善処したいと思います程度に止めた。
11月の仕事も今日で終わり、週末が終われば師走に入る。息子は早く日の経つことを望んでいるようだが、僕も女房ももう、先を追いかけることはない。じっくりと今を見ていたいのだ。また天気がくだり気味で、明日は雨になるかもしれないとの予報。お札作りにでも取り掛かるしかないのか。

2003年11月27日(木)晴れ
♪悲しい時にゃ 悲しみなさい 気にする事じゃ ありません。 「被差別部落の青春/角岡伸彦著」を、講習の合間に読みつないで読了。僕は若い頃からこの手の本が好きだ。大学では一年と持たなかったが「部落問題研究会」という共産党系のサークルに入った。今は共産党は大っ嫌いな政党のひとつであるが。本の最後に解説があって、野村進という人物が書いていて、俳優の三國連太郎と元自民党幹事長の野中広務に触れている。三國の祖父は棺桶作りを生業としていたことから、幼い頃は友達も少なく、近所の大人たちが自分らの子どもに、三國と遊ぶなと言っていたらしい。それから野中広務については、具体的な記述はないのだが、(三國の記述を受けて)「野中広務も、これまでに幾度か同様の回想をしてきた。」とある。野中のことは以前“徒然”にも書いたが、彼は一貫して自衛隊の後方支援には反対の姿勢であった。反小泉を貫き通し今回議員も辞職したが、「戦争に加担することには反対」であることを、自民党にあっても「私は戦争に行った人間なのでわかるが、小泉さんは行っていないのでわからない。慎重にならなければいけない」と論じていた。今日この本の解説を見て、野中広務が以前よりももう少し理解できたような気がした。彼は小泉とは、おそらくどこまで行っても相交わることのないレールだ。彼の出自や幼児体験などから、自らが行きもしないのに、椅子にふんぞり返って駒の兵隊をサインひとつで“いくさば”に送り込むというような小泉のしようとしている魂胆は、絶対に許せないことだったのだろうと想像する。そして「俺と小泉は、違う」と行き着くのだろう。僕は自民党もまた信頼できない政党ではあるが、この件ひとつに絞れば、野中広務という政治家の姿勢には“慈愛”を見る。野中をリングアウトさせて、ますます自民党はダメになり堕落し、より危険な方向に舵を取る。良識の通用しない時代はホント恐ろしい。
そんなこんなで、2日間の講義を我慢して、無事「防火管理者」の資格いただきました。
換わって...。輪がノリノリであればあるほど、後からの者は乗ることができなくて逆に落ち込んでしまうような反比例の方程式がある。これは仕方のないことなんだろうな。詮無いこと。またの機会に出直すのが良策なんだろうな。世界で自分ひとりだけが惨めな思いをしているなんて、つい思ってしまうもんな。タイミングの悪いことが続くことも、これ仕方のないこと。いいことばかりじゃないのが凡夫な僕らの世界。「
悲しい時にゃ 悲しみなさい 気にする事じゃ ありません あなたの大事な 命に かかわることも あるまいし そうです それが 運命でしょう 気にすることじゃ ありません 生まれて 死ぬまで つきまとうのは 悩みというものだけなのですよ」とは、加川良の「伝道」という古い歌。

2003年11月26日(水)晴れ
朝日が昇る。一夜あけて今日は良い天気。物干し竿に残るの雨粒がきらりと光っている。 朝7時半。「てるてる家族」の始まり。火曜から金曜まではこの番組を見てから出かける。勿論BSの早い奴を見る。いまいち馴染めずに熱く入り込めないが、なんとなく朝の手持ち無沙汰で見ている。
今日明日と同僚のTと防火管理者の資格取得講習。あさって県の指導監査があるので、本当はあまり行きたくないところだが、今の施設に資格を持っている者がいなくなってしまったので、僕ら二人に白羽の矢がたってしまった。仕方がない。
昨日ほど寒くはなさそうなので良かった。昨日一昨日と閉めていた本堂でのお勤めを済ませ、登る朝日にも合掌。新しい物星竿に雨粒が残っている。きらきらときれいだ。平和な一日でありますように。

2003年11月25日(火)
体の芯まで染みてくるぜ、今日の雨。 移動スーパーの車のスピーカーから流れてくる五木ひろしを、僕は職場のトイレの窓から雨降る風景を眺めながら聴いていた。雨がザンザン振りなのに、やけにクリアに聴こえてくる。身体の芯まで凍えさせてしまう今日の雨だ。明け方からだいぶ激しい雨で、出勤前に側溝の落ち葉を流してしまおうと15分くらい外に出た。こんなに降る雨はこの時期には珍しい。
便器から暖かい小便の湯気が上がり、五木ひろしの歌が終ると、移動スーパーの店主の口上が始まる。雨のなかでも車の周りには近所のおばさんたちが集まるんだろうか。皆今日は何を買い込むのかな?今夜は熱いおでんでも湯豆腐もいいね。熱燗も一本は欲しいね。昼飯を食って、また午後から合併の会議だ。
(19:38) 雨が上がり星空が望める。昨日は南極じゃ皆既日食が見られた。有史以来初めての南極での皆既日食であったという。こんな事を「初めてだ」と断言できてしまうのだからすごいものだ。ペンギンたちは日食が始まると驚いて興奮したのか鳴き始めるが、100%の皆既になると静まり返ってしまった。とても神秘な映像で深遠な高貴な風景であった。僕もごみ出しに行って仰ぎ見た星空と、ぴたりと止んだ空気の静寂にペンギンの如く一瞬凍りついた。こんな夜があるから100年に満たない人生であっても、生を享けたありがたさに感謝せずにいられない。

2003年11月24日(月)くもり
ただいま帰宅。 息子のアパート探しで相模原に行ってきたが、今日はなんと寒い日であったことか。
女房と三人、降りる駅立ち寄り場所でトイレに行っていた。物件はまだ時節がまだ少々早いが、空き予定のところをお願いしてくるという形で不動産屋と話をしてきた。
僕が学生の頃とは様変わりがしているようで、住宅も軒を接するくらいに林立している。
朝も早く少々疲れた。早く終わってしまったので、上野まで出て国立科学博物館の「北里柴三郎生誕150年記念展」を見る。ここに行くのが宿題なのだそうだ。僕にはなんか訳のわからん場所であった。とにかく寒くて寒くて、何処も同じ晩秋なのだなと感じてきたところである。

2003年11月23日(日)晴れ
今日は47歳。思えば遠くへ来たもんだ。 本当に遠くまで来たな。47歳になった。夕べ「喜田」で飲み、今朝はゆっくりと二日酔い。酒量は落ちないが、体力は落ちた。まったく回復力はナローバンド並だ。
相川君にGYROの写真を貰う。infoseekへ内藤&相川の写真を載せましたので、お暇でしたら見てやってください。二人は一番前に座ってたので、実に迫力のある写真になっとります。
それから、チューバの高岡君のHPが更新されてまして、大聖寺Liveのお話も載っています。ぜひご覧あれ。
明日はもう一日休み。明日は早起きして、息子のアパート探しで相模原まで行ってきます。

2003年11月22日(土)晴れ
草刈りも今年は終わり。紅葉すすむ。 紅葉が進む。いい色になってきた。そういえば”ザ・タイガース/色つきの女でいてくれよ”というのが再結成のときの歌にあったな。ジュリー好きだったな。今でも歌うけど。
草刈り機に燃料が残っていたので、草刈りを少しして今年の草刈りはお終い。また来年だ。午後は落ち葉掃き。いつものように女房は焼き芋。息子の同級生の女の子が、お不動さんにお参りに来る。きっと受験なんだろうな。うちの後、隣りの八幡さんにも行ったので、頼めるものは何でも頼みたいという、こんな気持ち良く分かる。
5時なった。居酒屋「喜田」に出かける。僕の誕生日と川口さん夫婦の結婚記念日を祝う夜だ。(実は明日なんだけど、都合で今夜になった)うちは4人で出かける。たらふく飲んで語ってくるか。幻の居酒屋「喜田」。

2003年11月21日(金)晴れ
良い天気になりそう。 太陽が部屋の正面の山に登った。今日は良い天気になりそう。昨日はだいぶ雨が降った。客殿から本堂へと外に出たら、庫裏と客殿のつなぎの屋根の樋が一本落ちている。明日の休みに直さなきゃな。
まだたくさん葉が残っているが、樋の落ち葉もきれいにしなければならん。樋に落ち葉が溜まると詰まって雨水が流れなくなる。寺の建物が大きいのでこんなメンテナンスが日常必要になり、高所嫌いな僕には冷や汗もの。僕が屋根に上がって伝っているのを誰かが見たら、へっぴり腰でおかしな光景だと思う。猿のようにどうどうと飛び跳ねながら渡ることなどできない。

2003年11月20日(木)
夜になっても冷たい雨が降り続いている。猿もしとど濡れているのだろうか。 冷たくてさぶい雨だ。お昼の帰りに車庫の手前で、ギャーっと言う鳴声に振り向いたら、本堂裏の木ががさがさと揺れていたので、「あっ、猿が来ている」と。そう言えば女房が一昨日の夜「今日の午後は猿がすごかったよぉ」って。「すべり台のところまで来てて、のっそのそと帰っていった」と。去年も大晦日にたくさん出てきてたし、暮れが近くなるとここに猿たちがやってくるんだろうか。
大豆の収穫があるので、それを目当てに奴等降りてくるのかもしれない。30頭もの大群で来られた日にゃぁ、バケツ叩いたって、爆竹鳴らしたってぜんぜん効き目ありません!人間が危害を加えないことを承知しているので、ちょっと退いてもすぐにまた畑にたむろする。寺の客殿や本堂でさえ猿たちが天下でも取ったかのように飛び回り、愚かなる人間たちを見下ろす。奴等に打つ手立てがないのが正直なところ。自衛手段は作物を作らないことになってしまう。椎茸も大きくなるのを楽しみにしていて、「もうちょっと」などと、もったいぶって色気を出すと、「あっ!やられたっ!!」てなことになる。
傍若無人極まりないのが猿たち。何もなせずにおろおろと、家の周りを行ったり来たりするだけの僕たちだ。今朝もテレビじゃ、何処かの町ではイノシシがガラスを突き破って家の中に入り込み、出て行った後、小学校の校庭で子どもに怪我を負わせたなどという報道もあった。
ただこんな雨の寒い夜は、猿たちはどこか山の中腹で身を寄せ合いながら夜を我慢しているのだと思うと、少々哀れな気持ちになってくるから不思議。
頭の毛が10ミリ位になってくると、シャンプーの泡が立たない。何故だかわからないけど、立たない。女房は「?不思議じゃんねぇ」というが、短いほど泡立ちがいい。最もほとんど皮膚に近い頭じゃ、泡を手にとって「ふーっ」て吹くような光景にはならないが。それで帰宅後に、パット・メセニーを聴きながら裏の風呂場で刈った。気持ちさっぱり。泡立ちも心地良い。いくら延ばしても2週間が限度だ。一人で勝手に刈るのだから家族には迷惑かけないし、金もかからない。結婚当初は「あんまり短くしないでちょうだい」なんぞといった人も、今じゃ何も言わなくなったし、興味の外に坊主頭は行ってしまった。僕だけが自分で刈って、洗髪後の乾いた頭をいとおしく撫でるだけだ。雨の夜はくだらんことをいつまでも書かせる。断髪。
じゃなくて断筆。

2003年11月19日(水)晴れ
加藤登紀子のコンサートのお誘い。 GYROで大聖寺に来てくれた沼直也氏は、いま加藤登紀子さんの秋のコンサートツアーのドラマーとして参加してます。(オヤジダンサーズの仕事もされているようですが)で、山梨でも11月28日(金)に県民文化ホールでコンサートが予定されています。
僕は彼女の歌う姿勢には比較的共感できるところもあり、好きな歌もあります。彼女は国の内外を問わず、良い歌を取り上げて持ち歌にしてしまうことにひじょうに長けている人です。お時間のある方はぜひ聴きに行ってください。加藤さんの歌を飲みながら聴くというようなことはできないと思いますが、きっと晩秋に深く心に残る歌の数々を聞かせてくれることと思います。
南天の実が赤くしっかりと色づいてきた。池の上の一本のもみじも色が良くなってきた。今週末は期待できそうかな。
「掲示板」作ってみたんですけど、果たしてどんなものか、一応お知らせ。
(20:16) 女房は7時半からエアロビクス教室に通うのだといって嬉々として出かける。僕は来週の秋葉山の祭りのシメを切る。来週から始まる法事の法話を考える。法事も檀家がたくさんあってひっきりなしにあれば、法話の引出しも増えていつでも臨機に引き出せたりできるのだろうが、こちとら法事でさえ年に10回もない寺なので、法話はいつも産みの苦しみだ。でも考える。法話の一つもできないで食事や酒をたらふくいただく訳には行かない。これが僕の僧侶道の仁義だ。

2003年11月18日(火)晴れ
穏やかな秋の一日。 午前中は「峡南地区戦没者遺族大会」という物騒な集まりの引率。遺族会という団体、下部の町の遺族会はそんなでもないのだが、上部団体が活発で、まさに今日も、遺族の集まりに際し、壇上から語られるのは選挙の話。遺族保証を頑張っているので××先生の名前を具体的に挙げて、「書け」と迫る。僕はロビーに居て読書しながら天井のスピーカから流れてくるこれらを否応なしに聞かされるはめになる。「何故にこんな集まりに僕らは公務の時間を割いて送迎を行わなければならないのか?」。
会場は増穂町の文化会館。はじめて行った所だったが、風もなく穏やかな午前中で、外の芝生の上に寝転がっても気持ちいいだろうなと思った。夜のローカルニュースじゃ、紅葉ももう見頃をほぼ過ぎたというようなことであるが、寺のもみじは今年は紅葉しないのだろうか?朝夕の寒さも増してきたので、深い色も進むのではないかと期待しているが、果たしてどうなんだろう。
今日は早めに帰り、晩飯前に塔婆を4本書く。今月末の日曜から3週、日曜の法事が続く。そんなこんなで師走となる。

2003年11月17日(月)晴れ
今日は暖かな日。こんな日の夜は冷え込みが強い。 午後から社協合併の事務会議。5時過ぎに帰ってきて、そのままデスクワークに取り掛かったらなかなか終わんなくて8時過ぎまで。
役場の同僚も5人が残業。役場の方も慢性的な残業者ばかりだ。
今夜は飲まないと思っていたがやはり遅く帰ると飲みたくなる。缶チューハイ2本。友達から猪鍋を喰いに来ないかとのお誘いがあったが、さすがに今日は出かけるのはやめようとお断り。
寒くなってきた。内藤君よりGYRO Liveの写真をCD-Rにて貰う。かぶりつきの彼のショットを満喫。よい!よい!と、少々の酔いを楽しむ。

2003年11月16日(日)晴れ
福祉健康まつり終わる。 今年は午前中の準備で12時半からの式典と記念行事としたが、おおむね順調に終わった。ひょっとしたらこれが最後となるのかもしれない。午後からは天候も随分と良くなり、役場の駐車場での露店のお店も少しは賑わったみたい。
片付けを済ませて僕は夕刻5時前に帰宅。女房と子ども等はまだ甲府から帰っていず、母もスイミングから戻ってはいなかった。夕の闇が降り始めるなかをお不動さんでお勤めを澄ませ閉堂。この時季はなんだか心細くてさびしい。こんな事が予測できたので、T君に「俺帰るからな」と投げて急いで帰ってきた。灯りもない寺が本堂も開きっぱなしじゃあまりに寂しくて物騒であり、恥ずかしいしお不動様にも申し訳ない。
俺たちはしっかりと寺守であり、墓守であることを自覚していなければならない。なので時には本堂を閉め切りにする日もある。これは僕がサラリーマンをしている限りは仕方がない。来週の日曜日23日には47歳になる。勤労をあまり好まぬ人間が図らずも勤労感謝の日に生まれているのである。頭を下げて世界中の人たちに謝りたいといつも思う。
※くしゃみが今3発も出た。...また出た。
まだまだJYROを放したくない。今夜もLive音源を聴いている。振る舞いように買った缶チューハイが結構残っているのでこれを僕は片付けながら、女房と話していたら、僕がLiveの夜に、「年2回ぐらいはこんなLiveをしたい」と話したのに触れて、「やるんだったら5月と11月がいいね」と唐突に言ってくれた。5月はまだ虫も出ない頃なので、客殿の窓を開け放ってもいいかもしれないと。ありがたい話で百人力。この話は大事にしたい!!!。

2003年11月15日(土)くもり
曇り空。新しい町の名は身延町。 予測はできたことだけど、今朝の朝刊に合併する新町の名前が「身延町」に決まったと載っていた。そうか、身延町か。僕は小学校3年生まで身延に住んでいたし、母の実家は身延だ。母の甥が身延町の助役をしている。僕の従兄ということになる。
でも中富の名前が無くなるのはなんともさびしい気持ちにはなる。
休みなのでゆっくり寝坊してパンを食べてお勤め。休みの日のお勤めは平日が朝慌ただしいので、ゆっくりとする。曇り日で寒い。体を動かすのも億劫になり、GYROスズキ氏のHPへ。今回の松本から大聖寺の小さな旅のことが「Gyro信州甲斐の小旅」というタイトルで綴られていた。興味のある方はぜひ読んでみて下さい。
スズキさんが演奏終了後に、聴衆を撮った写真は秀逸です。まさにこの笑顔笑顔がこの夜の全てを物語っています。
上の公開中写真に、Brother AKIから送られてきた3枚も追加しました。
(17:45)午後は女房と息子と境内の落ち葉掃き。娘は塾。息子と落ち葉を掃くのも今年が最後になるかもしれないなぁなどと思いながら、まだまだ落ちきらないケヤキをはるかに見上げながら思う。お楽しみは焼き芋である。今年2回目の焼き芋に今日はジャガイモも加わった。僕は甘いものが苦手なので、ジャガイモに醤油やバターを付けて食うのが好きだ。あまり天候がはっきりしない一日で、一日中寒かった。寒いからだが竹箒や熊手を使ったりして暑くなる。ジャガイモはほくほくと美味かった。境内に紅葉はまだやってこないが、僕は家族で掃くこの果てのない晩秋の行いが好きだ。

2003年11月14日(金)晴れ
夜の仕事で10時に帰宅。 帰宅して晩飯に、湯豆腐・きんぴらごぼう・キャベツ・焼酎お湯割3杯。
自衛隊の派遣には絶対反対。安全だとか危険だとかの問題じゃない。何度も言っているように、日本という国は戦争を放棄しているのですから、いかなる国の紛争にも自衛隊であろうが出しませんよというのが筋。これを世界への手本とする断固とした「こっちの側からの強い意思」がほしい。
今夜はだいぶ冷えている。朝も寒い。日曜がまた「福祉健康まつり」で仕事なので、明日は少し落ち葉でも掃かなくちゃならん。平和のことを考えながら寺のことをする。寺のことをしながら平和を考える。僕はゆっくりでも漂っていても、生ある限り戦争に反対し続けたい。タイミングを待つなんて馬鹿なことを考えるのなら、はなっからやめりゃいいんだよ。弱虫だっていいじゃねぇかと思っちゃうね。

2003年11月13日(木)くもり
どうも天候ははっきりしない。 土井たか子氏がやっぱり党首を辞任だ。社民党は果たして再生なるのだろうか。労働組合が名前だけのものになってしまい、社民党を支持する組織も随分と少ない。僕は憲法9条を護るためにもこの党には、解党だけは避けてもらいたいとは思う。
政治は興味がないが平和には興味がある。僕はいつだってそんな風に一人思いながら暮らしを続けている。50に近い年の僕が戦場に駆り出されることはないかもしれないが、息子を含めた若い世代にそんなことが決してないような世の中を持ちつづけなければなりません。
GYROは大きな反響があり、今日も職場に復帰したら賞賛の言葉がいくつも返ってきた。GYROのメンバーもえらく感激して興奮しているようで、それぞれの場所に帰ってからメールや掲示板に「大聖寺Live」のことを書いてくれている。GYROの「LIVE at 入谷なってるハウス」が高岡君のmegaphone labelからCD-Rで出てます(まだ正式には告知されてないようですが...)ので、是非聴いていただけたらよいかと思います。
当分GYROの熱いライブの興奮は体から抜けないと思う。抜けてしまわないように栓をしておきたいぐらいに思っているんです、実は...。

2003年11月12日(水)晴れ
50人も来てくれてGYROの夜終わる。 本当にこんなに来ていただいて感謝感激の夜でありました。ミュージシャンたちも相当喜んでくれました。聞き手の側がどんな反応するのだろうか予測できずにいたので、音を出すまでギタリストには戸惑いもあったようだけど、5分位で迷いはまったくなくなったと終わってから話してくれた。
ストーブも点けずに熱いファンキーなJazzを堪能できて、僕はGYROを呼んで大成功だったと確信。普段音楽ましてやジャズなど聴くことはないかもしれない大多数のお客さんたちが、素直に体を動かして反応してくれる姿は感動です。
ドラムの沼君は深夜に帰ったけれど、演奏後も宴は続き、皆が帰った後も、スズキ、高岡氏と果てなく飲んだのでした。老体はいささかお疲れ気味で、妻も今日はちょっと体調不良のようだったけど、僕は今後も寺の持つ力を引き出せる手ごたえのようなものを感じた。写真は上のフレームから。

2003年11月11日(火)
GYRO in 大聖寺 今夜。間近。迫る。 山梨日日新聞の「高すぎないかお寺の戒名料」という投書に興味を引かれたので読むと、多分僕が今月3日に招かれた宴ではないかと思われるところがあった。これは結婚披露宴と住職の晋山披露を兼ねた宴であった。「その披露宴は400人という大宴会で、ただただ驚くばかりであった」「経済状況から考えても、常識から考えてもやりすぎではないか。しかもお寺さんの息子の披露宴である」と。まあ、いささか僕も驚いたが、父親が山梨の仏教界ではなかなかの重鎮であるし、新婦の家も富士五湖にある町では名家で、父は現職の県会議員、また祖父も県会議員を務め、大きな建設会社を経営しているという事情。これは、家同士の披露である。本人たちの思い以上に、家や寺という大きなものが影に存在する。それでこの後が問題なのだが・Bここから一転して、タイトルの「高すぎないかお寺の戒名料」という本論になるのである。前説に使われた当事者たちはこれを読んだらいい迷惑である。「それでなくてもお寺に対しては不信感しかない」とばっさりいきなり斬ってくる。「今年もいくつか葬儀に携わったが、お寺さんの戒名料あるいは回向料には驚きを超えて『そんなに!』と、」「昨年よりも今年の方が5万円は高くなっている」つましい生活を余儀なくされている我々に対して「葬儀の際のお寺さんだけは相変わらず『バブル時代』並みで、年々料金を上げている。」「平日は高級車を乗り回して、週2回のゴルフも楽しむ」と、最後は興が乗って一気に書き上げたとでも思いたくなるような、(甲府市・読者55歳)である。
まあ、この投書がすべて本当のことなのか後半はいくらか虚飾されているのではないかとも思えなくもないが、現実にはおそらく一握りではあるだろうが、このような僧侶も存在するのだろうとは思う。ただ、僕には僧侶というものへの評価をこのような投書の内容でひと括りにされてしまったらいささか辛い。大きな寺だけが財力をつけて貧しい寺は後継者を得ずに崩壊していく現実もある。僕もここのところ息子の大学進学や、町村が合併したところで自分が暮らす地域に人口が増えるわけではないというようなことも思い、寺の先々のことをぼんやりと考えていたところだ。先週の土曜日の夜「光明真言」の時にも、来年の「光明真言日程表」を配りながら檀家にもこの辺のことを正直に話した。
この投書に対しては、僕自身は何ら後ろめたさを感じないし、こんな投書など一蹴するだけの寺を守り、寺に生きる僧侶として「やることはちゃんとやってらぁ」と反論できるだけの自身と誇りがある。僕の寺は僕ら家族を経済的に養ってはくれないが、心の安らぎを与えてくれる。投書する側からは、不景気な世の中だから余計に他人の暮らしの贅沢さのようなところばかりが目に付いてしまうのかもしれない。そういった観点からすれば、回りに対する配慮に欠けるところも披露宴にはあったと認められるかもしれない。僧侶だって、それぞれが個人なんだから千差万別だ。考え方や生き方の違いはあって当然なのだ。
今月父の七回忌を迎え、この寺で檀家にも「住職」としてある程度認められてきたこともある。僕にも晋山式くらい可能であればしてみたいという思いは正直ある。しかし、伽藍の大きさに反比例する寺の経済状況はこのことを言い出すことを僕に良しとさせない。また、晋山式に金をかけるなど「馬鹿らしい」と考える自分も片側にはしっかりと居て、この片側の僕のほうが遥かに大きい。落ち葉を掃き続ける晩秋や、草刈りの夏や、サラリーマンとの二束のわらじで、決して楽な暮らしではないが、僕は大の字に寝転んで少々大きな音で音楽を聴いても苦情の来ない、せいせいとした大きな柱と梁に支えられて建つ寺が好きだ。寺の存在を超えることなんて到底できない。僕はここで修行をさせてもらっている。今夜この修業道場に若いジャズ・プレイヤー(GYRO)を招き、ジャズの一夜を仏やご本尊にプレゼントする。
「午後4時頃の入りでいいですか」と、何やら業界用語のような高岡君からのメール。寺に来ることのできない遠くの方からも、応援メールをいただいている。今夜は大いに楽しんで飲もうと思う。今夜の参加費2000円は決して高くはないはずだ。
投書への僕の意見はざっとこんなところ。もしこれを読んで感想もたれる方がいましたら、どうぞお便りくださいまし。
GYRO今からでも間に合うよ〜〜〜!!雨はちょいと残念だけど、待ってるよ〜〜。
(17:08) GYRO様ご一行無事到着。リハーサル中。今宵はここまで。

2003年11月10日(月)
自民大勝ちして、社民は解党か。 土井たか子も小選挙区では落選したというし(比例区で首がつながったらしいが)、社民党の顔ももう飽きられてきてしまったな。これに代わる顔になるような役者は居ないし、社民党は解党するかもしれない。時代の流れと時代は変わっていくものだと感じる。
今朝も雨。予想より早く帰ってきて、寝たのが午前2時前。容赦のないサラリーマン公務員生活の月曜の朝。
明日GYROです、よろしく。
(21:06)一日中眠かった。特に午後は合併の定例の集まりをしているが眠くて仕方がなかった。明日うちに来るjazzミュージシャンたちは掲示板に書いたりしているのは、朝の4時だったりするけど僕にはそんなのはもう無理だ。
明日も雨で寒い日みたい。女房と話す。「寒かないだろう。ストーブはいらねぇだろ」「そうかなぁ。はじまる前に点けといて止めたらどう?」そうだな、女房には頭が上がらないな。
明日の今頃は、GYROに楽しませてもらうぜ。今夜は早く寝る。

2003年11月9日(日)晴れ
12時回ってしまったので早く書いて眠らなきゃ。 午後10時過ぎて明日の投票所の選挙人名簿を役場に持ちに行き、12時手前まで同志会で酒飲む。風呂から出て台所に行くと、深夜族の女房と子どもたちは土曜の夜の続きを楽しんでいる。
女房は明日身延高校の同窓会に行くのに、いっこうに寝る気配がない。僕は明日「5時に起こしてくれ」と言ってここに居る。
そうだもう今日のことだけれど、選挙。帰ってくるのは今頃になってしまうのかもしれない。選挙は仕事としてとらえた以外、まったく僕の気持ちには入ってこなかった。名簿を持ちに行ったときすれ違ったT君が、「11日は宿直なのでLive行けません」と放った言葉の方がズシンと痛手だった。
同志会のほうからも何人か来てくれるようなので楽しみにしている。
今夜は一五夜で、光明真言はいつものメンバー。寺が寺として継続できないときが来るかもしれませんと、少々気にかかる話もしてみた。投げかけてみた。町が合併したとしたって、それでこの村が大きくなることなんてないのだ。

2003年11月7日(金)晴れ
冷え込む天候になるのだというが、用心深い僕には到底備えなんてできない。 長いタイトルになった。今夜は酔っているので今、風呂から出たけれど書くことあたわずと家族の視線がある。
眠いので寝る。夜汽車のブルース。
(10分後にこれを僕が見たら、もっと酔いが回る。恥を偲んで。)

2003年11月6日(木)晴れ
雨上がって暑くなる。 加川良で過ごす夜というのも懐かしい。大阪のNさんから、なんと7枚も加川良を送っていただいた。真っ先に「下宿屋」を聴き、加川良をイタコのように僕の記憶の中に呼び戻した。
思いがけず幸せになれる夜。帰りがけに秋山さんから塩辛をいただき、缶ビールを飲む。高岡君からはGYROのときに、低音環境の新しいCDを持ってきてくれる返答もあったのでこれもまた楽しみ。世の中楽しいことばかりじゃないとはわかっているけど、わかっているから、ほんの一握りのほんのひとときの楽しみや幸せな時間を大切にしたいじゃないですか。期待しちゃうぜ!
夢でない現実の幸せは、瞬間でも永遠だ。これが色褪せることのない輩と共有できたらまた最高だ。価値のある一瞬に僕は命を削ってでも賭けたいと思う。友達にも家族にもこの瞬間はとても価値がある、はずだ。また月が満ちるときが近づいている。

2003年11月5日(水)くもり
夕方から雨。たくさん降っている。 今夜も夜の仕事。10時に帰ってきて、飲み物もないので晩飯を掻きこんでここ。
「防災の講習会」をやっているので、雨が降っていることが何とはなしに気にかかる。バケツをひっくり返したような雨が一時間も続いたら、土石流が来ることにも警戒したほうがいい!などと。
2回の講習会を聞いて、どうもこの東海沖地震や関東直下型地震もいよいよ本当に来るのかもしれないと思えてきた。専門家は必ず来るというのだ。周期があって、もうその平均周期を超えているので、時期が先にいけば行くほど起った時の地震は大きな災害をもたらすという。ここ5年の内に必ず来そうな感じを受けた。来年であるかもしれない。
僕の住む地域は6乃至7に近い地震の規模になることが予想される。わが家は当然全壊するだろう。寺の建物はどうだろう。太い梁や柱はそれを受け止めて毅然として残ってくれるだろうか。
お不動様が護ってくれることに期待を持つだけだ。大ケヤキは倒壊しないだろうか?
心配し始めると留まるところがない。今夜の雨音はイヤな雨音だ。

2003年11月4日(火)晴れ
投票済ませる。 小選挙区があって比例代表があって、最高裁判所裁判官の国民審査がある。投票する側はまことに複雑で厄介なもの。投票箱を3つも用意しなければならない。うっかりして、別な箱に入れたとしても、開票所ではすべての箱を開くので、特別な問題はないのだが、やはり選挙をするものにやさしいものではないように感じている。裁判官の審査についても、現実離れしたやり方というか、罷免される裁判官なんかきっといないと思う。白紙で投票すればそれは罷免に価しないということになるのだからな。午後8時までの投票時間にしても、この時間をなぜ設定しなければならないのか理解に苦しむ。僕の町は投票所が15くらいあって、それぞれがほんとに小さな単位で、30票くらいのところもあって、立会人のなり手を探すのに、選管の職員は毎回苦労しているという。午後6時までなら主婦もまあいいでしょうということになるが、午後8時だと夕飯の仕度もできないので断りを入れてくるという。
僕たち職員も8時に終って開票事務がおそらく9時から始まっても、小選挙区・比例区・裁判官と流れて作業していくと、きっと午前0時を回るはず。裁判官の罷免パターンがまちまちで、この集計はかなり厄介になってくるのだ。
GYROは火曜日にして良かった。月曜だったら僕の役場の友人たちは選挙疲れで来てくれないような状況になったかもしれない。GYRO聴き逃しのないように。

2003年11月3日(月)くもり
帰ってくるときには雨止んだけど。 今日は塩山市の放光寺の住職の晋山式。あいにくの曇りだったけど、雨が落ちることなく式は終了。真言宗智山派の古刹である。三十三世の住職の晋山式と併せ、9月にこのご住職結婚したので、その披露も場所を移して行われた。
400人以上の披露宴の招待者で、学校の体育館よりはるかに大きな会場での披露となる。坊さんがこんなにたくさん居る宴には出たことがなかったが、でもみなやさしい顔をしている。外見でやくざも坊さんも区別がつかんとか言われることもあるが、今日のは見るだけでわかると思うがなぁと思った。早く食べたかったのか飲みたかったのか、祝いの席なのでみなやさしい顔になっていたのか。
坊さんはいつもこうでなくちゃなと自戒しました。僕は真言宗に僧籍を持つ坊主だけど、今日披露宴でお祝いの言葉を述べた臨済宗の二人の高僧(老僧)のお話しは簡潔で良かったし感銘した。人前で話しがうまくできるようになりたいといつも思う。今日の話も僕の中では「いただき」の話しだった。こんな話だったと思う。師の後を継ぐものは、師と同じレベルであってはならない。それであれば半減である。師を超えるレベルにあってこそ、また後につないでゆけるものである。というようなことだったと思う。いささか酔ってもいるし一日も疲れたので、これで勘弁させてもらうが、この言葉はなかなかに良かった。禅宗の問答のような味わいがにじみ出ているように感銘した。
明日からまた頑張らなくちゃな。

2003年11月2日(日)晴れ
大工のHちゃん。 僕より一つ年上で大工をしているHちゃん。檀家でもある。彼とは非常に仲がいい。大工仕事のからきしダメな僕は時々困ったことがあると彼に頼む。
今回も昔ブドウの集荷場(今はある陶芸家に倉庫として貸してある)としていた建物の窓枠が外れて落ちてしまい、南側がもう相当に老朽化しているのでベニヤ板でも貼ってしまおうと考えていたが、いざ実行するとなると、何をどんな風にしたらいいのか考えがそこから進まない。それで夕べやっぱりHちゃんに電話をしたのだった。今朝8時に来てくれて現場を見てお願いすると、もう1時間後には材料を持ってきて2時間余りで補修してくれた。手順もいいし、作業にまったく無駄がない。
僕はそれを感心しながら後ろから眺めているだけだ。見惚れるとでも表現したほうがいいかもしれない。「材料買ってきたりするとまた高くつくからさ、うちにあるもので直しとくよ」と、これまた弱小寺院の檀家としても、深い心遣いである。それぞれの持つ技で僕に協力してくれるので、僕も僕の持つ技で彼らの力になることもある。
秋の午前中の風景でした。

2003年11月1日(土)晴れ
静かに11月となり。 父の命日の11月1日も少しずつ暮れていく。いい七回忌の命日だ。夜はまた少し酒を飲もう。
紅葉も少しずつ深くなる。境内は風も止まってシンとしている。キリリとした冷たさがまたいい。こんな季節に僕も逝きたいものだ。
GYROのLive音源を秋田のIさんから送っていただいた。いい!!かっこいい。アバンギャルドにかっこいい。やばい!!待ちきれないもどかしさ。11日が楽しみ。
暮れ始めてきたので夕のお勤めをしてこよう。そして......そうだっ!酒を飲もう。

2003年10月31日(金)晴れ
10月も終わり。
もう10月も今日でお終い。あとふた月で今年も終わり。残りの60日は余り大きな事件がないような年の終わりになってほしいものだ。
紅葉が遅いのか、夏の異常気象が影響しているのか、山はあまり黄色くもならないし、全体に色づきが悪いようだ。来月11日のJYROには、池の上の紅葉に色が付けばいいなと思うが間に合うだろうか。
明日は父の命日で、ちょうど6年が経つ。つまり七回忌である。僕は家族にも特別な七回忌はしないといっている。僕は日々供養をしているし、また家族も子どもたちを除けばそれぞれに思う人たちを供養しているので、僕はそれでいいと思っている。
僧侶になるときには僕らは俗界を去り、あの世の人となる。生きながら葬られているのだから、肉体が消滅することを特別なこととしないのが本来の姿かもしれない。ちょうど6年前も11月1日は土曜日だった。その日の天気はどうだったかなんて覚えちゃいないが、その夜に父が息を引き取るとは思ってはいなかった。もう間近だとは予感していたが。ベッドの脇の簡易トイレの中に、夕方したのだという「10センチ位のウンコ」が一本残っていた。多分僕は自分の肉体が滅びるときまで、あのウンコは忘れないだろう。

2003年10月30日(木)晴れ
愉快なオチだ、キタガワカズミ。
北朝鮮に亡命申請したとされるキタガワカズミなる人物は、元オウム真理教の信者だったらしい。コメントがまた洒落ている。「麻原以外に崇拝できるのはキム・ジョンイルだけだ」というのだ。お笑い北朝鮮とお笑いオウム真理教だ。
松本智津夫(麻原彰晃)の弁護側最終弁論が明日始まり、昨日は、松本と地下鉄サリン事件に関与した、元幹部の中川智正に死刑判決が下された。7年以上が経過しているが一連の事件はまだ最終には至らない。麻原にしても上告すればまだ審理は果てなく続くことになる。「弟子の暴走で麻原は無罪」とする弁護側の主張も、僕たち市井の人間には何か政治化の舞台と同じような、カラカラ空回りの遠いところで行われている、ステージの高いところの人間のお遊びのようにしか映らない。琴線を刺激するようなことが決してない。残念だ。
今日もよい天気。ツワブキの黄が朝の光に応えて一層輝きを増す。こちらのほうがずっと、僕を再生(蘇生)させてくれる。人間はもの喋る動物なのに、喋る言葉に真実を感じ取ることができなくて、物言わぬ花や光や風から真実をもらうということはどう考えたらいいのだろう。これが大日如来の世界なのかもしれない。

2003年10月29日(水)晴れ
キタガワカズミとは。
2チャンネル見てたらけっこう皆言いたいこと言ってて。「ダイエットしたかったんだろ」「電波少年の新しい企画なんじゃねぇの」「喜び組に入りたいんじゃ?」「元『裸のラリーズ』のベーシスト(よど号ハイジャック犯)の若林に会いに行ったのかも」などなど。北に亡命したいキタガワカズミさんは、巷じゃちょっとは時の人。
今日は朝冷え込んだのか日中はいい天気になった。暑いくらいだ。今朝は富士川に川霧が立ちこめた。まったくこんなのと関係ない僕の日常。
今夜はまたこれから仕事。帰ってきてから飲むか、遅くなるので今夜は飲まないで寝るか、目下思案中。

2003年10月28日(火)
雨。阪神負けて涙の雨か。
メールで知り合うことになった大阪のNさんからも、夕べ「今日も阪神がダメみたいで余計に気落ちしているところ」なんぞと、今朝開いたら届いていた。
全てホームチームが勝つという初めての結果に終わったそうだが、闘将星野は阪神の歴史のなかでも大きな足跡として語り継がれるだろう。2年間を駆け抜けた星野の後には、また来期は焼け野原のような光景が見られるのかもしれない。これは失礼!
雨が冷たい。こんな日は仕事に行くのも億劫だ。
選挙の公示。今日の雨はどの政策論者に味方するのだろうか。
(23:05)何故によりによって北朝鮮に亡命など求めるのか?「キタガワ・カズミ」なる人物どんな女性なのか。驚いたなぁ。死にに行くようなもんだ。それにしても連日北朝鮮がらみの報道が続く。夕べも筑紫さんの番組では、脱北者の強制収容所の実態を再現する大きなニュースが流された。ここから推し測っても、北に何故に行かなければいけないのか?わかりません!!??

2003年10月27日(月)くもり
子ども投票。
北海道奈井江町の合併の是非を問う住民投票は、小学5年生から高校3年生までを「子ども投票」、それ以上を「一般投票」として実施され、どちらも合併にNOという結果が出た。またこの住民投票は、小学5年生以上の永住外国人にも投票資格が与えられたことをホームページで知ることもできた。町長はこの結果を「住民の意思を尊重する」とコメントした。特に子どもたちは、自分の生まれ育つ町を残したいという気持ちが強く働くのだろう。純粋にふるさとを愛する気持ちが表れる。僕はこんな清らな心を尊ぶ町がうらやましく思える。
明日衆院選が公示されるが、大人も純粋な気持ちで一票を投じたいものだ。例えば「わたしは平和なニッポンが大好きです」という子どもが居るなら、その子たちのために、平和な国を残せるよう努力してくれる人に託したいと思う。ブラウン管の向こうに見える政治の世界は、僕たちの日常とあまりに懸け離れすぎた。不信感さえ募らない。萬民を無視して互いに牽制し合う行為だけを映し出すメディアも同罪だ。
「私は自民党の政治家になるために東大に入った」と言ってのける学生を先日テレビで見たが、はっきりとした理由など特別にあるわけじゃないが、僕はこんな奴に託したくはないと思ったね。

2003年10月26日(日)晴れ
八幡様のお祭り。
良い天気。雲ひとつない。
元気な子ども神輿が村を回って、八幡神社の秋の祭典。午後からは区民運動会とカラオケ大会がある。ユニックのクレーンから万国旗が2方向に張られ、その荷台がステージになる。
お不動様も今日は一段と喜ぶ。

2003年10月25日(土)くもり
品川パーカッション・セッション。(写真clickで大きな写真へGo!)
勝沼メルシャンワイナリーへ品川パーカッション・セッションを聴きに行ってきた。高速を使えば勝沼までちょうど1時間。往復1100円は僕にとってそんなに高いものではない。30分だけのステージだったが、気持ちが良かった。彼らは月2回品川駅でストリートLiveをしているとのこと。
JYROで来月来てくれる沼くんもメンバーで、彼の通称トラベルセットというドラムセットも拝見できたし、少し話もすることができた。
自分の好きな時間を楽しむことができるのは幸せだ。女房と息子は午後落ち葉を掃き、今年はじめての焼き芋をした。JYROの頃に紅葉がはじまるか、あと2週間とちょっとだ。「サンセット・ストリップ」という、1972年の若者たちが夢見る映画を今見ていたが、アナログの中に嘘偽りのない本当を見ているようで、僕にはこんな時代が懐かしくてたまらない。昔を懐かしがるなんて、相当年を取った証拠かもしれない。

2003年10月24日(金) 晴れ
阪神2勝。
言っておくが別に阪神に肩入れしている訳ではない。適当な朝のタイトルが考えなかったので。
夕べは某友人の家で、何年ぶりかで本物の「すき焼き」なるものを食べた。すき焼きにはやっぱり酒である。飲んだ。掟破りの酒を飲んだ。
子を授かった女は神々しい。これも食べたいあれも食べたいといっても、「私が食べたいんじゃない」と言い訳がたつし、実際そうなのであろう。ゴロンと寝ても、その姿は神の昼寝のようなもので、決してその上を跨いで通るなんて考えられない。元気な赤ちゃんがこの世に現れて平和の使者となってくれることを僕は密かに思う。
今朝の空は秋の空色している。深い青に大きな太陽がもう輝いている。風が少しあって冷たい。冷たいくらいが夕べの酒飲みには嬉しい。

2003年10月23日(木)くもり
今朝は曇り空。
阪神はやっと一矢を報いた。アメリカでは松井の居るヤンキースが2勝目をした。見ることに興味はないが結果が待ち遠しい。
つわぶきの花が開き始めた。彼岸花の後にこのつわぶきの黄色も晩秋にまたいい。松葉に残る雨の雫もまた朝の賜物のような気がする。こんな風に毎朝穏やかな心をもてたらいいのにと思う。森羅なる安穏とでもいうのだろうか。

2003年10月22日(水)くもり
ざんげの値打ちもないさすらいのギターを持った渡り鳥よこはまたそがれて霧にむせぶ夜
ヘルパーが帰ってきて、「局長知ってますか『霧にむせぶ夜』。誰でしたっけ?」と。即答「黒木憲です」。この唄は去年内藤君からもらった三上寛のカバーアルバムに収められていて、一時カーステレオに入れっぱなしではまってしまっていたのだ。「涙じゃないよと言いたいけれど こらえてもこらえてもまつ毛がぬれる 君より切ないこの俺なのさ だから笑顔がほしいのに さよならがさよならが霧にむせぶ夜」と、今夜はまた棚から出して聴いているのだ。
ヘルパーはきっと僕より年上なので、黒木憲が歌っている光景を思い出せたかもしれない。今ちょっと調べてみたら1968年の唄ということで、この年には「伊勢佐木町ブルース」「イムジン河」「薩摩の女」「ケメ子の唄」「ゆうべの秘密」「恋のしずく」「花の首飾り」「エメラルドの伝説」「悲しくてやりきれない」「神様お願い」「恋の季節」「ブルー・ライト・ヨコハマ」「愛の奇跡」「三百六十五歩のマーチ」「今は幸せかい」「山谷ブルース」「小さな日記」「友よ」「知りすぎたのね」などなど、全部頭の中で曲が追える、そうそうたるヒット曲が発表された年だったんだ。
いま発売されるJ-popなんてものは、まったく知らないし興味もない。小学校6年生だった僕はこんな歌を皆が歌っていたので、知らず知らずに口ずさむようになっていた。その頃は、歌が生きる力だったのかもしれない。その当時の担任は、給食の後に毎日2人ずつ唄を歌わせたように覚えてる。68年は、66年に発売された千昌夫の「星影のワルツ」に大きな火が付き大ヒットとなった年でもあるらしい。こんな歴史なら百点が取れたかもしれないなぁ。
それにしても三上寛「えん歌の世界〜船頭小唄〜」というAlbum。傑作だね。年に一度は思い出したように帰ってみたくなるアルバムだ。

2003年10月21日(火)晴れ
今朝も良い天気。
阪神は本拠地に戻って決して落とせない一戦を迎える。シリーズ前に星野監督が健康上の理由で監督をやめる意向を明らかにしたので、そんなことで選手が一丸となれば4戦負けなしで勝つこともあるんだろうかと思っていたが、あに図らんやダイエーの圧倒的な破壊打線だ。
わが家では僕や息子より女房と娘が野球に熱心で、僕は大リーグを休日にダラダラと見ているということをよくしたけど、イチローや松井の活躍には胸沸くものがあり、日本の野球のどこか小ぢんまりとした魅力の無さだけが年々目立ってきてくるような気がする。
これを書く間に正面の太陽は誇らしく登りつづけている。山茶花が開き始めた。山茶花の命は長い。山茶花はひんやりとした朝、靄のかかった朝に気高く凛とある。梅雨の紫陽花とこの寒い時期に咲く山茶花が好きだ。そう言えば紅葉も始まる。もみじは今年も目の覚めるような赤を見せてくれるだろうか。
先日拉致事件のテレビを見ていたら、北朝鮮には桜が無いのだという。サクラは日本の象徴なので一本残らず切られてしまっているのだとか。帰国した5人は拉致されたときから再びこの国の土を踏むまで、桜の季節を知らなかったのだ。こんなこともあるのだなと、いつもある風景の変わらないことのありがたさを感じた。

2003年10月20日(月)晴れ
今日も日中は暑い。
月曜の朝は一段と布団から抜け出るのが億劫になってきた。寒いのだ。炬燵の中は自分だけのサンクチュアリ。
今朝は運転のK君が休暇を取っていたのでデイサービスの迎えに出る。お年よりも手袋をし始めたりと、少し厚着になってきた。風も強くなってくるので、これからの季節が一番通ってくるほうも辛くなるし、風邪が流行ったりすると休む人が増えてくるので、デイサービスもなかなか利用者が定着しなくなる。冬から春先には、都市に住む子供の元へ越冬にいく高齢者もいるので利用者は例年この時期が落ち込む。4年目で大体一年の動きがわかってきた。でもここに住んでいたいという本当の気持ちは職員もみなわかっているので、できるだけ健康管理にも気遣いながら、サービスをするのがこの時期でもある。
だんだん日暮れも早くなる。柿の実も無くなって、広葉樹はだんだん裸になり始める。焼き芋の季節も来る。

2003年10月19日(日)晴れ
中身の濃い日曜でした。
朝7時から地区の山道作り。鎌を持って各組ごとにそれぞれのルートから烏森山の頂上を目指す。山は年々人が入らなくなり荒れる一方だ。
猿やイノシシが増え、奴等の足跡だらけである。おまけに入らなくなったので道が崩れて無くなっていたりする。草を刈りながら、喋りながら気持ちの良い山登りをして9時には帰宅。女房は炬燵を出し、夏のテーブルと入れ替え、午後は客殿に絨毯を敷き、網戸を洗い、シルバー人材センターが剪定していった枝の山を焼却し、ついでに外便所も掃除。網戸が乾くまで自分の頭を刈りさっぱり。庫裏の屋根裏から客殿用の炬燵とストーブを下ろし、来月から光明真言は庫裏なので、床の間に弘法大師の軸を掛ける。ジャイロ用のコンパネを中に入れて絨毯の丸みを取る重石とする。その間に朱印を所望する女性1名現る。
最後に「少しだけ割っておいてあげる」と言っていた、八幡神社祭典用の花を着ける竹を割り今日は終了。勝手に一人で「よしよし」と納得。冬支度だったんだなぁ。

2003年10月18日(土)くもり
雨はやんだが、寒い日。女房は炬燵に手をのばす。
猫は炬燵で丸くなる気持ちがわかるような寒い休日。
大工のM君が自分の家を建てはじめる。棟札を書いてあげるといっていたら、午前中に板を持ってきた。1メートルもある大きなものをこしらえてきたので少々と惑ったが、高校時代のラグビー選手で体躯のいい彼らしい豪快な棟札用の板だと思い直した。

午後から気持ちを改めて、JAZZをかけながら下書きをして書いた。決してうまい字ではないが心をこめて書いた。心を込めるという言葉は重宝だ。この懸命さが相手にも伝わる。一階を作業場にして二階が家族の住居となる建物の基礎のコンクリが今日打たれていた。夕方書き終えた棟札を抱えて届けると、感激してくれたのでこちらも一安心。
昔はお寺の和尚さんなんてみなこんな感じではなかったんではないだろうか。相談を受けたりアドバイスをしたり、書き物をしたりと。便利屋さんだったかもしれない。僕はこんな坊主になりたいし、こんな姿でありたいと思う。

2003年10月17日(金)晴れ
特別書くこともない。
特に書くことも何もない。
金曜の夜はのんびりだ。ねじがうまく噛み合っていないので、調子のいいときもあれば悪いときもある。今夜はそんな感じか。寒さが増してきたので体が縮こまるので、思考も萎縮したのかもしれない。
公に書くことができないこともあるのがネット上の日記だ。ノートに日記を書く術を持たない僕としては、ここに書けないことは気持ちの中に自信で置くことになる。これはすこぶるストレスであるが、まあこれも仕方がない。100%の信頼や安全など無いに等しい世界なのだから。
こんな夜を持ち越して怠惰に過ごしてしまうか、冬支度をするか...これもわからん明日のことだ。

2003年10月16日(木)晴れ
星がきれいだ。
田舎に住んでいても夜の空を見るなんて事は滅多にない。意識して空を見上げるなんてことはほとんどない。光明真言の夜には天気も気になるし、雨でなく終わった後には空をしみじみと眺めるが、残業で遅く帰っても夜空は見ない。風呂を上がり「洪栄龍」のGuitarインストのAlbumを聴きながら、窓を開けて外を眺め空を見ると星が輝いている。きらきらと、これを”きら星”というのか。
給料明細だけが印刷されたいつもの空の袋を、女房の鏡台の上に置き、「曽我ひとみさんも、佐渡の星の銀河を眺めているのだろうか」と、ふと思いながら布団の上に仰向けに寝転がる。
今日はデイサービスの通所者の一人が急に具合が悪くなり、飯富病院に連れて行った。普段笑っている顔から生気が失せて、トロンと顔は土色になっている。この世から消えていくということはもう永遠になるということで、果ても何もない。僧であっても「死を迎える気持ちに動揺はある」というようなことを語った父の七回忌までもう半月だ。6年前の11月1日も土曜日だったことに気付いた。

2003年10月15日(水)くもり晴れ
原小学校2年生12名、総合学習で寺にくる。
北朝鮮から拉致された5人が帰国してから1年が経過し、二組の夫婦のコメントが昨日のテレビ、そして今朝の新聞に伝えられた。向こうに残された夫や子どもたちの帰国に関して、一向に進展のない状況を各人とも画面では、疲れきった表情で半ば諦めている心境なども読み取れそうであった。今朝の朝日の天声人語は、曽我ひとみの「国の仕事ということでなく、人間としてもっと深く私たちの痛みをわかってほしい」という彼女の声を取り上げていた。帰国者5人は、一年前にこの島を再び踏んだときから新たな苦悩が始まっている。僕たちはブラウン管に映る5人を眺め、「ああ、これでよかったな」と、ここから先にはもう何の障壁もないような気持ちを抱いた。子どもが居ることがわかっても、見えない子どもたちは僕たちの胸の奥まで入り込んでは来ない。黄色いリボンをつけたり、ブルーのリボンをつけたりするのは好きな国民だ。その問題をいつまで継続して風化させないように持ち続けるかが人間としての勝負だ。解決の道はおそらく容易なことではない。国会議員にとっても、解散した今はもう個々の選挙戦が始まっているので、彼らの記者会見など耳には入らないのではないか。難しい問題だ。
雨が上がり天候が回復してきた。青空が空を占拠していく。青空のような大きな希望を信じたいと思う。
子どもたちからは、突拍子もない質問が出る。「自分でご飯は作っているのか?」などいっぱい。お寺の住職は人間の形をしているけれど、やはり何か特別な風に目に映るのかもしれない。本堂を降り、ザリガニ釣りに興じた2年生は、また秋風と共に元気よく帰っていった。
ADSL環境に移行。早くなった。待ち時間は確かに少ない。またひとつこの場所に生きる張りが出るというもんだ。

2003年10月14日(火)
一日朝から冷たい雨。
こんなに寒くなったんじゃホントに炬燵が恋しくなる。我が家はまだ炬燵がない。炬燵を出すのにはちょっとした切り替えが必要なので、すぐというわけにもいかず、毛布に包まってテレビを見ることにする。
一人暮らしの同僚のT君は、「今夜は炬燵ですよ。一年中テーブル代わりに使っているんで、今夜コンセント差すだけで炬燵です」と、自由な一人身を誇らしく語った。うらやましい。
ADSLに明日切り替えなので、いつもお世話になっているT屋さんが接続の機械を持っていったので、今夜はインターネットが使えない。この日記もとりあえず書いておくだけで、明日になったら送信です。

2003年10月13日(月)晴れ
大雨が降った。で、連休は終わり。
飲みつづけてしまった。後悔はいつも始めにはない。自分の体を誰かに渡してしまいたい昨日も今日もだった。
午後2時から護摩を焚く。生木を使ってしまったために、護摩焚きでこんなにあせってしまうことは初めてであった。おごりがあった。深く反省。高名の木登り。身のほどを知れ、永明。
僕が女房や子供のことを思うように、一人がそれぞれに大切な人のことを思えば、殺伐とした世界から脱皮できるかもしれない。いい酒を飲ませてもらって、この思いを「徒然」に書くのは難しい。僕には「これは友情ではない、家族のようなものかもしれない」と思えた。

2003年10月11日(土)くもり
夜になって雨。
きっと外は雨なので冷えているだろう。お昼前に市川大門の丸井紙店にお札の注文と少しの相談。お正月に檀家に配るお札を作ってもらおうと相談。どうしても毎年せっぱ詰まってからになってしまうので、この際作ってもらおうと相談。
版木から摺っていたりしたが、ここ数年はコピーしたものを使っていたり。でも折るのが大変で、一枚35円くらいになるとのことだったのでお願いすることにした。昔は版木で複写して、今はコピーとか印刷技術でということなので、特別にこれは反則だという風には思わないし、金もないので、二色刷りで全部形も整えてもらうというとこまで頼まないので、僕らの作業工程も残ることにはなる。
夕方からパソコン周辺の片付け。来週ADSLの工事にきてくれるので、ちょっとはきれいにしておかないと。本やCDが溜まってしまう。棚に整理して、JAZZ関係は庫裏のCDラックにと分散する。もう部屋の棚もCDの収納スペースに先が見えてきた。
音を立てて雨が降っている。今夜定例会の同志会に顔を出そうか思案中。

2003年10月10日(金)晴れ
信じられない。
果樹が盗まれる事件や倉庫から米が盗まれるなどの報道は聞いていたが、まさか刈り取り前の田んぼから稲を刈り取って盗んでいくとは...。信じられない出来事だ。こんな大人気ない、モラルに反したことを平気でやるような世の中だ。小泉さんは今日衆院を解散するようだが、票の重みは一椀の温かいご飯に勝てるだろうか。
人気キャラクターを前面に出して勝ちにいこうとする。政策も何もがすべて後回しになる。数で押さえ込む。恐怖政治だ。
野鳥のさえずりと朝の冷気が部屋に入ってくる。僕はそんなことに動じない強い意思でここを生きようと思う。
(21:48) 月はまんまる。「光明真言」参加者4人。米泥棒の話し、町の合併問題、農作物の出来具合の話しなどなど。月明かりを頼りに帰る姿と声がだんだんと遠く薄れていくのを見送る。

2003年10月9日(木)晴れ
障害者の会の旅行は無事信州の夜を迎える。
午後6時過ぎにT君から電話があり、無事宿に着いたと。車椅子の参加者も2名いたので道中が不安であったが、善光寺参りも済ませ、リンゴ狩りもして何事もなく無事に宿に入ったという連絡だったので一安心。
天気は真っ青な空であったと少々興奮気味。よかった。
東京のS子さんも、引越しを済ませてあたらしい生活が始まったようでこちらも安堵。今夜も月が美しい。〜ツキノカイシャ〜と沖縄では言ったか?明日は満月。十分に気は澄み切っている。GYROである。カメラマン西岡浩記さんが送ってくださった。ありがたい。感謝。「一生懸命に演奏するジャイロ」是非聴きにきてくださいな。今日久しぶりに会った職場仲間のMくん。一升瓶下げて恋人と聴きに来てくれると言ってくれました。こんな温かいお言葉もいくつか寄せられています。なんとか成功させたい!!!∃ □ =ノ 勹_〆(・・ )♪

2003年10月8日(水)くもり
どうやら新町名は身延になりそうだ。
今朝のサンニチを読むと、公募で集計された合併後の新町の名前は、圧倒的に「身延町」が多いようだ。候補を3つくらいに絞った上でアンケートを取り、11月中には合併後の新町の名前が決まるのだそうだ。多分身延町になるのだろう。使い親しんだ中富町が消えて、寺の住所も「身延町八日市場」になるのかもしれない。母の実家は身延町なので、多くの親戚は同じ町の親戚となり、30年来の下部町の友人は、やはり同じ町のより近い友人になる。中富町の中では有名だった大聖寺は、大きな町の中ではどんな存在になるのだろう。寺はそんなことにお構いなしに毅然とあるだろうけれど、僕は大きな町のなかのたった一軒の真言宗のお寺の住職として、しばらくはもじもじしてしまうだろう。

2003年10月7日(火)晴れ
携帯電話について。
夕べ娘が塾から帰り、「お父さんケータイ買って」と切り出したので、即座に「ダメだ」と応えた。とにかく高校受験が終わるまで待てと話した。
今朝になって女房に事の詳細を聞くと、中3の同級生の女子が20人ちょっといる中で、もうほとんどが持っているらしく、夕べも塾に行っている同級生がまた一人「買ってもらった」と見せびらかしたらしい。持ってないのは誰と誰というふうに、片手の指くらいになっちまったらしい。まあ、この年頃だから欲しいということはわかるが、まだ必ずしも必要というわけではない。そしてこのケータイという奴、新機種が出ればすぐにもうそっちが欲しくなってくるらしいのだ。(同僚にもそんなことをいつも考えている奴がいるからよくわかる)。僕のケータイは、“かけず”の“鳴らず”のケータイである。僕のケータイは「檀家に不幸が起こった時用」のものなので、それでいいのだ。
娘にはケータイよりも使い勝手のいいマイ・パソコンを与えているので、誰よりも環境はいいはずで、メールができないということはなく、また無料である。しかしまあ、欲しいということはわかる。が、まだ時期を待てということだ。彼女曰く「中学校を卒業してから買ってもらったんじゃメール交換ができない」というが、パソコンでも十分にその役割は果たせるじゃん、と僕は言いたい。でも、欲しいという切なる気持ちはよくわかる。なみだ目になって部屋に帰る娘を見るとそれが忍びないふうにも思ったが...。あぁ俺もこの娘からの要求を越年で持ち越さなきゃならないのは、心底忍びないのである。

2003年10月6日(月)
雑感、つれづれに...。
千葉の16歳少女の焼死体事件で、22歳の夫を含む4人が逮捕されたというニュースが今朝報道された。夕べ飯食いながら、この夫が報道陣のインタビューに答えながら、「結婚しているけど夫婦の実態はないんです。これはプライベートな事情です。車から降ろした後、携帯にかかってきて、家につくまでの間が寂しいからと、彼女と少し話しました」とかしゃべっていて、女房に「よくこんな奴が結局犯人だったりするんだよなぁ」と話していたら、案の定今朝のニュースだ。当りすぎてむかつく。焼き殺すとは残任この上ない。詳細は今からわかってくるんだろうけど、なんともやりきれない事件だ。事件といえば、やっぱり夕べ。「真相報道バンキシャ」のなかで、奥多摩町の道端で見つかった右腕が、長時間水の中にあったのか爪も抜け落ちていて云々と。あまり晩飯のときに右腕の状態を事細かに耳の中に取り込むってのは、心中穏やかではないし食欲も減退するってもんだ。日常のニュースでこんなことを聞かされるのが当たり前のようになり、子どもたちもこれを異常な出来事だと思わずに麻痺した状態になってくることは憂うべき問題だ。
なぜこんなにいとも簡単に人を殺せてしまうのか。もっと思慮深くなれよ。事に当る前に、深呼吸してクールダウンして...。
どんよりと重たい空から雨が落ちてきて、昼休みで戻ると、シルバー人材センターの職人さんたちは、今日は帰ったようだ。

2003年10月5日(日)晴れ
晴天の一日作業。
昨日出かけたので今日は朝から作務。女房に所望されていた物干し竿の竹を三本先ず取りにいく。竹の取り方も今までだったら、一年中いつでも都合のいいときに切っていたが、「竹は秋になって水を上げなくなった竹がいい」と竹細工をする方に教えてもらった。水を吸い上げる竹は切った後に虫が入ったりするのだそうだ。秋の竹は水を吸い上げることもなく、乾いて強度もいい竹なのだそうだ。こんなことは教えてもらわなくちゃわからない。
昼休みを取って来客をこなしまた午後3時から外に。裏の池の周りの草刈り。その前に電話をした友達も「芋を掘っていてね」と、なんだか「お〜〜い!!!」って叫びたくなりそうな返事だった。
僕たちは生きることを休んだり、ちょっと停めたりすることができない。いつでも本気で生きなくちゃならない。それが大人なんだと、ずっと前には他人事のように思っていたけど、今は僕や友人はまさにその当事者になっている。遊び呆けるなかで聴いてきたRockやJazzと違って、僕は今聴きたい音楽を心底聴きたいと思ってそれを必要としているのだと思う。一日を作業した後の酒の友に僕はジャズを聴くことは人生だと思う。これが僕の定めた禁猟区だったりもする。

2003年10月4日(土)晴れ
法事一件あり、終わってワイン祭り。
A川君のところのお父さんの七回忌。妹弟が県内に生活しているので、ここに住むA川君やお母さんも心強い。賑やかな孫達に囲まれて、ここに在るお母さんも向こうに在るお父さんも、秋天のもとで楽しくお墓に集った。
法事を済ませて、昼飯も食わずに娘と女房と勝沼へ。GYROで来てくれるチューバの高岡君が、メルシャン勝沼ワイナリーの収穫祭のイベントに出演しているのだった。午後1時半と3時からそれぞれ30分と短いステージだったが、楽しませてもらった。今日は、藤原大輔(ts)高岡大祐(tuba)辻コースケ(per) のTrio。藤原さんのSaxがメイン。まあ、ワイン祭りのステージだからそれなりに彼らもってな演奏だったが、3時からの最後のステージはちょっと良かった。僕とも会ったからかな。高岡君は今夜も高田馬場で予定があるとかで、まさにチューバを抱いた渡り鳥のような男である。大聖寺のチラシを10枚ほど持っていってくれる。他のメンバーのスケジュールの都合で、大聖寺のLiveも宿泊なしで帰ることになりそうだと、少々こちらもがっかり。
ま、こちらはとにかくできるだけ大勢のお客さんで彼らを迎えたい。「一生懸命やるバンドがGYROです。」とは高岡君の弁。いい夜をプレゼントしてくれそうですよ。
元phatの藤原君に、CDのジャケットにサインをしてもらう。
終演した彼らと少し話をしていたら、なんと泉君がきた。6年振りに会った。彼は、この会場へ勤め先の「向山蘭店」から商品を販売に来ていたのだった。いやぁ思いがけず大切な友達と会えて今日はラッキー。こんないいことがたくさん続いてくれるといいんだけれど。

2003年10月3日(金)晴れ
シルバー人材センターが入っている。
毎年一回やっているお寺の庭木の手入れに、今年もシルバー人材センターからやってきてくれた。ここ数年6人分頼んでいる。半分は護持会、半分は個人の出費でまかなっている。
一人1万円くらいだから、この出費は結構値が張るのである。大体のものは僕が電気刈り込み機などでやっつけちまうが、松や梅の手入れはどうも僕にはお手上げになっちまう。さっきも職人さんと話したら、「松の芽を掻いたね」と言われたので、「ええ、去年あんたにもこのくらいできるだろうと言われたので、手の届く範囲はやりました」と応えたら、「ダメだな」と。芽が伸びても何度も掻いちゃいけないんだそうだ。僕はいいと思って、何度か伸びてきたところを掻いた。今日ご教示いただいたので、来年はこんなことのないようにします。

2003年10月2日(木)晴れ
朝羽織っていても昼は脱いでいたりと…。
出勤時にはジャケットを羽織っていくのだけれど、(羽織るというのか着ていくというのか、改めて漢字で見ると、「羽織る」は随分と古めかしいヨなぁ」)日中は気温が上昇して、シャツを腕まくりで当然ジャケットは脱いで放っておくことになる。でも、今の気候が割りと好きなんだな。11月ころまでかな。“澄み切る”とか“澄み渡る”という言葉が当てはまる季節が好きだ。
土曜日に勝沼の"シャトー・メルシャン ハーベスト・フェスティバル2003"のハーベスト・ライブというイベントに、高岡大祐氏が出演するので、聴きに行こうかと考えている。祭りのイベントのLiveなので、30分のSTAGEが3回というものらしいが、子どもたちも行けるかもしれないので、ちょっとワイン祭りもいいかなと。午前中に法事があるので、終わったら即衣を脱いで出かければ、2STAGE見られるかもしれない。
GYRO profileにスズキイチロウ氏の写真も掲載しました。サウスポーのギタリストですね。

2003年10月1日(水)晴れ
10月に入る。
いよいよわが家でも「フレッツ・ADSLモアII(24Mタイプ)」というのが利用できることになった。昨日新聞で情報を得たので、早速昨日のうちにいつもお世話になっているT屋さんに連絡して面倒見てくださいとお願いした。デジタル回線がアナログ回線になり、わが家の場合はもう一本電話回線を引いたほうが良いとのことで、電話の加入権の取得も全てお願いした。新規だと、加入権だけで72,000円するのだというが、結構安く売りに出されているのだそうだ。
さっきもT屋さんが訪ねてくれて、15日の一番早い工事で予定が取れたと言ってくれた。いつでも心安く頼めて、向こうも何かあると来てくれて、知識に弱い僕には、量販店で頼むよりいくらかは割高につくとしても、近くのT屋さんに頼むほうが安心できるのだ。僕と息子と娘と三人でPCを使っているので、ADSLのスピードがどのくらいのものなのか今からワクワクしてしまう。
このADSLというやつアナログなので、NTTの中継基地からあまり遠いと、ADSLに変えても意味をなさないのだそうだが、T屋さんは、中継基地からわが家までの距離とスピードも調べてくれて十分いけると太鼓判を押してくれた。「中富町全域にサービス開始」などと新聞には書かれているが、確実に恩恵を受けられない地域もあるので、これは今回勉強になったことの一つだった。
10月に入り、今年も後100日だ。一年など訳もない。もう60日弱で47歳にもなる。父の七回忌はひと月後の11月1日だ。丸6年が経つ。僕は少しずつ寺の住職として檀家や地域に認められてきた。でも、僕自身は何も変わらない。Jazzの夜の件にすこ〜し反響があって嬉しい。

2003年9月30日(火)晴れ
52号線も富士川も烏森山も秋になる。
青空が広がり気持ちのいい日和だ。9月も晦日。今年は彼岸花が長い。1期開花と2期開花に分かれたようで、今も盛りと境内に花がある。夕べは鈴虫の音がとてもよく聞こえた。そんな夜を過ごして朝mailを開いたら、「虫の音をBGMに読書の秋を満喫したいと思います。」と、Jazzの案内を出した文学少女から返事が届いていた。ひんやりとした朝が少し温みをもった如く感じた。
ヘルメットをかぶり、52号線を50ccのカブで走る信用組合の職員が、富士川のきらめきと秋の青空によくマッチしていて、荷台の荷物入れの箱にどのくらいのお金を持っているのか、やけに疾走しているように見えて「転んでお金舞わせてしまわないようにね」と、余計な心配もしたのである、お昼休みで帰ってきながら。ディランの「天国への扉
KNOCKIN ON HEAVENS DOOR」聴いている。

2003年9月29日(月)晴れ
GYRO来てくださいよ〜〜。
昨日知り合いに案内を出して、今日職場の若手などに案内を送ったんだけど、何通か反響あり。
「いかしたファンキーな格好で出かけます」というものや「明子ちゃんも連れて行きたいと思ってます。」なんて熱いものまである。
GYROはちなみに踊れるらしいんですよ。踊れるときは踊りたいよね。若いころは真っ先に踊ってたよ。これが我慢できない若さってもんだ。お寺で踊れるかどうかわからないけれど、もし玄関のたたきでやったとしたら、踊れるフロアーになるかもしれないな。

2003年9月28日(日)晴れ
秋刀魚は秋の味覚の王者ですな。
炭火で焼いた秋刀魚にはやはりかなわない。じっくりと焼いてホッコラと秋刀魚が焼きあがる。うまいなぁ。秋刀魚の秋で、秋は秋刀魚だ。
夕べは地元産の松茸まで供されたのだ。僕は松茸なんて食べたことがなかったので、実に味わい深いものだった。お茶漬けのふりかけに一つおまけで付いている、松茸のお吸い物でしかその匂いを知らなかったが、松茸の傘からまさにそれと同じ匂いを確かめることができた。親子4人で秋刀魚の夜を楽しませてもらった。
9月ももうじき終わりだ。だんだん秋が深くなる。

2003年9月27日(土)晴れ
久しぶりに暑かったぜ。
今夜は秋刀魚の会。幻の居酒屋「喜田」が今夜開店。今夜は商い中。チュッ!
「GYROジャイロ」in大聖寺のページを作りました。チラシもプリントすることが可能です。大勢の方に聴きに来ていただきたいと思っています。「行ってみたい、行ってみたいなぁ」という方は、どうぞHPからお申込になってくださいまし。
エリック・クラプトンを聴きながら、徒然なるままに...。大聖寺住職敬白。

2003年9月26日(金)くもり
すこし日が射しはじめた。
何日も降り続いて、午前中にやっと上がった。お昼を回って少し日が射しはじめた。
早く日が出ないと運動場が乾かない。たっぷりと水を吸い込んでいるので、よっぽど水捌けが良くなくちゃ日曜の運動会には間に合わない。
太陽と青空と、子らへの慈しみをお分けくださいまし。
(17:45) 今朝も北海道沖で大きな地震があり、まだ余震が続いているようだ。いよいよ天変地異が近づきつつあるのだろうか。あ〜あっ。私はこんな坊主で恥ずかしい...。

2003年9月25日(木)
長月の長雨。
9月が降水量が確か一番多かったはずなので、残暑といわれた9月はここに来て本来の9月の姿を取り戻そうとやっきになってダラダラと雨を続けている。
日曜日の運動会を控えた原小学校の校庭は使えないので、高台の校庭から聞こえてくる鼓笛の練習の音もない。去年も運動会が中止だったので、今年は大勢の観客の中で運動会をさせてあげたいな。(僕はもう子供が対象外なので、特段運動会に行く事もないのだけれど)。
暑さで脳みそが煮えたぎるような残暑もあったけれど、脳内にカビが生えそうだ。味覚の秋のような美味しいものが生えてくればいいと期待している。
(12:30) 役場に10月1日からの「赤い羽根共同募金運動」のポスターを貼りに行って気づいた。いろんなポスターが並んでいる。国民年金・献血など....。で、このポスターが皆アイドル歌手や女優で占められていて、並べて貼ってあるのを見ているとミス・コンテストのようで可笑しかった。黒木瞳、優香、江角マキコ、共同募金はNHK「まんてん」のヒロイン宮地真緒だった。 景気が低迷していて、企業が人員を削減してきたり、働く場所がないなどで、働き盛りであって子育て真っ最中というような失業者が巷に溢れている。自殺者も増えているし、収入源のために就学旅行に行けない子どもたちや、進学をあきらめざるを得ない状況まで現れているという。残念ながら僕にはこの状況をどうしたら打破できるのかというような考えは持ち合わせていない。さびしいもんだ。

2003年9月23日(火)晴れ
秋の空になった。
彼岸の中日で今日は朝から墓参の人で少しは寺も賑やか。まさに秋空といった青い空になった。空気の冷たさも秋を感じさせる。ほんの数日前までの残暑が嘘のように感じられ、夜の掛け布団は一枚増えた。
午前中は護摩木作り。相模原より午後3時きっかりにT家族着き早速護摩。4度目の護摩をこの家族のために焚く。終わって外に出ると日はもう傾いていて、空と雲がとてもきれい。僕の心も澄んだのだろうか。彼岸の賑わいが去ってしまうのがさびしい気がする。

2003年9月22日(月)くもり晴れ
冷え込む。
朝方に雨は上がり、ようやくにお昼頃から日が射しはじめた。今日は平日なので墓参もなかったようだったが、帰って本堂のお勤めを終えたところに墓から戻った従姉夫妻がいた。
夕方は風が強くて木枯らしを思わせるような寒さだ。秋が一気に深まった感じで冷え込んでいる。熱いお茶を飲み、焼酎の湯割だ僕は。娘はちゃっかり電気ストーブなぞを点けていたりする。
幸田文の散文の文庫本を読んでいるところへ電話。「もう一座護摩を焚いていただきたい」と。僕はもう彼らはひょっとしたらしばらくここに通うのかもしれないと思っていたので、「明日でもいいですよ」と応えると「じゃ、明日午後3時に」ということで電話を切った。
女房は半ば呆れ顔で、「あなたもよっぽど人がいい」とでも言いたげに、夕食の仕度をしている手を休めて僕を見る。こうなりゃとことん付き合うしかないのか。

2003年9月21日(日)
一昼夜雨降り続く。
台風の影響で昨日の昼過ぎから雨が降り続いている。彼岸の入りから今日と、週末の雨で彼岸の墓参の人影はない。経も寺を訪ねてきたのは双葉町の天野さん夫婦だけであった。明日には台風が抜けるということなので、中日の23日は晴れて墓参日和となってほしい。
昨日も雨の中を相模原から護摩を焚く4人の家族が見えた。お子さん方の体の調子が少しではあるが良い方向に変化しているように思えると、3度目の護摩にしてはじめてご両親と少しだけ確信に触れた話しができた。僕は祈願する者とお不動様との仲介役なのだが、いつでも僕にできることであれば力になりたいということを重ねて話した。誰でも等しく幸せになれなければいけない。前向きに人生を考えられるような力になれれば僕にとっても嬉しいことで、寺を護り、不動明王に仕える者としてありがたいことはないと思う。

2003年9月20日(土)くもり
彼岸の入り。
彼岸は雨になりそうだ。朝のうちに苅草を燃して最後の墓地の掃除。何人か墓参の人あり。
松田屋では恒例の赤飯を供養してくださる。「方丈さん草刈りをありがとう」と添えてくれる。
夕べは飲んじまったので更新できずにいたが、息子の永い受験生活も終わり、無事合格通知をもらった。このAO入試という奴。実験やら読後感想やら大学での面接も3回に及び、けっこう僕ら家族も彼の受験には協力した。志望動機や感想文やレポート作成には、僕も妻もかなりのサポートができたんじゃないか。
ま、ともあれ彼の目指したい道への大学に志望どおりに合格できたことは良かった。通常の受験生よりも早くに決まってしまったことになるので、これからはできれば、自動車の運転免許も取りに行ってほしいとも思う。(厄介なことに3月生まれなんだよね)
昨日の朝は少し早起きして、お勤めに息子の最後のお願いをし、古い経机を掃除して洗おうとひっくり返したら、引出しの裏に元禄10年の日が記されていた。
こんな風に書かれていた。
「甲州河内八日市場邑 佛前行法机 三守皇山 大聖明王寺 元禄十年丁丑(ひのとうし)年六月日 實宥造 板寄進門前 彦右衛門」とある。元禄10年は1697年、今から306年前に作られた机である。實有和尚は大聖寺34世で、1712年10月16日に亡くなっている。祖父・父・僕とこの寺を護ってきたが、息子がこの寺を継がなければまた新しい住職を迎えればいいのだ。僕たち家族がここに固執することはない。新しい住職がくれば、寺に新しい風が入りまた新たな寺の歴史が刻まれていくことだろう。
彼岸です。ご先祖様のお墓参りに出かけましょう。できれば塔婆供養などしたいものですね。お寺も少し助かります。

2003年9月18日(木)晴れ
お彼岸前に一日休んで草刈り。
こんなことを休んでまでしなければならないのかとお思いの方もおると思いますが、休めるような状況なので仕事を休みます。
仕事を休むことが僕のリフレッシュにつながります。土日の休みは単純に心身ともに僕は休暇を取りたいのです。まあ、今週は彼岸ですから寺にいなければなりませんが。
お陰で彼岸を迎える墓地はきれいになりました。今日はたっぷりと午前中4時間、午後2時間半くらい働きました。護摩木も少し割ることができ、心地良い疲れと体の痛みを少し感じながら、カルメン・マキと夕暮れの風に包まれて日記です。
彼岸花が満開で、その蜜を吸うクロアゲハが艶やかでした。

2003年9月17日(水)晴れ
デイサービスの敬老会にて。
昨日からデイサービスの敬老会が開かれている。日本舞踊や大正琴を披露してくれるボランティアや職員の出し物もある。今日は利用者のTさんが、家で準備してきたらしく朝から張り切っていた。なんと出征兵士を演じた。日の丸の旗を作り、たすきをかけ、すねにはゲートルまで巻かれている。
出生する口上を述べ、軍歌を利用者とともに歌って彼の出し物は閉じた。僕にはこの光景はとても奇異なもので、とても楽しめるものではない。かといって彼を「こんなものしないで」とは言えない。彼らの青春時代の世界の狭さがまさにこの演目に表れている。田舎育ちの大工であった彼に、僕らの今の世代のような楽しみなど多くはなかったはずで、決して戦争に行く事を肯定などしていなかっただろうと想像するが、彼らにはこんな思い出しか残っていないのだ。戦争があることを認めて生きる時代の思い出は、今もってこのような出し物につながってしまう。さびしい極みだ。
小泉を批判して次期は引退すると表明した野中広務は、以前「戦争に行った者でないとわからない。小泉さんは戦争に行っていないから痛みがわからない」と、戦争へ進む道を模索する法案に対して毅然として異を唱えた。もう二度とこんなさびしい時代に逆戻りしてはならないと思う。軍歌を歌って肩を組んで涙を流すなんて光景は、評価されるべきものでは決してない。悲しみの裏写しだ。
韓国が日本語のCDとゲームを解禁するという。北朝鮮は益々意固地になる。蓮池さんらの子どもたちは帰っては来ない。若い時代は過去を振り返らずに、前向きに考えなければいけない。もう決して過去のような出来事は起こらないと胸を互いに張ればいいと思う。多くの朝鮮民族がこの弓の島で大和民族と共存しているのだ。朝鮮半島も日本も同じ亜細亜の同朋で、一番近い存在だ。北朝鮮だって、通い舟はしょっちゅう日本に来るが、心のつながりは安寿と厨子王のように引き裂かれていくような気がしてならない。
山寺の寺守は今日このようなことを思ったり考えたりした。
GYROの高岡大祐君からメールはいる。GYRO大聖寺Liveは11月11日(火)でほぼ決まり。大勢来てくださいませ。詳細決まり次第アップします。

2003年9月16日(火)晴れ
夕暮れは蚊が一杯。
護摩木を少しでも割ろうとはじめたが、蚊が多くて10分と続けられなかった。夕暮れはダメだ。朝早く起きてやるしかないか。
大聖寺でのLiveの予備調査をしていたら、「私は来年の5月までオーストラリアです」というメールも届いた。一応やろうという決心がついたので、GYROの高岡君にもメールを出しておいた。秋の夜長をJazz。何とかうまくいけばいいけど。阪神が18年ぶりにセ・リーグ優勝したように、僕もチャレンジャーでいこうと思う。

2003年9月15日(月)晴れ
寺で稼がない。
寺の事をしたくてここに住みしているのだけれど、寺の仕事からの収入はほとんどない。来週もう一度護摩を焚いてほしいと、相模原の家族から電話があった。3週連続の護摩など今までに経験がない。ま、都合がつけば僕はなんとでもなるので、「お待ちしています」と返事。
彼らのために護摩を焚くことなど、ひょっとしたら大きなお寺や、たくさんの参拝者のあるお寺では対応しきれないかもしれない。僕の家族は寺からの収入で生活は多分できていない。だから僕が寺の事をするのは、僕が「これでいい」「これでもいい」というように決めることができる。
寺で僕たち家族の経済は成り立っていない。寺に住んでいるが寺からの収入を当てにして暮らしていないので、僕は寺からの収入に僕を委ねるということをしなくていい。寺を維持するために、高い葬儀料を取ったり、戒名料を請求したり、祈祷料を請求したりしなくていい。僕は週末坊主だけれども、訳のわからん「坊主丸儲け」とは無縁だ。
ここに来て僕に力を貸して欲しいという人があれば、僕は僕の精一杯でそれに対応しようと思う。これが僕のこの寺で生きる姿勢だ。
週末から彼岸に入る。午前と午後草刈りをする。「まったく飽きませんなぁ」という気持ち。秋の空は残暑だけれど冷気を帯びた高くて青い色をしている。

2003年9月14日(日)晴れ
真夏のような青空と暑くなる予感。
盛夏のような朝。7時前だというのにぎらぎらの太陽がもう勢いのよい光を放っている。
先週来た家族が今日も護摩を焚いてほしいという電話が入り、夕べのうちに本堂の護摩壇をしつらえた。10時からの葬儀の手伝いなので、午後2時か3時には護摩が焚けると思う。3連休なのでよかった。彼岸前の草刈りも少ししたいと思っているのだ。
(19:44)早川町に入る手前で土砂崩落のために県道が通行止め。曙回りで早川に向かう。通常ならうちから30分でつく寶龍寺が1時間近くかかってしまう。早川も暑い。寶龍寺の軒下には大きなスズメバチの巣がまさに作られつつあった。黒い服が危ないらしいと話したが、今日は黒ずくめの善男子善女人ばかりでしょうと住職と話す。刺される人もなく無事に葬儀終わる。標さんに同乗させてもらって午後2時前に帰宅。ちょうど相模原から先週の家族が到着したところ。着替えと水分補給で20分ほど待ってもらって本堂で護摩。熱過ぎて洗米と五穀の器が手で持てない。体は炉に向かう前も背中も汗が流れ落ちる。修行させてもらっていることを不思議に感ずる。遠くから二週も続けてきていただきご苦労さん。僕にできることはこのくらいです。結果は自分たち家族の中に静かに現れるのでしょう。と僕は思っている。

2003年9月13日(土)晴れ
いきいき山梨ねんりんピックで甲府。今日もまた暑い。
主会場は小瀬スポーツ公園だが、僕はゲートボールのチームの引率だったので少し離れた小学校の会場。雨が少し降ったりしたが、負けずに日差しは強かった。
まったくもってお年寄りは暑さに強い。勝負にも執念を燃やす。
息子は今日が大学の最後の面接。本人は少し面接の質問への受け答えにミスがあったようで、「多分ダメだ」と言いながら帰ってきた。今朝は僕も6時半には家を出たので、夕べ「頑張ってこい」と話し、今朝のお勤めに祈ったのであったが、結果は一週間後だ。まあ結果はとにかく、彼には長い6月頃からのAO入試の過程だった。
明日は7ヶ月ぶりに葬儀の助法。1月に檀家の葬儀が2件あったので、助法は一年ぶりかもしれない。うちはまあこんなものだ。葬儀を忘れない程度につながっていればいい。明日も暑いのだろうな。

2003年9月12日(金)晴れ
町内の敬老訪問。残暑ますますきびしい。
高齢化率が36%近くになっている町なので、年々まだ高齢者が増えている。残暑が朝から”エヘン”と威張っているなかを、半ば頭を垂れながら、町長を含めた4つの班に分かれて町の中に出て行く。今日も大変に暑かった。暑い午前中でも比較的お年寄りはそれに動じない強さがあるようだ。若い者のように暑さにダラダラとしていない。日陰で草を抜いていたりする。コメントは「暑いうちに抜けばすぐ枯れる」。戦中戦後を生き抜いてきた性根の座った強さとでも形容すればいいのだろうか。僕にはとても真似ができない。
カルメン・マキが2年ぶりにAlbumを出した。BackはいまをときめくMusician揃い。鬼怒無月(g)、勝井祐二(vln)、芳垣安洋(ds)、松永孝義(b)である。JAZZの世界をもリードする凄腕のミュージシャンたちにマキの、すっかり調子の戻ったボーカルが水を得た魚のように飛び跳ねる感じだ。カルメン・マキは、今を生きながらブルースに浸っている分だけ“ジャニス”を僕の中では越えた。若い人たちにはもっともっと僕らをびっくりさせるように頑張ってもらわなくちゃいけない。
チューバの高岡大祐くんのユニット「gyro」のLiveを思案中。一番近くにいる二人からは間髪入れずにメールが届き、もう「楽しみに待つ!」と。もうちょっと他からの反応と考慮する時間がほしい。でも夕べの満月のようにお寺でも1年に一度くらいは僕の色の出た月を昇らせてみたいとは思う。

2003年9月11日(木)晴れ
夜9時過ぎだが部屋は28度ある。
昨日今日とまた暑かった。残暑負けしそうだ。沖縄じゃ風速70メートルを超える暴風雨で大きな被害が出たというのに、ここじゃこんなに呑気に暑い。
一五夜の夜空にまん丸の月が出た。ちょっと雲が多いけれど、雲間から丸い月が出たり入ったりする。
今夜は光明真言の晩。経を終えてお茶を飲み、2年前のニューヨークの事件のことなども話す。今夜はグランド・ゼロに向けて鎮魂の経をあげた。山寺からの祈りは小さいかもしれないが、今夜集った檀家は皆鎮魂の気持ちを持っただろうし、平和への思いを改めて強くしたと信じたい。

2003年9月10日(水)くもり
「人は苦労するチャンスをあげないと伸びていかない」
今朝の「こころ」。お母さんはいい事を言う。「人は苦労するチャンスをあげないと伸びていかない」と。しみじみと秋の風のように二日酔いの頭に染みた。夕べ身延・下部の合併事務担当ではじめて飲んだ。若大将で、熱燗をたらふく飲んだ。どうやって帰ったのか今朝T君に聞くまでわからなかった。店のおじいちゃんが、身延まで送ってくれたのだそうだ。合併の事務は、僕らには通常業務の上乗せの仕事だ。身延の次長はこれを9割方引き受けて仕事してくれている。これが苦労するチャンスなのか。こんな苦労なら、できればしたくはないが、心やさしいテディ・ベアのような人たちと出会えた。
僕にとっての寺は「人は苦労するチャンスをあげないと伸びていかない」というそのものかもしれない。いまさらながら、僕は寺にこんなにも惚れるとは思ってもいなかった。ここに生きることはそれだけ、魅力にあふれている。ここから世界を眺めながら、僕自身を終わろうと考えている。
(19:57) サイモン&ガーファンクルが再結成して、ツアーをはじめるというニュースがNHK午後7時のニュースで流れた。61歳になった二人は確かにその歳なりに更けて見えたが、彼らの歌で育った僕としては、彼らの頑張りが僕にも力を与えてくれるようで嬉しかった。
山梨の宗務所長から電話。僕が関東から東北の直轄寺院にアンケートを出したことが、本山にも知れるところとなって、今日本山から電話があったのだそうだ。宗務所長は僕を擁護してくれるので、ま、「こんな電話が今日あった」程度の会話に終始した。昼、寺に惚れると書いたが、もやもやとした部分はあり、寺そのものが、難しい時期に差し掛かっていることを僕は実感している。寺を護って頑張りたいよ。お祭りだって命ある限り続けていきたいと思っているよ。借りられる力ならいつでも大歓迎で借りたいと思っているよ。

2003年9月8日(月)晴れ
午前中仕事休んで、寺の仕事。
Yさんの墓地を立てるので、「経をあげてほしい」とのことで半日休む。すでに基礎は作ってあったので、工事の安全など祈願する。このお墓はKさんの奥さんが自分のお母さんのために立てる墓である。生前墓は「寿陵(じゅりょう)」といって、大変に縁起のいいものである。思いはあってもなかなかに生前墓など立てられないのが現実だ。彼岸までには仕上がるようなので、仕上がり次第開眼供養をするようにと話す。暑くはなくいかにも秋が来たなぁというような午前中だった。時間があったので、昨日の護摩の後の掃除も済ませ、午後から職場。
娘は風邪気味で学校を休む。マンガを読んでいたと思ったらぐっすりと寝ていたり、風邪の日は僕もこんな風だったな。テレビ見ながら知らぬ間に眠っていたりと。
早くに帰り、夕のお勤め。本堂前の賽銭箱に、なんと!1360円も入っていたのだ!先ず一年通しても平日にこんなに入っているなんて事はない。週末から何人かのお参りがあり、朱印を求める人もあり、すこ〜し賽銭もあげていただいたりした。決して高額ではないが、うちみたいな寺には、とてもありがたいことである。塵が積もったりするように、また呼び水になってくれればいいが、と密かに期待しているところだ。

2003年9月7日(日)晴れ
日曜なのに珍しく5時半に起きる。
僕は基本は早起きではない。普段も6時半頃だ。今朝はだから1時間くらい早く起きた。お勤めをして本堂の護摩壇を作り、昨日の続きで護摩木を割ったりと、朝飯を食ってからいつものように日曜のニュース番組を見ながらウトウトとしてしまった。
午後神奈川から護摩を焚いてほしいという家族来る。子ども二人の親子4人。家族中が病んでしまっているとのこと。僕はこんな方たちを物の見事にさっぱりとしてあげることはできないので、僕のできることだけをする。ご主人の所望された経を読み護摩を焚く。
護摩を終えて話す。護摩によって全てがうまくいったり、病気が改善されたりするようなことはないかもしれない、と。僕はお不動様の力を信じたいと思うので、きっとよい方向に行くのではないかと信じています。僕は絶対なんて信じていないので、僕にできることの限界もわきまえているつもりだ。密教の寺だからといって、安易に来訪者に「すべてまかせなさい」などということは言えない。
僕も日々勉強で精進。ゆっくりと時が流れたら、もうすこし心を病む人たちが少なくなるのではないか。動きが早すぎて、会話すら思うようにできない子もいるらしい。
晩飯を食いながら女房と話す。なかなか家を空けることができないなと。僕の気持ちの中ではもうここから何処かに出かけていきたいなどという気持ちのほうがだんだん無くなってきている。寺守だからね。

2003年9月6日(土)晴れ
残暑はないが、護摩木を割りながら汗は出てくる。
うだるような暑さは今日はない。午後2時過ぎから護摩木づくり。のこぎりを引き、斧を振るい、鉈で護摩木を作っていく。今日は護摩木を作ろうと思っていたので予定通り。で、お昼過ぎに相模原に住む方から護摩を焚いてほしいとの電話。明日の午後に護摩を焚くことを約す。
風呂に入りながら頭を刈る。出てから女房に(おかしくないか)眺めてもらう。「いいよ、完璧。一人でできるんだからすごいよ、ねぇ、アイ」と、パッチワークの手は休めずに娘に同意を求める。「あ、そう」と、僕は冷蔵庫から麦茶を出して一杯飲んでこれを書いている。右手で撫でても左手で撫でても、違和感なく気持ち良くザラッとした手触りがある。刈りたての頭は自分の頭でも気持ちがいい。手のひらが頭に惚れる。
来週は丸い月の日が来る。秋は少しずつ深くなる。残暑もそのうちに薄くなる。夕暮れが早くなる。来週の予定の一番重要なものは、息子の最終面接だ。奴のためなら来週もう一度頭を刈ることさえ厭わない気持ちは十分にある。

2003年9月5日(金)晴れ
養護老人ホームへの慰問。
2班に分かれて特養と養護老人ホームを慰問。ちょうど50人。僕が回ったのは地元周辺なので43人。
程度の差はあるが、でも話しかけて応えてくれる人はうれしい。なかには話しが途切れないほど、外部からの面会者との接触に餓えている人もいた。
生きるということ、生きているということでは違うような感じがする。生きるには積極性が感じられるし、生きているということには、存命しているというようなことが思われる。
「生きる」「生きている」は異なるようだが、どちらも生あることに違いはないので、今日は改めてどちらも尊厳のあることだと感じた。楽しく、面白おかしく、笑って生きたいものだ。

2003年9月4日(木)晴れ
昨日よりはだいぶすごしやすい。
仕事が終わる頃から6時過ぎくらいまで雨も落ちた。外も暮れるのが早かった。もじもじと、頼りなく、なさけなく、心さびしくなるような夕暮れがこれからは今年中増えてくる。
こんなニュースがあっ
た。「劣化ウランの急性障害か イラク駐留米兵に謎の病気 イラク駐留の米軍兵士の一部で肺炎や皮膚疾患などが広がっており、急死する例も出ている。原因は不明だが、専門家の間では、米軍がイラクで使用した劣化ウラン弾が原因との見方が浮上している。この問題に詳しい慶応大学の藤田祐幸助教授(物理学)は「急性の放射線障害の可能性が高い」と指摘した上で「自衛隊が汚染地に派遣されれば同様の被害を受ける恐れがある」と警告している。米ミズーリ州のスプリングフィールド・ニュースリーダー紙は7月16日、同州出身の男性兵士(20)が7月2日にバグダッドで倒れ、ドイツの病院に搬送された後、急死したと報じた。病院の医師は男性の家族に「肺に何らかの毒素が入り、肺炎を起こした」と説明。家族は、同じ病院で同様の症状の兵士数人が治療を受けていたと証言したという。(共同通信)」
こんなものだ、だから言わんこっちゃない。確か今朝の新聞でも、ベトナムから来日中の元シャム双生児のベトちゃんだかドクちゃんだか、抗議の発言をしていたよ。もうすぐ、9.11の犠牲者の三回忌が来る。ブッシュは被害者面を盾に、まるで自らを善人として中東を砂場のように遊んでいる。不殺生戒。平和のために殺しあうことを即刻やめよう。北朝鮮は、日本や韓国からの拉致者をできうる限り公表し、それぞれの国に戻すことに努めるべきだ。日本が戦争で過ちを犯したことも謝罪するべきで、北朝鮮もそれを逆手に取ったような犯罪を繰り返すことは愚かなことだ。
家族であっても子が成長すれば自ずと巣立ちをすることを認めなければならない時期がくる。それは自然の家族の営みであるから承知できるが、そこまでに至らずに時を止められた親や兄弟にはそのことは辛いことなのだ。話せばわかる隣人であると信じたい夜の風だ。

2003年9月3日(水)晴れ
暑さに参った。
身体障害者のゲートボール大会があった。毎年8月だったが、9月の声を聞けばいくらかは暑さがしのげるだろうと今日にしたが、35度を超える暑さ。そんな中でも選手は暑さに負けず、試合の駆引きでもヒートする。障害者といっても、9割が介護保険の適用を受けるような年齢の方たちばかりなのに、皆さん強い。
スタッフの方が暑さにめげる。僕は午後から共同募金の配分金の監査があったので途中で抜けたが、ゲートボール審判に来ていただいた方がお一人暑さで病院に行ったという報告以外はことなく終わる。本日の審判長の元交通指導員のIさんは、開会式後に汗をかいたと、テントの中でブラジャー一つのあられもない姿で服を着替える。僕も今日は改めて日に焼けた。風呂に入ってよくわかった。
息子の実験レポートの最後のまとめに付き合って、日記がしばし中断した。午後10時を過ぎてニュースステーションが始まった。「躍る大総裁選」との形容は素晴らしく的を得ている。まいった!

2003年9月2日(火)晴れ
宗修司の参加したAlbumを探したぞ。
もうあの世に逝ってしまったSOH BANDのリーダー、宗修司が参加したAlbumを見つけたのだ。Band名は、「Bazuuka Joe」。Soh-Bandほどの衝撃はなかったものの、彼のPlayをできるだけ聴いてみたい、集めてみたいという欲求はこれで叶えられた。
jazzは限りなく自由で地球規模であれ。弓の島などのギシギシに揺さぶられることなかれ。思いっきりいけ。jazzで平和の道を切り開け。荒野を掻き分けながら自由への道を進むべし。わが息子にもその灯りを分けて進んでおくれ。
灰野敬二と外のコオロギはうまくセッションできない。

2003年9月1日(月)晴れ
残暑きびしく9月入る。
8月と9月の線引きなど昨日から明日になっただけで、当然あるわけではない。今日も残暑きびしい一日だった。
松井とイチローはアメリカで不調が続く。僕は飲みすぎと水ぶくれで下痢の毎日だ。固形物を口にしたくない日が続いている。
今夜も息子の実験レポートのお手伝い。数値の値の意味もわからずに彼に手伝っている自分がまさに滑稽。わかっているらしい奴に親ながら嫉妬さえする。女房は”エクセル”にも知識がなく、新聞を広げて地団駄踏む。
今月もしっかりと怠ることなく日記を書こう。残暑を書くことで乗り切ろう。秋の彼岸も来る。平穏な9月であって欲しいものだ。

2003年8月31日(日)晴れ
8月晦日、草を刈る。
やっぱ8月の最後の日も草を刈って終わりだ。
今朝は7時から防災訓練。明け方に雨が降ったけれど影響もなく実施。
8時半に終わって日曜のニュース番組を見てから10時前に着替えて墓地へ。お盆前の檀家の草刈りのときにきってもらった竹を50本ほど一気に燃す。
炎天にパンパンと竹が爆ぜる。檀家の墓地の古くなった塔婆も処分する。塔婆は僕が時々処分してしまう。午前中は結局草刈りまで至らずに昼飯。ビール一本を飲む。
ビール一本の睡魔に襲われながらうとうとして、3時前に本堂の昨日の護摩壇の後を掃除。終わって草刈り。
今日で8月も終わり。たくさんの汗をかいて晩飯で飲む。食後息子の実験のレポートの件がまだ片付いていないことを知り、エクセルでグラフを作ることを教える。まったく、こっちから言い出さなければあいつはぎりぎりで俺に頼もうとしていたのだ。お陰で奴にもその知識を教えることができ、彼も満足。
我が家の9月は息子の最後の面接と結果発表を待つ月となる。今夜部屋にちょっと値の張る線香を焚いているので、匂いがよくとても心地良い。28日は山尾三省の命日であった。この夏が3回忌だった。三省の詩と、ナナオの詩の朗読を聞く。良い9月でありますように。

2003年8月30日(土)晴れ
護摩を焚く。
朝護摩を焚いた。息子の合格祈願と平和の為に。息子のレポートも大体書き上げることができて、僕が最終の文章のチェック。そして僕が彼にしてあげられる僕だけのものは護摩を焚くこと。
僕の後ろに女房は正座して、僕の護摩に彼女の思いを加えた。暑くなる前だったが、一座の護摩は汗びっしょりになった。お不動様は僕らの思いを叶えてくれるだろうか。
10時にお不動様のお開帳をしてほしいというグループが来て、説明と簡単な法話する。坊さんらしく半日を過ごす。
明日で8月も終わりだが、ここ数日やたらに虻が飛び交っている。虻は体温に敏感なのか、黙って飛んでる分にはさほど気にならないが、足にとまる。で、足にとまると射される。そばにある「大法輪」で叩き潰す。本意ではないがこれも仕方がない。行く夏を惜しむように、やっと虻が現れた。虻を見ない夏だと感じていたので、これはこれでよかった。大法輪は手放せない。

2003年8月29日(金)晴れ
暑くなりそうだ。
今日はまた暑くなる予報だ。今夜は管理職会の残暑除けがある。7月にあったのを休んだので、今日は出席の予定。
宅間被告に死刑判決が下り、彼は上告をしないことを弁護士に伝えたそうだ。死刑判決というのはそれで終わりのような気がする。ある日突然死刑が執行されてそれで終わりになる。それで事件は終わりになってしまう。彼は昨日の法廷でも暴言を吐き、退廷された中での死刑判決だったそうだが、刑が確定してもできるだけ彼に生きる時間を与えることが必要に思える。人間は変わるものだ。今の彼は起こした事件の大きさに押しつぶされまいと、自暴自棄になりながら自分をやっと維持しているのだ。考える日々を命尽きる日まで彼に与えることのほうがいいように思える。
愉快なのは北朝鮮の美女軍団。金正日の顔写真の印刷された「歓迎の横断幕」が雨に濡れているのが耐えられないと、バスから降りて泣きながらそれを取り外したのだと。これもなんか胡散臭い。シナリオどおりに彼女たちが行動しているとしか思えない。チュチェ思想の象徴である金日成の像は風雨に晒されて建っているではないか。これは可哀相な範疇には入らないのか。独裁者による洗脳されるということの恐ろしさが丸見えだ。テレビでその光景を見ているこっちのほうこそ涙が出てくる。解放の日の近からんことを。

2003年8月28日(木)晴れ
スイッチョンの羽音が聞こえる。
虫の音が聞こえ始めるのだからもう、残暑があっても秋だ。虫が歌いながら夕の戸張が早くなる。
ナナオの詩を今夜も聞いている。僕ももうすこし詩が書ければと思う。ナナオはきっと日常が詩の世界なので、詩は生まれてくるのだろう。難産ではなくスルッとゆで卵の皮をむくように詩は生まれてくるのだろうと想像する。それで詩はこの世に生を受ける。後その詩が育つかは詩そのものにあるのかもしれない。あまり難しく考えずに詩を書きたいものだ。

2003年8月27日(水)晴れ
缶チューハイ飲んで眠い。
缶チューハイを3本飲んで、テレビを見ていたらどっと睡魔が襲ってきて、自分で自分の体をコントロールできなくなってしまった。奈落の底に突き落とされるかのように、また引き込まれるかのようにドーンと連れて行かれてしまった。
息子の入試の課題レポートの添削のために女房に起こされて、やっとこの世に戻ってきた。
(※:清原が伊良部からライトポール直撃のホームランだ!!!)
8月ももう後数日。空は秋の空。娘も息子もまた秋の生活に入る。息子は最終の勝負に挑んでいる。僕もできるだけのバックアップをしなければ。

2003年8月26日(火)晴れ夜・雨
外は少しの雨...涼しい。
あんなに雨続きで嫌だった雨が、ここ数日の猛暑で、今夜は体が癒されるように網戸から入る風が心地いい。雨の音もなぜか心落ち着かせる。不思議なもので、なんと言う勝手な男だ。
S子さんとめめちゃんは、昨日やってきて今日も思いっきり遊んできた。そして夜7時半の電車で帰っていった。今日はクラフトパークでカヌーをしてきたのだと、晩飯を食いながら楽しそうに話してくれた。夕べはうちの子どもたちも欲しがらなくなっていた花火を持ってきていて、娘と女房も入れて5人で星空を眺めながら花火に興じた。久しぶりで懐かしい明るさがあった。二人は夜のために、なんと浴衣まで持参していたのだった。
めめちゃんと12時過ぎまで飲んで話しをした。初対面でも寺の広い空間がとても人を和ませてくれるのか、旧い知り合いのように仲良くなれる。寝る前に最後のCDを「サカキ・ナナオ」にして、彼の詩の朗読をじっくりと聞いた。ナナオの低い声が、初秋の寺の高い天井の梁を撫でた。
ここを気に入った人たちに僕はこの場所を快く提供しようと思う。高岡大祐くんのLiveを本気で考えてみようという気持ちが湧いてきた。

2003年8月25日(月)晴れ
東京からお客さん二人。
東京の残暑を癒しに二人が来たが、「ここも暑いですね」と言う。鰍沢の奥の渓谷に行ってきたら少しは涼しかったと。
寺もこの暑さには打つ手がない。夕になり、少し風が出てきて少し涼を感ずる。ずいぶんと日も短くなってきた。午後7時には暗くなってしまう。また秋が来る。赤とんぼが飛び交うのも見たし、残暑もいつまでのことやら。
今夜は少し話をしてまた、いくらかの酒を飲まなければ収まらない。渋さ知らズと不破さんの話も聞かせてもらわなければ。S子さんはお気に召した「生湯葉」を土産にすると自分で買いに行ってきた。ここに来ると喧騒の中から脱皮できるようだ。夜の星もお気に入りだという。寺はこんな人たちのために役に立つ事だって、それはそれでいいと思う。

2003年8月24日(日)晴れ
今日は本気で暑かった。熱風地獄のような。
10時から檀家のS宅へ、家屋の解体と新築工事の安全祈願。丁寧にその後を接待してくれて、結局午後1時まで飲んでしまう。
お父さんが亡くなって2年が経つが、来春長男が小学校入学なので、隣りの地区のアパート暮らしを引き上げて、一念発起で家を持つ。大工の彼を僕は頼もしく思う。彼が奥さんやお母さんたちと力を合わせてここに生きていけることを応援したいと思う。お寺にとっても若い彼の力は街燈のようなものだ。
ここに生きることは決して容易ではないけれど、ここに生きる意志の連帯が広がることを願っている。僕もまた彼らの限りない力を得ながら、ここに生きながら面白いことを発進したいと思う。
それにしても今日は暑い一日だった。午後9時のいまも部屋の温度は28度もある。固形物をほとんど受け付けない体は、夜更かしと飲み物で夕べも眠れず、珍しく3時頃までテレビを見てしまった。今夜は早く眠りにつかなければ。

2003年8月23日(土)晴れ
昨日は奈良田温泉。今日も暑い。
昨日は夏休みだったので、隣りの早川町の奈良田温泉へ。9時半に家を出て、大島の女房のご両親の墓に参り、大原野の大瀧のお不動様と瀧を訪ねた。道は比較的整備されていて、法螺貝を吹きながら、山道を深く入っていく。雨が多かったせいか川の水量は多く、滝も勇壮に落ちていた。お不動様の台座の巨岩は緑色に苔むして、感動的な場所だった。般若心経をあげそれから真っ裸になって瀧に入り読経する。透明度は少なかったが冷たさはまさに絶品である。
山を降り、そこから奈良田温泉へ。生ビールとざるうどんの昼食。朝日新聞に妹が載っていたので、今日は妹の嫁いだ寺にも行こうと決める。温泉はいつもと変わらぬぬめっとしたもの。お盆も過ぎ、平日なので入浴客は少ない。ゆっくりと1時間ほどを浸かったり、洗い場にゴロンと横になって寝そべって、背中で溢れる温泉の流れを感じたりと、静かなときをゆっくりと味わった。外の紫陽花がまだ色を失っていずにひっそりと咲いていたのも、高地奈良田の賜物だ。
温泉を後にして帰りに三井先生を墓参する。常昌院の住職だった先生が亡くなってすでに半年が過ぎた。奥様がちょうど外におられたので、墓地まで案内してもらう。曹洞宗の僧の墓地らしく、わずか50センチほどの墓碑に和尚の名が刻まれていた。世は無常で、どうでもいい者が長生きをする。
南部町の内船寺(ないせんじ)に着いたのは午後3時頃。妹の夫である副住職がのんびりと寝そべっておられて、招かれて中に入る。ここは日蓮宗のお寺で、うちとは比較にならないほどの檀家数を持ち、本堂もはるかに大きい。本堂の中で今年で8回目になるという子供の絵画展をしている。新聞にはこのことが載っていたのだ。「8月は特別な月」と語る妹に、なぜか「この人と兄妹でよかった」と思った。それぞれが今を生きる場所で、命や平和のことを考えていくことが大事だ。とても大切なことを鬱蒼とした深遠なる山の寺から目立たずに発し続けている彼女に手を合わせたいような気持ち。
「処暑」・・・暑さも峠を越えるという時期だが、今年はここからがスタートかな。インディアンサマーになるかもな。今日は家でのんびりと客殿にも風を通して、音楽でも聴く。

2003年8月21日(木)晴れ
う〜〜〜あ・つ・い・です〜〜〜。
お昼で帰ってきた家は暑いです。子ども等の作ってくれたチャーハンをいただいて、汗かいて暑いです。シャワーでも浴びて復帰するか。
今朝はN君から久々のメール。しばらく会ってもいませんでしたが、互いが互いを思っていました。今夜は納涼会だそうです。たくさん飲むといいよなぁ。たくさん飲んで明日二日酔いになってください、お願します。
自信満々の暑い風景に押されっぱなしだ。
万景峰号が入港するという。朝鮮大学校の学生が修学旅行で北朝鮮にその船で渡るとも聞く。いまどきいくら在日朝鮮韓国人だって、日本で生活していれば、金正日の独裁国家を、「ヒロヒト」に命を捧げることを美徳とした愚かな国のように、涙ながして訪ねたいなんて思わないだろう、と俺は思う。
暑さで脳みそが煮えてきそうだ。開いた頭にこんにゃくのおでんを突っ込んで味噌つけて食ったらどんな味がするだろう。

2003年8月20日(水)晴れ
やっと朝からの強い日差し。
夏らしい朝とでもいった感じか。太陽が昇り、蝉が鳴いて、体はもう、少し汗ばんでいる。
夕べのソフトボールは故障者や欠席者が多く、僕にまで出番が回ってきた。なんと、夕べの一試合を投げきって勝ってしまった。28対3。もうこの夏は思い残すことはない。今朝はまだ体の痛みがないが、おそらく明日の朝はお尻のあたりが猛烈に痛いのだ、きっと。
雨続きなので、草の伸びが速いように感じる。歯を磨きながら裏の竹薮から墓地のほうを眺めると、青々と草が伸び、若竹もまだ生えてきている。また僕を悩ませる草と(
)対峙(退治)しなければならない。

2003年8月19日(火)くもり
今朝もまだ頼りない曇りだ。
残暑が続くなんてテレビじゃ言っているけど、言ってる東京じゃ今朝も雨が降っていた。
今朝もいま一つはっきりしない天気。今夜はソフトボールができるのかなぁ。辛くて暗い時代を反映しているような自然の仕打ちなのかもしれない。
(19:25)社協の合併の事務局会議が6時過ぎまでかかり、仕事の片付けを7時帰宅。急ぎ飯を食い、これを書いてこれから今シーズン最後のソフトボール。風が強くまた雨が来そうな夜。秋の虫でも鳴き始めていそうな夜だ。相変わらず物騒な事件が続発し、懲りないのがバスの運転手の飲酒。一度言われたら解れよ、と言いたいところだが、僕にはなかなか胸を張って言えないようなところがある。

2003年8月18日(月)くもり晴れ
晴れといったって完璧じゃなかったんだけど。
昼に帰ってきて飯を食う前に、本堂、客殿、庫裏の戸を全部開け放ち風を通す。最近では梅雨でもこんなに長く雨模様の日はない。寺の中全体が湿っているのだ。もちろん線香も頼りなげに持ち上げるとグタッとする。ほんの30分くらいだったけれどまた仕事に戻る前に戸閉めをする。
息子はまた今日から学校の課外。午前中で終わる息子を迎えに行ってきた女房が、「閉めなくてもよかったのに」と言ったけど、なかなかに二人の疎通はいつもそうしっかりしたものじゃない。いいんだよ僕がちょっとできる時間を割いて戸を開けて風を通すだけでも寺はまた充電される。彼女もそれを十分理解できているだけの時間僕たちは夫婦で居るはずだ。
蒸し暑い夜が帰ってきた。僕は一か月近く音信の途絶えた友達のことを思う。思うときに彼との虹の架け橋があるような勝手な思いがある。ゆっくりと立ち止まれない生活があり、誰もがそのことを真摯に心に受け止めるだけの時間がないのだ。俺は一方的なこの「徒然」で、俺の狂気を発進しつづけるだけだ。

2003年8月17日(日)くもり
今日もまた雨が降る。
娘の希望で、八ヶ岳のアウトレットへ行ってくる。白根から高速に乗ったら、小淵沢インターまでちょうど家から一時間だった。曇りの日で雨がポツポツと落ちているが、まあまあの賑わいである。長袖のトレーナーを持っていったので、それを着て僕はベンチでMUSIC MAGAZINEを読んでいた。女房と娘はそれぞれお目当てのところを覗いたりしたのだろう。
旧白根町の通り端のラーメン屋で少し遅い昼飯を食うときには結構な降りになっていて、もうホントに雨はうんざりだ。盆にマイルスとウエザー・リポートを少し買ったので、今日の後半はそれを少し聴いて明日からの通常生活モードに頭を切り替えようと思う。昨日の寺の護持会総会も無事済み、お盆の忙しさからもやっと解放だ。夏も終わりだな。

2003年8月15日(金)
なんと毛布を出して...。
棚経も終わったが、今日は昨日より朝方は降っていたし寒かった。朝飯のときも”熱いお茶”を飲んだ。今日の外回りの棚経でも、まさに皆熱いお茶で、こちらもそれを有り難くいただいた。盆の棚経にまったく汗をかかずに終わったのだ。いつもなら、午前中に歩いて家に帰ってきたときに襦袢を取り替えるようなこともあるが、今年はそれもなく、なんだか変な夏のお盆を作った。こんな夏が思い出に残るのはさみしい。47歳になる年の夏は寒くてねぇなんて、なんだかつまらない。僕にとっても、一つひとつの年は大切なもので、今年は息子の受験を大事に考えているので、いい夏にしたいと思っているのだ。
歩き疲れて夜空と陸との区別がつかなくなったので、今日の日記は終わり。友部正人の「誰もぼくの絵をかけないだろう」の坂本龍一のピアノは今日車の中で聴いていたけど、すごくやさしかったよ。彼のピアノに感謝したよ。

2003年8月14日(木)
今日濡れるは坊さんだけ。
雨の盆の棚経になった。下駄はいて回っているが、足はどろだらけだ。隣りの日蓮宗のH君は長靴はいて回っている。今日雨に濡れるのは坊さんだけだ。
午後は富士ヶ嶺まで行く。少し早く回れているし、雨で出かける車も少ないかもしれないので。
早々と盆踊りも中止の放送があったし、明日も天候の回復は望めないようで、なんかつまらない盆になりそうだ。

2003年8月13日(水)くもり
盆、薄曇の盆。
女房は早くから庭の掃き掃除。僕はお勤めの後、盆の紙の幡を墓地に吊るしに行く。一昨日立てておいた竹に一枚一枚吊るしていく。
寺の墓地の周りを掃除して、雑木を燃やしているともう6時過ぎには墓参の夫婦。雨にならなければいいが。
(20:03)雨が降らなくてありがたい。明日もこんなであって欲しいものだ。今年の夏は短いかもしれないぞ。お盆だって、あっという間に過ぎてしまう。縁がある人、縁がない人もすべて尊い人として迎えて送ってあげましょう。

2003年8月12日(火)くもり
車の往来が増えてきたかな。
盆ということで、国道52号の交通量が増えてきたように感ずる。死者も生きている者も里帰りするんだな。声の出る者と出ない者、姿の見える者と見えない者だけの違いで、生まれ育ったところは過去とのつながりの場所でもあるし、帰巣本能みたいなものなのだろうか?
今夜は光明真言。参加者は僕を含め4名。さびしい夜だったが、お盆の話を少しする。今夜来なかった人たちのところは、すでに賑わっている家なのだろう。これはきっとお不動様もしかたないと思ってくださる。
曇った空に月が見えないのは残念。雨はほとんど降らなかったが、このまま週末までもってもらいたいものだ。明日は一日仕事。今年は14日・15日と棚経。16日が護持会の総会。台風のお陰で枝折れが散らかっていて、女房も子供たちも今日は掃除をしてくれたらしいが、もうこれでよしとしようじゃないか。きりがない。冷たい麦茶でも用意して明日は墓参の人たちを迎えようと思う。

2003年8月11日(月)晴れ
お見舞いに行ってくる。
台風の影響で竜巻に屋根をそっくり吹き飛ばされてしまった家に、会長とお見舞いに行ってきた。家のおじさんは、「朝5時頃起きて便所に行って、雨だからまた寝ようと布団に入った直後に、ド〜ンという大きな音で屋根がはがされていった」と。木造2階建ての屋根は回りの電線をも飛び越えて、100mくらい離れた畑の中に落ちたのだ。お盆を前に一足早く帰省したのか、大勢が布団干しやら畳干しやらをしていた。明日からまた天候が崩れるかもしれないと、応急の天井が貼られシート囲いをしておくのだと、みな忙しなく、僕らも麦茶を一杯ご馳走になって帰ってきた。帰りの道には猿がのんびりと闊歩している。
奴等には台風の影響などないのだろうな。そういえば台風が来る直前のテレビでは、ブドウ農家が家族総出でブドウの収穫をしていたっけ。被害の出る前に収穫をしておくらしかったけど、今年の夏は果樹農家をかなり深刻な状況に追い込んでいるようだ。

2003年8月10日(日)晴れ
暑すぎて無気力・脱力が体を支配する。
午前中、町営住宅の砂の入れ替え作業に出かける。すぐに終わって帰ってくるがもうカンカン照りで、体はゴロン太君になってしまう。
昼飯の後少ししてから重い体を持ち上げて作業。もうお盆もこのくらいでいいだろう。シャワーを浴びて夕のお勤めをして久しぶりに太鼓を打って、位牌堂に盆のちょうちんを出し、そうそう朝には盆の旗も立てたのだ。いい風が入ってくる。ジョン・マクラフリンのGuitarが風と一緒になる。もうお盆の風が吹いてきたのかもしれない。待ちきれない精霊たちの急ぐ風かもしれない。盆が終わるまで暑い夏の日であって欲しいものだ。このままでは本当にもう秋がきてしまう。
若い人たちが少なくなった地区に住んでいる友人は、墓参道の草刈りをして喜ばれたという。これも布施。こちらもあちらも気持ちがいい。こんな話を聞くとまた旨い酒が飲めそうな気がしてくる。

2003年8月9日(土)くもり
たくさんの雨や風の日。夕には雨上がる。
雨が上がって青空も見えてきた。また蝉の鳴き声がしだした。
息子からも電話があり、無事今日の試験を終えたという。風が強くて傘が壊れたので、大学で傘をもらったということ。思い出の傘になるか、合格して胸を張って傘を返しにいけるか。まだ9月にももう一度試験がある。彼にとっては正念場の長い夏だ。
夕べは秋山さんの家で、彼女の帰郷していたおじさんとでたくさんの話をしながら泡盛をたらふく飲んだ。お陰で見事な二日酔いであったが、カッパを着て寺周りから墓地へと歩き、溝をきれいにしたり、折れた枝を片付けたりをかいた。台風の中も手を合わせて佇んでいるお地蔵さんに息子のことを頼み、こちらも手を合わせた。
明日はきっと台風後のお楽しみのからっとした青空になるんだと思うと、少しだけ胸がドキドキする気分。

2003年8月8日(金)
台風の影響で大降り。
朝から寺の周りを見回り、側溝をきれいにして水の流れを確保。
台風の影響でかなり大降りだが、一時的に止んだりしている。息子は明日の二次面接のため、大事をとってこれから上京することに決める。町田にビジネスホテルを予約する。
何もしてあげられないが、なんとかいい結果に結びついてくれたらいいと親馬鹿は思っている。

2003年8月7日(木)晴れ
明日は雨か、網戸の風はなんかもう秋の風だぜ。
女房と子ども等は、市川大門の「神明の花火大会」に友達から誘いを受けたとのことで出かけている。「早く帰ってくる?」との電話に「まあ、こっちのことはいいからどこでも行ってきてください」と、僕は8時前に帰宅。テレビを見ながら酒を飲んだ。今風呂から出たところで、体は熱い。線香を炊いて涼しい夜を楽しもうという魂胆だったが?ん?、帰ってきちまいやがった。
NHKで長崎で被爆した子どもたちが小学校に入学したときに、原爆学級を作ってあったという番組を途中まで見ていた。昭和20年の8月9日の原爆投下のときに、体内にいた者と、すでに生まれていた者とを別々のクラスに分けて、知能の発達やら医療的な何やらを調べていたらしい。科(化)学の発達なんかはよく偶然の賜物等と聞くことがあるが、原子爆弾による放射能を浴びた人間がその後どういう風に発達していくなんて、こんなことはまさに無用なことのように思えるのだが。原爆の被害さえ出なければ、そんな必要ははなっから必要ないと思うのは、短絡的だろうか?

2003年8月6日(水)晴れ
日は射しているが暗い雲が湧いてきている。
(7:15) 朝から蚊に刺されっぱなしだ。草も早起き作業で汗かいているからか、飯食いながらテーブルの下から足を蚊に射される。蚊取線香をつけるのもめんどくさかったが、結局点けた。夕立があってまたぼうふらが湧いて、蚊が発生したのかもしれない。
出勤前をカルロス・サンタナのGuitarでご機嫌です。息子が受験している大学からの宿題で本の感想文を書くことになっているので、僕もその本を買った。「あなたのなかのDNA」文庫本だが、暑い夏に気が進まないタイトル。
(20:18) 風呂に入ってまた汗がダラダラでこれを書く。社協の中で自由にインターネットできるようになってから、役場のパソコンを見ることがほとんどなくなったので、今夜は久しぶりだった。ちょっと覗いてみたら、2通も大切なメールが届いていた。どちらも僕にとって大切な同僚からのものであった。
僕の詩は書こうと決めて書く詩である。普段は仕事や寺務に流されるので詩を書くことなど頭にない。でも1年に一つか二つは書きたいと思う。僕の書くものを楽しみにしていてくれる人もあるので、ホームページに載せても、新聞には投稿したいと思う。(でも新聞は、僕の詩を必ず載せてくれるとは限らない)

2003年8月5日(火)晴れ
汗が退かない
珍しく早起きして、お勤めを済ませて5時過ぎから1時間半ほど作業。草刈りのあとをまとめて雑木と一緒に燃やした。天候が少し下り坂のようで、雨がふる前に少し片付けたいと思ったのだ。お陰で終わってシャワーを浴びたけれど汗が噴出して、なかなか退かない。
でも今日も暑い日になる予感。
(21:20)多分この夏初めての大きな夕立があった。雷こそさほど鳴らなかったが、やはり夕立は季語でもあるので、なければ物足りない。いくら梅雨が明けましたといわれてもピンとこないのである。ソフトボールの夜だったが雨で明後日に順延。帰ってきたら、親戚になるおじさんから本が送られてきていて、その本を手に取りながら礼状を書いた。埼玉の息子さんの家族との同居をはじめたおじさん夫婦である。僕の祖父はこの土地の生まれではないので、この町に親戚縁者はなく、父の姉が嫁いだことにより、縁者がやっと生まれたのだ。その叔父夫婦のことを去年「くの字」という詩に書いた。
朝早くからの作務と、昼にも20分ほど墓地で草を燃したりしたが、うまく予感が当たった。雨で刈った草が濡れたら、お盆まえに燃やしてきれいにすることができなかったかもしれない。当てたな。

2003年8月4日(月)晴れ
今夜は飲まずに暑い夜を耐え忍ぶ。
残業をして8時40分に帰宅。飲めば飲めるけど、飲まずに晩飯の焼きそばの残りを食う。冷奴に夏ミョウガが絶妙。いやぁ、夏ミョウガはニッポンの夏だなぁ。
職場は朝からガンガンに冷房きかせて、ふやけてしまいそうな頭を回転させている。
漏水の工事がやっと終わり、全部の水道が使えるようになった。5月の分と併せて30万近くになるかもしれないとのこと。女房と「仕方ねぇよな、これで完全に治ったということで割り切ろうぜ」と話す。請負のT業舎は、盆暮れしか集金にこないので、来週の盆前には大金を用意しておかなければならない。
なかなか金は貯まらずに、いいタイミングで金が出ていく。息子にも娘にもこれから金がかかるのに、僕は趣味には金を我慢できないし、僕も女房も割と楽観的な生き方だ。何とかなるのだと考えるようにする。このくらい好きにさせてもらわなきゃ、とてもここで暮らしを継続することはできそうにない、と思っている。

2003年8月3日(日)晴れ
盆前の護持会草刈り。
朝7時からお盆の前の恒例の墓地の草刈り。6時前から暑くなりそうな予感。自身満々の太陽が昇り始める。
今日は大阪の高槻から、夕べ下部温泉に泊った佐田さんも参加してくれる。離れていく檀家もあるが、離れたところに住みながら先祖を敬い大事にしてくれる檀家もある。こんな檀家もあるから僕らはここに生かされているのだと思う。
暑い暑い日差しに照らされて、2時間余りの作業終わる。体が今年はまだこの真夏の高温に慣れていないので、水分が欲しくてすぐに疲れる。でも今日は大勢が集まってくれてはかどる。草刈りなんかは一人でもできるが木を伐採したり、竹を木って運び出したりは、2.3本はなんとかやっても、途中で嫌になったり、気持ちが萎えてしまうのだ。大人数でできる可能性の計り知れない力に今日もまた思い知らされる。

2003年8月1日(金)晴れ
また届いたよ。今朝開いたメール。また以下のような「債権回収詐欺メール」が届いた。タイトルは◆重要!◆

最終勧告◆貴殿ノ、ネットコンテンツ利用料ガ未ダ未払イトナッテオリマス。
延滞金・手数料ヲ含ム金額ヲ、8月4日(月)14時マデニATMカラ指定口座ヘオ振込ミ下サイ。
速ヤカニ支払イ頂ケナイ場合、メールアドレスカラ調査ノ上、自宅モシクハ勤務先等ヘ直接請求ニ伺ウ事ヤ、
法的対応モ含メ、断固タル対応ヲ採ラセテ頂キマス。
ソノ際ハ調査及ビ請求費用3万円〜ヲ別途請求イタシマス。

◇振込金額:29500円(延滞金・手数料含ム)
◇振込先:三井住友銀行 永福町支店 普)7140190

【角田興業請求課・長谷川


僕は2回目だけど、決して返信したり支払ったりなど志手はいけません。相手は、こちらのメルアドしか知らないので、不用意にこちらの情報を教える結果となるようなことはしてはいけません。
詳しくは、「インターネットのゴミ箱」”債権回収詐欺メールにご注意!!”を見てください。とても気分が落ち着くし、参考になります。悪い人もいれば、必ず反対側に解決のための味方がいます。こんなメールをもらっても決して慌ててはいけません。
今日は本格的に暑くなりそうだ。蝉がせわしく鳴いている。8月1日の大聖寺を大きくご覧ください。
写真click。
(17:25) 1997年8月1日、東京拘置所で処刑された永山則夫の命日。七回忌だ。調べてみたら1997年の8月1日は金曜日。多分永山の死を翌朝の新聞で知ったのだと思う。で、僕は土曜の休みを墓地の草刈りをしながら、永山を偲んだのだった。永山則夫連続射殺魔事件

2003年7月31日(木)晴れ
さあ梅雨明けのような空模様になってきた。
今朝の「こころ」は、感動的な15分だったな。外の様子も梅雨明けの空模様と気温の上昇がはっきりと見える。今日は夏休みだ。8月の梅雨明けまで待てない気持ちなので、7月の最後をきっちりと寺務で終りたい。
(20:25) 今日はきっちりと作業したぜ。これでよし!という訳にはいかないけれど、8時前から作業に入り午前中は11時半まで、午後はちょっと遅く2時前から4時半まで。暑かったし空もそれなりに夏の様相だったけれど、梅雨明けにはならなかった。8月に入ってからの梅雨明けになることが決定。裏山の雑木を切っていると、かぼちゃの食い散らかしたのが捨てられている。まさに猿の仕業。
農をする者にとって、農作物を荒らされるということは、神聖な場所を犯されることである。夏、汗をかきながら「かぼちゃのほうとう」を喰う時もあるが、山に食い散らかされて無残に転がるかぼちゃの黄色はなんともやりきれない虚しさがある。女房は「Yさんのところも裏山に猿がすごくいたよ」と。猿も必死かもしれないが、俺たちだって明日のために今日はおろそかにできないのだ、よ。
03年7月30日(水)
どうやら梅雨明けは8月に入りそうだ。
今朝も朝から雨。嫌な天気だけど、仕事は休んじゃくれない。
8月1日から夏の天気になるようで、梅雨明けは8月に入りそうだ。富士川まつりで一気に夏になりそうだ。
ソフトボールの後遅くまで飲んでいたので、今朝の雨は体に心地がいい。
仕事から帰ってきてそのまま本堂で夕のお勤め。大阪の檀家の佐田さんの息子さんご夫婦が訪れていた。こちらに他の用で来たので、先祖の墓参りにきたのだという。中学生のときにきた以来で、墓地に行っても「佐田」の墓がたくさんで、結局家内が案内したらしい。遠くに住まう人たちから慕われる「先祖の菩提寺」という面もある。個々のふるさとや先祖や寺への思いは、それぞれに温度差がある。帰り際にデジカメで一緒に写真を撮った。夕暮れであったが、お二人は何枚も写真を撮って帰ったようだ。彼の命の源がここにあったということは、紛れもない事実だから、いつ訪ねてきてもここにある寺を維持する精進を僕たちは続けていくだけだ。

2003年7月29日(火)くもり
薄曇り、雨が落ちてくるかも。
今日は一日富士川まつりの準備の作業を手伝うことになっているので、直接役場に行くのだが、雨が落ちてきそうな気配。
今朝はやたらと頭が痒い。蜂に刺されたところが痒くなってきたのだ。昨日役場に行ったら、同僚のHちゃんから「頭大丈夫ですか?」と声かけられて、お見舞いされた。こんな風に、面白おかしいところだけはしっかりとチェックされているんだなと愉快な気持ちになった。数少ない読者を大切にしたい、いいものを書きたいとさらに精進を心新たにしたのである。
ある出版社から「法話」の執筆依頼がメールできて、夕べはわざわざ電話までいただいたのだが、鄭重にお断りした。まだ機が熟さない。人様が参考にするような法話などまだとても書けたものじゃない。
漏水していたり、果てのない草刈りがあったり、雨漏りがしていたりすると、時々無性にそれを己の不幸に感じるときがある。今がまさにそうだ。今回は女房も落胆している。ささやかな家族の幸せを喫しながら、さほど真面目ではないにしても、日々のお勤めもしているのに、「何故こんな風に」と、どうしても思ってしまう。足るを知るを承知はしているが、悩みはきりがない。
(19:18) 草刈り富士川まつりの幟立ての一日。帰ってからも草刈り。ついでに頭も草刈り。蜂に刺されたところがひりひりと痛む。一日作業で汗をかいたら痒みが去って、今度はヒリッとする。また少し雨が降っている。今夜はソフトボールなんだが...。Tipographica仕入れた。良い、気に入った。

2003年7月28日(月)晴れ
日焼けした首の周りが痛い痛い。
昨日の育成会の焼肉会は、朝の雨が9時頃には上がり、一気に天候回復で日差しも強くなり、生ビールも19リットル+10リットルと、追加して盛り上がってしまった。
子どもたちよりも大人の懇親会が常だから、思いっきり飲んでしまった。おかげでTシャツの首回りが日焼けして今日は痛くてかなわない。頭を刈らずによかった。刈っていれば頭の皮が何日か後に剥けてくるのである。ぺろっと剥けた頭の皮は、生々しく毛根の穴がはっきりとしていて、自分のことだから許せるが、他人だったらなんか気持ち悪いのひと言である。
漏水が治ったと安心していたらまた漏水だ。しまりのない人間になったような、不快感だけの漏水で、今回は女房も「まったく弱ったもの」と、愚痴らずの女房だと思っていたが、思わずもらした。女房が愚痴れば僕はもう愚痴れないのである。どう先を考えてみても明かりの見えない田舎寺ではある。雨漏りがしたり、漏水したりすると、こんなことが一番、効果てき面なパンチとなる。10カウント聞いていながら、立てば立てるけれど、立ちたくなくなってしまうのだ。

2003年7月26日(土)くもり
蜂に頭射され、今日の賽銭30円。
林の中の草刈りをしていて、できるだけ深く奥まで刈り込もうと、すっかり草刈りにのめりこんでしまい、「蜂の巣があるかもしれない」ということをすっかり忘れていた。頭が急に痛くなって、気がついたら周りを蜂が舞っていて頭を2か所と肩を射された。まったくの無抵抗で草刈り機を肩から外し、頭を抱えて一時退散。水道で頭を洗おうと蛇口をひねったら、出ない。あっ!「堂もまた漏水しているらしく元栓をお昼前に止めていた」のだ。頭を抱えて微妙に伸びかけている坊主頭を優しく撫でるしか術がなかった。
庫裏から蜂退治のスプレーをとって、仕返しに戻り、一吹き逆転。林の下でまた没頭してしまい、キリがついて機械を停めて本堂脇に下りたら、今度は雨が降っている。女房から「雨が降ってきたら取り込んで」といわれてた洗濯物がすっかりまた水分を含んでしまっていた。庫裏の裏の風呂(貯水タンクがある)で汗を流し、洗濯物を取り込み、麦茶を飲んで、本堂での夕のお勤めを済まし、
川下直広氏のSax Soloを涼みながら聴いている。本日の賽銭箱には30円。ありがたいありがたい。お勤めに「密厳院発露懺悔文」を唱えたせいか、お陰様で頭の腫れもすっかりなくなりビール飲めそうである。
この天気何とかならないだろうか、東北では大きな地震があり、冷夏で終わるのだろうか?明日、育成会でお昼に焼肉をするのだけど、せめてカーッと晴れていただきたい。

2003年7月25日(金)くもり
雨さえふらなければ、暑くなくていいよねぇ。
知らなかった。息子は明日から夏休みなんだそうだ。てっきり課外授業で出かけているのだと思っていたが、違っていた。ま、明日からもまた普段と別段変わりなく課外授業があるらしいのだが。娘は中学総体が始まり、ソフトテニスのために朝早く出かけた。今朝も薄く森の涼しい朝。快食快便。今日は健康診断を午後受けに行こうと思っている。
花がきれいな朝だ。

2003年7月24日(木)晴れ
天候回復するか?暑くなってきたぞ。
青空が広がって風もある。朝方は小雨で今日もダメかと思っていたけれど、お昼に近くなるに連れて徐々に回復してきた。
老人クラブの旅行に同僚のTは付いて行き、浜松の方は降ったり止んだりだそうだ。蝉がうるさく鳴き始めた。たくさんの洗濯物が外の物干しに並んだ。朝気持ち良く庭ではじいた小便も、天に召されていくのであろうか。
(22:15)今夜も遅くなった。昼間暑かったので、やけに虫が多い。網戸があっても部屋の中に入り込んできて膨らんだ腹の周りにまとわりつく。クソッ!!息子の市川高校は、今日準決勝で敗れた。甲子園に行くことのない3年間だった。市川だったら、5回のチャンスに一度くらい行くかもしれないと思っていたけど、また、山梨も私学が強くなってきたようだ。まだ天候ははっきりしないらしいな。

2003年7月23日(水)
大暑なのに小寒のような朝だ。
子どもたちがウォーキングをはじめる頃からポツポツと降り始め、今日の当番は大変だなと思っていたら、3日目にしてやっと参加した娘は「ショート・カット」で終わったと10分もしないで帰ってきた。もう、すこし本格的な雨の朝の風景になっている。大暑だそうだが肌寒い朝で、これじゃ、「こころ」の”うなぎ屋『きよ川』”の夏も厳しいのじゃないかと心配になってくる。
電力不足がクローズ・アップされている夏は、電力会社にとっては使用量の落ち込みよりもありがたいことかもしれないけど...。
町は今日から住民健康診断が始まる。初日が雨で、前の担当者としちゃ、「職員が大変だな」と。
今日は介護保険の、福祉事務所による実地指導がある。息子は、市川高校の準決勝の野球も雨になったからと、また布団の中だ。それぞれがまた、勝手に自分の一日を探しに出かける時間になった。

(23:20)何人かにメール書きながら、「デート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン」のNew Albumを聴いていたら時間の経つのをすっかり忘れてしまっていた。涼しいより寒いので網戸を開けて外覗いたら、たくさん雨が降っている。ホームページもまんざら捨てたもんじゃないなと、感じた大暑の夜。

2003年7月22日(火)晴れ
暑くなりそう、明日の天気はまた下りだけれど。
やはりこんな朝から汗がにじみ出てくるような日が連続しなきゃ、夏とは思えない。そういえば、職場の冷房もこの夏はまだ運転回数は少ない。今日は稼動しそうだ。
夏休みに入り、八日市場育成会では恒例の早朝ウォーキングを昨日からはじめた。眠そうな子どもたちが集まってきて、眠そうにだらだらと歩く。ま、それでもいいじゃないかと思う。朝の畑や風景や、朝の畑に精出す大人の姿を見て育つことは、決して無駄なことではないだろうし、脳裏のどこかに焼きつく思い出になるだろう。連休後の出勤の朝はなんとなくだるい。46歳になってもこんな朝はいつもある。
(21:00) 友部正人を聴いている。「また見つけたよ」「誰もぼくの絵を描けないだろう」のCBSからの2枚は、彼の3枚目と4枚目に当たるが、長いことCD化されなかった。今回、SHOWBOATからやっとオリジナルガ紙ジャケットで発売になった。「また見つけたよ」はギターとハーモニカのみのまったくの弾き語り。「誰もぼくの・・・・」は、坂本龍一がピアノを弾いている。まだ芸大の学生で、ここにはまだYMOの影すらも見えない。やさしい教授のアコースティック・ピアノが友部の歌に絡まっている。特にこの2枚は僕の好きなAlbumだ。1973年・75年の発売だから、30年が過ぎているが僕の心をときめかせる唄達ばかりだ。1975年僕は大学に入った。
連休中友達のことを考えながら、もう戻ることはできない旧い時代のことを思い出したりしていた。いつだったかに恋をして結婚して、いつの間にか子どもたちは手の届かない離れた道を歩き始めている。こんな風に歳ばかりを重ねてしまって、だんだん体力も無くなってきて寂しさばかりが増すような気持ちになってしまうときがあり、「子どもなんか居なけりゃよかったとか、俺には子どもを育てる資格なんかなかったかもしれない」と考え込んでしまう。諸行無常を会得していると言われる僧侶としては、先ずもって恥ずかしいが、今夜友部正人は僕にこれを書かせた。

2003年7月20日(日)くもり
法事一件、拝観4人、朱印一件あり。
九州地方では大変な雨の災害が発生しているようだ。自然には逆らえないので、予期せぬことで害を被り命を落とすこともある。だから、進んで命に関わることなどは避けるべきである。
法事でも命の大切さを話すことができたので、僕の今日の法人活動はまずまず。明日が海の日で休みなので、またのんびりと夜を送れる。ありがたい。

2003年7月19日(土)くもり
宗務所会議ある。
真言宗醍醐派山梨宗務所の会議が、甲府の行蔵院であった。主に宗費の問題である。去年から宗費が大幅に値上げになり、山梨の醍醐のお寺さん方は僕も含めて、皆頭を抱えたお地蔵さんになってしまった。本山から示された59万8千円を20か寺に振り分けるのであるが、昨年は減額免除が認められたのが、今年からは如何なる理由でも免除しないという本山の姿勢だ。
ただ、宗費を収められないお寺の理由が僕には釈然としない。「宗教活動を行っていないので収められない」と言う理由は成り立たんよ。で、宗教法人であるというメリット(税の免除など)の上には、ぬくぬくと胡座をかいているのだ。まぁ、全部が全部と言うことではないだろうけれど、そんな風にちゃっかりしたお寺のようなところもあるのだ。寺が寺の活動をしないのは、魂を捨ててしまっている状態だ。下手でも宗教活動はするべきでしょう。ただ単に引き継いだ寺を自分の代で解散してしまうことは避けたいなどの、体裁を繕うだけの理由なら、いさぎよく解散すべし!と思うのだ。
僕は僕がやれる宗教活動の精一杯を行おうと考えている。それでいいんでしょ?答えも何もないけどさ。お経を読んだり掃除をしたり草を刈ったり、戒名を考えたり塔婆を書いたり法話をしたり、酒も飲んだり。猿を追い払ったり...と。

2003年7月18日(金)晴れ
今日もは暑くなりそうだ。
朝の風は涼しいけれど、今日はなんか暑くなりそうな予感がする。梅雨明けは間近だ。
昨日も小学6年生4人の監禁事件のことが報道されたけれど、こんなことの要因や背景を少しずつ、誰も気がつかない間に作ってきていたのだと思う。
今それらのことがこんな結果となって地上に出てきたのだ。しっかりと物の良し悪しを見極めること。がんばれ。

2003年7月16日(水)くもり
朝からお猿さんの訪問だ。
本堂から客殿に戻り、位牌堂でお経を上げていると、そこの飾り窓からちょうど桜の幹が見えるのだが、見上げると猿がこちらをやはり見ている。「こいつは何をしているのだろう」とでも言いたげな表情でこちらを見ている。終わってから廊下から屋根を見ると、多分今朝来たのは15頭くらいの群れか家族か、小さいのも何匹か居た。困ったものだ。山に手を入れないので、山が森のような状態になり、こちらが登らないので、猿たちがどんどん降りてくる。
今年は梅雨明けになかなかならない。今朝も天気予報では、「梅雨明けは例年や平均よりも遅くなるかもしれない」と言っていた。電力不足の心配される夏だから、エアコンの消費量はこの涼しい夏の入りの7月は、電力会社にとってはありがたいことかもしれない。8月頭にずれ込むかもしれない梅雨明けなんて、若者にとっては、遊びを抑制された夏に思えるかもしれないなと、他人事のように僕は今朝思う。

2003年7月15日(火)くもり
仲野”パパ”仁太さんより、メール届く。
仲野氏は、金森孝介の新しいAlbumでペダル・スチールを弾いている方である。金森さんをネット検索していて家のHPを見つけたとのことである。
氏のお母様は生前、金剛流ご詠歌の教師をされていたといい、またご自身が初弘法の日のお生まれなのだそうである。お大師様とよくよくご縁のある方のようである。で、このHPに行き着いたことも、何か不思議な縁を感ずると。「献身」という言葉を通しての氏のこれまでの歩みの一端を読ませていただいた。ゆったりと流れるペダル・スチールの音が言葉の端々からも聞こえてくるようなメールだった。決して目立たず、でもペダル・スチールは時には激しいうねりのリードにもなりえる。仲野氏の演奏にはこんな激しいものはないかもしれないが、氏が歌い手をサポートして歩んできた道の確かさが伝わってくる演奏が盤には収められている。また、昨日と違った思いで「Tokuzo Live」を聴ける。
きっと金森氏も、仲野氏との「同行二人」を楽しみながら、50代からのLiveを謳歌しているのだと思えた。金森幸介の世界にまた深く沈みそうだ。

2003年7月14日(月)
もうじき雨は上がるだろう、夕べはたくさんの雨が降った。
今週は雨が多いらしいが来週あたりにはきっと、梅雨明けになるだろう。土曜日の日中の雲は入道雲のような力強い夏の雲の様だった。
昨日は家を6時前に出て東京方面へ盆の棚経。たった4件の檀家を訪うだけなのに、最後の家を終えたときはすでに夜の6時を回っていた。雨は小雨だったし、地下にまで発達している交通網のなかでは、傘を差さずにどこまでも移動できる。ただ、雪駄履きで歩くものだから帰宅後の疲労感は十分にある。所沢に住む檀家は地元の霊園に墓地を移して久しいので、そちらの管理量も馬鹿にならないのでと、大聖寺の護持会の積み立ては今回で止めさせていただきたいといってきた。僕はそれは、離檀することになると応え、山梨に帰るつもりもなく、後継ぎが娘夫婦という事情などもわかるので、檀家を離れることを承知してきた。僕自身も所沢へ行かないで済むことは、正直ありがたいのだ。
あっさりと先祖からの歴史を否定されてしまうこともあれば、ここの寺を気に入って東京から通うことさえ楽しみだと言ってくれる新しい檀家もある。電車の中でいろいろと考えさせられた。甲府に車が置いてあるので、棚経に行ってはじめて飲まずに中央本線を帰ってきた。でも僕はこんなことも時代の成せることだと受け入れようと思う。先祖の供養を一番自分のしやすいところで継続していくことが、それはそれで一番いいことだと思えるからだ。

2003年7月11日(金)くもり
蒸し暑い一日になりそうだ。
出勤前に牧丘のおばさんから、女房が贈った中元へのお礼の電話があった。牧丘は今、特産品の巨峰のための農作業で忙しい時期だ。多い時には5人くらい手伝いに来てもらっているのだと話していた。高齢化が進み、後継者が不足しているこのブドウ作りも、大変に手間のかかる作業らしい。一房一房が人の手によらなければ収穫できないし、またそれを育てていく課程も同じなのである。傾斜地のぶどう園の棚を一日中見上げながら作業することを、もう今の若い世代には耐えられないことかもしれない。ワインのためのブドウ栽培なら、痰化(わいか)栽培も可能なのだろうけれど。美味いものを口に運ぶことは容易で、ただ単に「うまい!」と思うが、そこまでのことをさかのぼって農家のことを考えてみることはほとんど皆無だ。
結果だけを捉えると、おいしいとか、「犯人は許せません」とかだけで終わってしまうが、その背景や実情を深く知って、そこに至る経過をじっくりと知る必要があるだろう。殺された幼児の未来は突然に鍵裂きのように終わってしまったけれど、事件を起した少年の心の中を興味本位だけではなく、ゆっくりと温めて溶かしていってあげられるような審判を続けていってほしいと願う。

2003年7月10日(木)小雨
やっぱ、東京のCD SHOPは立ち去りがたい。
早起きで靖国神社参拝団の引率。小雨の東京。でも、それ程濡れることもなく靖国を皆さんは参拝。僕と同僚はバスの中で待つ。
僕には靖国は立ち入れない場所。決して入ってはいけない場所。誰にもうまく説明はできないが僕がそう思っているのだから僕の中ではこれが正しい。
夕べ遅いテレビで、長崎の中1男子が補導された問題への校長だったか、「人を殺してはいけないという教育をしなければ」、というようなコメント。人を殺す戦争に参加する方向に国自体が動き始めていることが、何故、これらのことを幼い者たちに教えられるか?戦争で殺しあう命は重みのないものなのか?これでは、大人は教師になれない。
この国の生き方には疑問が生ずるばかりだ。みなこれらのことが糸でつながっているのだとさえ思える。
久しぶりに「新宿disk union」。やっぱ去りがたい、もっともっとゆっくりとAlbumを探したり、眺めていたりしていたい気持ちになった。財布と相談しながら、中古ばかりを6枚(1枚は2枚組)買う。奄美のシンガー、中孝介。渡辺勝のフェイドレス。このAlbumは出ていることさえ知らなかったので、大大ラッキーな掘り出し物。西濱哲男のBlues。岡野弘幹のバンブー物。浜田真理子「月の記憶」(これは注文してあった、Amazonに帰宅後商品キャンセルをする)。メスカリン・ドライブ1枚。unionも、新宿店のそばに、jazz館、プログレ館、Soul Blues館が独立して、ここをまた渡り歩くのもなんとも充実した気分だ。3時間があっという間に過ぎてしまった。

2003年7月9日(水)くもり
従兄からメールが届いた。
こんな事があるからこの魔法の機械は面白い。すぐに、遠い時間が埋められていくように感じるから不思議だ。
今夜は夕食後ずっと、新しいページ作りをしていたが、なかなか思うように作れなくて、今夜はもう諦めるしかない。明日「靖国神社参拝の引率」で、6時出発なのだ。実は新宿で、皆が「大月みやこ公演」をコマ劇場で観ている間に、レコード屋を覗くことだけが楽しみなのだ。
13日にお盆の棚経にやはり上京するんだけれど、この日はもう一日歩き詰で、ゆっくりできる時間もないので、明日は楽しみだなぁ。
長崎の男子殺害事件も、中学1年生の犯行というショッキングな結果となって解決したが、こんな事件の報道ばかりでは気が滅入る。草刈り坊主だけではいけないんだろうな。

2003年7月8日(火)くもり
大学受験も大変だ。
息子の自己推薦書の添削をしてやったりしていたのだが、今夜彼が学校からもらってきた資料の中に、自己推薦書の作文の事例がある。この事例で、こんな風に書かなければいけないとか、ここまで書いてもここは直接受験する学科と関係ないので、いくらかの評価はできるものの、合格ポイントとして大きな点になるものとは思えない、などの添え書きがしてある。いわゆる推薦入試の作文の虎の巻が実在しているのだ。びっくりした。
こんな時代かと。学校の先生から添削された自己推薦文からは、僕が「ニュースや新聞などからの世界の動きにも興味を持っていることを書いたらどうか」とアドバイスして、息子が書いた彼自身の言葉が削除されていた。「何故だ」と聞くと、「面接のときにそこを突っ込まれる可能性があるので、時事問題などは直接受験と関係ないので書かないほうが無難だ」と言われたのだそうだ。俺はこんな
テーチャーに指導されているのかと思うと泣けてくる。センコウも地に堕ちたな。多分僕なんかと同年代の先生が主流になってきているのだろうとは思うけれど、俺なんかは変わり者だからな。
息子はこのことを特別なコメントも発しなかった。ただ、教師が書かない方が得策だと考えると言う意見を呑むだけなのだ。う〜〜〜つかれた!!!

2003年7月7日(月)くもり
挙動不審者本堂に現る。
昼ご飯を終えて職場に戻ると、女房から電話で「さっきから本堂に変な人が居る」と。彼女曰く、本堂に上がって中に入ってみたり、賽銭箱を腰をかがめて覗き込んだりしていると言う。僕が戻ると、「墓地の方へ歩いていった」と。で、僕も墓地へと向かうと、80歳に近いような老人がゴムのサンダル履きで歩いている。思い切って話し掛けると、「毎月お参りに来ている」のだと言う。「何故裏の方へこそこそと逃げるように歩いていくのだ、お参りに来たのなら堂々と正面から来て正面から帰りなさい」と言ってやった。どうも、この御仁、僕のなんとなくの直感で、宝前の日本酒と、その前にあった不動明王のお厨子の前の賽銭箱の泥棒ではないかと思った。結構とぼけた感じで、受け答えものらりくらり、かなりの常習者のような感じだった。僕がまた車で職場へと向かうと、村を出たところのガソリンスタンドの前を自転車で走っていた。自転車をどこかに置いて裏の墓地から本堂に下りてきて、人の気配を伺いながら本堂の横の障子戸を開けて中に入り込むのだろう。先ず間違いないな。今日も近所の一人暮らしのTさん宅に泥棒が入ったとの情報も得ていたので、昼休みに女房にそのことを伝えたばかりだった。ここら辺りも最近は泥棒に入られる家が続いている。寺も気をつけなきゃいけん。
晩飯のそばを腹いっぱい食ってしまって、腹が苦しくて、キーボード打っているだけじゃそばはこなれない。つらい。

2003年7月6日(日)晴れ
団体参拝あり。
甲府市より、石造佛研究会のメンバー15名ほど来山。うちは石造佛とは直接関係ないが、こちらに来るついでに不動明王をぜひ拝見したいとのことだった。
今日は8時30分から護摩を焚く。なかなか焚く機会がなかったが、今日は参詣者もあるのでその前にと護摩を焚く。穏やかな世界になるように、こんな田舎の寺からだけれども世界に思いを伝えたい護摩を焚いた。日曜の朝の静かな本堂での護摩の時間は、仏と一体になっているなんてことまでは言わないが、幸せな時間である。
M先生が民俗資料館の草刈りに7時に来て、僕が護摩を焚き終えて掃除をしていると再びやってきた。資料館の見学もあるのだそうで久しぶりに会ったので、しばし会話。「この間の詩は良かったよ」と誉めてくださる。彼は父の最期を寄り添ってくれた僕に大切な人である。資料館を辞めてからも時々見学者の案内をしたり、館の周りの草刈りに来てくれる。
僕は護摩を焚いて、その後護摩壇も含め本堂の掃除をしばらくぶりに済ますことができ、なんだか儲けものの日曜のような気がした。11時半頃から参詣者の案内をし、午後はまた草刈り。体は休みたいといっていたが、日差しの強くない今日は僕に草刈り機を持たせずにはいられなかったようだ。
息子は大学の面接のための自己推薦文を書いているのだが、まあ下手くそで、日本語の辞書は限りなく薄っぺらだ。これからの子どもたちはみなそんな風になるのかもしれない。難しい言葉を覚えようということではないが、選択肢の多い日本語が僕は好きだ。

2003年7月5日(土)晴れくもり
午後からは曇り、夕方には少し雨が落ちてきた。
明日の日曜はまた天気が下り坂だという予報。
もう墓地は草がいっぱいに生い茂っている。今年は竹の子の生え方も昨年の比ではない。この魔物のようなエンドレスの生き物との第2弾の格闘を今日行った。いやぁ疲れた。どっと夕には疲れがくる。
平塚に住む檀家より送られてきた湘南ビールを2本飲んで、焼酎のお茶割を3杯。もう背中から痛みと疲れと眠さが襲ってきている。
竹も、朔太郎が詩の題材にするようなうちはいい。朔太郎は竹のかっぱらいなんかしなかっただろうな。明日は雨になるといいなと頭も体も弱音を吐いている。

2003年7月3日(木)くもり
蒸し暑い一日で、不快度100%。
何でこんなに毎日毎日不快な出来事ばかり起るのだろう。梅雨の時期で、天候も不快だけれど、世間の不快さはそれをはるかに上回る。老若男女すべてがこの対象で、やくざの抗争ばかりが物騒なことのように思えた昔とは大違いだ。
今日の困ったもんだなぁは、共産党幹部と党本部職員の「私的な外部飲酒はダメ」というもの。仕事終わっていっぱい飲み屋に寄り道していくこともまかりならんと。これが共産党の体質なのか?と呆れて物も言えんわ。
イラク特措法案が明日衆院を通過するぞ。自衛隊は秋にはイラクへ派遣される。自衛隊はまた軍隊に近づいた。ますます小泉の思い通りにことが運ぶ。奴もまた、さして北朝鮮のキム某と変わりないのだ。急ぐなニッポン!

2003年7月2日(水)晴れ
イラク復興特別措置法案に反対!!
自衛隊がイラクの復興支援に赴いても、本当の後方支援はできないし、自らの身の危険を回避することもできないと。保守防衛することもできないじゃないかと。
【日本国憲法第9条】
 
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国の交戦権を認めないという条文もまた否定しようとする。喉もと過ぎれば熱さを忘れてしまうお気楽な机上の論説者たちに負けない、強い意志とイラク侵略に加担しない姿勢を貫こう。

自衛隊が何もできないのではなく、何もしなくていいのです。私たちは世界に誇れる憲法第9条を盾に、堂々と世界に胸を張って「いかなる戦地にも派兵しない」という確固たる信念を、逆に非戦国家のリーダーとして誇ればいいのです。このことが一番大事なことです。これを揶揄するような輩は人間失格です。これが今、日本の取るべき正しい姿勢だ思うのです。こういう、いけないことを後世に伝えてはなりません。野次馬根性丸出しで、騒ぎの輪に入っていくことはないのです。時には輪の外にいることも大事なのです。輪の外にいて、私たちは静かな音楽を聴いて、心の中に非戦の芽を育てていけばいいのです。

2003年7月1日(火)
星は降ることができない夜だ。華やかではないが、ここには惨めさも同居はしていない。俺はここに生きることで絶えず平和であることを祈り望んでいる。願い事などさして多くはない。当たり前に暮らすことができて世界が平和でありさえすればいい。
所詮いつかは消え果る身なのである。手に余るほどのことを思っても仕方がない。世界の平和を望むなどスケールが大きすぎると思われるかもしれないが、ロウソク1本の灯りに線香1本立てて僕が祈るのだから、これはこれでいいじゃないか。
7月に入り、これからまた夏が来る。「勝手にシンドバッド」は、再発したらオリコンの初登場1位なのだそうだ。懐かしい時代が蘇えってくる。サザンの1st、2ndは屋根裏だ。色の褪せない歌たちに乾杯。器用に生きてきたわけではないけれど、今この時代まで歌いつづけている僕の大好きなシンガー(詩人)にも、7月の最初の酒を注いであげたい。友部正人、高田渡、加川良、金森幸介、豊田勇造、友川かずき、三上寛、下田逸郎、有山じゅんじ、シバ、いとうたかお、ダッチャ、大塚まさじ、象さん...。

2003年6月30日(月) 晴れ
ボーナス出る。穏やかな女房の顔がある。

金があるないにこだわらない生活をしたいものだと思っているが、現実はないよりある方がいいと思ってしまう。女房の顔も言動もいつもより穏やかだ。酒を飲んでいてもお小言はない。大目にみましょうの夜だ。
僕はこれでまた、少しのCDを仕入れさせてもらう。
今日は社協の合併協議会の設立の会がもたれた。これから本格的な合併のための会議をしていくことになり、慌ただしい日々になってくるのかもしれない。明日はもう7月だ。半年が過ぎた。夏は暑い暑いと、ビールを飲んでいるとあっという間に秋になってしまう。
あいつがもうすぐ車の免許を再取得できるのだと聞いた。特別に何もしてあげられることはできなかったけれど、これを伝えてくれた女史とも、奴の復活を願って待ち焦がれていた。多分何も語ることはないだろうし、改めて語り合うこともないだろうけれど、奴の再生は地下に眠る二人の先輩たちも喜んでくれるに違いないと思う。で、この地上にいる俺たちがもっと奴の再生を諸手を上げて喜んであげることができないものかと女史も俺も思っているのだけれど、現実は如何なものか?

2003年6月27日(金)晴れ
金曜の夜。ソフトボール=酒の夜。
久しぶりのソフトボールの晩で、もう少ししたら出かける。
「性同一性障害」の方たちの戸籍上の性別変更が可能になる法案が出されるようだ。男と女という性だけではないということだ。男の形を持つ女というような存在もあるということだろう。雌雄同体の虫もあるわけだし、人間だって動物の一つで、100%が男と女に完全に分かれることなどとうてい無理なことなんだろう。マイノリティはなかなかカウントされてもらえずに、我慢しなければならないような世の中だ。
生まれたときには、僕は女性を好きになるか男性を好きになるかなんて承知してはいない。個々を認めて回りも生きることが大切なんじゃないだろうか。戸籍なんて枷があるからこの国では不自由さがいつもつきまとう。背広を羽織ってネクタイをしていなければ認めないような風潮が相変わらずある。暑さの夏をおろおろ歩くときには、ネクタイを外してもいいし、ポケットにしまってもいいだろう。

2003年6月26日(木)晴れ
こんな田舎じゃ、ホントに何にもなく月末となる。
寺院管理のソフトをいくつか、試用版を使ったりもしたけど、如何せん高いのだ。欲しいけど手が出ない、というか、出せば出せないこともないんだけど、自分の寺の規模を考えるともったいないと思っていた。で、今回38,000円のソフトがあったので買った。僕は過去帳の整理をしたかったので、まさにそれだけができるものであれば良かったので、今回の「寺院管理簿やすらぎ」は適当だったかもしれない。
年収8千万円以上のお寺であれば、もっと多機能の寺院の管理ソフトが必要なはずだし、僕のところでは会計の管理も必要でないので、過去帳の整理だけしておきたいことを思っていた。ただ、過去帳もひどく旧いものは読むことも僕の頭の域を超えていることもあるので、僕が今の時点で例えば100回忌をする辺りまでの聖霊をパソコンには取り込むことにした。
CDのコレクションのホームページへの掲載が済んだので、今度はしこしこと寺の墓籍帖のupだ。これも過去の人との語らいが僕にはある。今年中に終えられるかどうかわからないけれど、楽しみだね。

2003年6月25日(水)晴れ
梅雨らしい午前の雨の後は、からっと晴れて蒸し暑い午後だった。
朝はだいぶ降っていた。台所からお蔵の屋根を見たら樋が外れていたので、「直さなくちゃな」と。天気予報は当たっていたようで、お昼前には雨が上がる。昼飯の後すぐに屋根に上がって樋を直す。晴れ晴れといい天気になって、いい空を屋根の上で眺めた。
女房は午前の病院の食事作りの仕事を終えてくると、真っ先に洗濯物を急いで外に出した。僕は屋根から下りて、裏の排水路の中の落ち葉のたまりを掻き出し、わずか一時間の休みを慌ただしく過ごして汗を拭き拭き、また職場に戻っていくのだった。雨上がりの寸暇を惜しむように、私たち夫婦は言葉も交わさずに己の役割をこなすのであった。ちゃんちゃん。

2003年6月24日(火)
梅雨らしい一日だったかもな。
丸々一日は降らなかったけれど、梅雨らしい日だったな。
標住職からは「サクランボお礼」への返信にあわせて、昨日「サンニチ」に載った詩の感想も送ってくださった。細く細く詩を書いていきたいと思っている。が、短歌もずっと前にライフワークとしたいなどと公言したこともあるので、大きなことは言えない。年に一つでも二つでも詩が書けたらいい。どこかで書くこととのつながりだけは維持したいと思っている。
紫陽花の詩も書きたいと思うが、紫陽花は見ていればそれが詩だと思えてしまうので僕には難しいようだ。

2003年6月23日(月)くもり
夕方からは雨になるのか。沖縄慰霊の日だそうだ。
お昼に帰ってきたら、友人の標住職からサクランボ(佐藤錦)が送られてきていた。真っ赤に熟れたサクランボは霧が吹かれているのか、保冷庫で運ばれてきたからかうっすらと濡れていて、甘くて美味しかった。東北じゃ、サクランボが盗まれる被害が続発していると報道がされているが、旬のものはやっぱり美味い。
ご住職の高校の同級生だといっていたか?、生産者は「KEN農園(園主:志村研)」。お値段はわかりませんが、連絡先が書いてあるので、美味しいサクランボを食べてみたいと思われた方は連絡してみたらいいでしょう。「サクランボには、鉄・カルシウム・ビタミンC・カロチンが多く含まれており、貧血・疲労回復・美容に効果があります」と説明書も入っております。
(20:00) 今夜は女房と、この寺を継いでくれる者が現れたら任せようと話した。もう何年も思っていることだけれど、息子が後継となってくれなければ僕たちは、ここをしっかりと任せられる人に任せたいと思う。僕は僧侶をやめるつもりはないが、ここを誰にでも渡せるだけの心積もりはある。寺に興味はあるが、そこにしがみ付いていたいという気持ちはない。ここは僕のふるさとで子供たちの生まれた場所だけれど、僕たちが必ずしもここに留まる理由や資格はないのだ。

2003年6月22日(日)くもり
これがほんとに骨休み。
昨日は一日境内の環境整備に費やし、夜は身延高校の同窓会のための集まりで飲んだ。30年振りに会う過去の顔が10人くらい集まった。だいぶ老けた。中でも歯科医が一番の親爺だった。11月にある同窓会の当番幹事が昭和50年の卒業生。催し自体にはまったく興味がないので、よくよく当日の不参加を伝えておく。金を集めることは地元の分くらいは引き受けましょうと。卒業してからまでも学校は縛るのかと懐かしい話題で飲んだにしては、心の隅に若干の不愉快。
で、今日は体も痛いので、これがほんとの骨休みだ。女房と子どもたちはピアノの発表会に出かけ、帰宅は6時過ぎとのこと。WOWOWで映画観ながら、ジャズ聴いて、ネットサーフィンして居る。曇り日だが風も無くて部屋は暑い。パンツ一丁で骨休みをしておる。

2003年6月20日(金)晴れ
影響のない台風が過ぎて、ここの朝も青空広がり、すでに部屋は24度だ。
気持ち良く台風一過の青空があり、いつもより強い風がケヤキの大木を揺らしている。気持ちのいい朝だ。本当は客殿も開け放って、この風を入れてやりたいのだが。出勤前ではいかんともしがたい。こんな風に吹かれていられたら一日何にもせずに、樹陰にむしろ敷いて眠っていたいものだ。頭の中から真っ黒な腹の中の臓物まですっかりと日に晒して、新しい風に再生願いたいものだ。

2003年6月19日(木)くもり
曇りでも気温は高い。でも夕方には参った。
雨がなかったので、予定通りに老人クラブのゲートボール大会は開催。準備を手伝い僕はデスクワークに戻る。蒸し暑く、部屋の中にいても不快な気分だった。電力不足が言われているので、できるだけ冷房を避けようと思うのだが原発の再稼動が始まる報道もある。
今日僕は、ソシエテ・コントル・レタと金時鐘とのAlbum「風は海の深い溜息から洩れる」を手に入れ聴いている。僕の父と同世代の詩人と、ソシエテ・コントル・レタ(国家に抗する社会、※彼らは
「国家をもたない社会」と解釈してBand名を使用。)のポエトリーLiveだ。詩人は前口上で、拉致事件を恥じ入ると話して始まる。弓の島に生まれた人間だって、恥の上に胡座をかいているじゃないかと俺は思う。拳一つは強そうだけれど、拳一つに握られてしまった国家など、表現はいく通りにもあって場末の映画館のように雨に濡れている今夜の俺だ。インターネットの綱渡りをしていると、時々こんな掘り出し物のようなアバンギャルドなAlbumに出会えることがある。スピーカーから流れる音楽と詩人の語らいと、網戸から入る雨音と風の音が、またこの僕の部屋では相乗効果となっている。なーにが、ニッポンジンだ!屁でもねェ。ニッポンジンの前に、せいぜい生きたって80年のちっぽけな生き物に過ぎない。互いを大切に敬い、欲など持たずに生きようではないか。

2003年6月18日(水)雨少々
中学校支部懇談会あり。
夏休み前に一度あるらしいんだが、中学校の支部懇談会があった。うちが今夜の記録係だそうで、女房に「お前行ってこい」という訳であった。学校から校長・教頭以下5人の先生。保護者のほかに、地区の区長や民生委員・町会議員・教育委員など大勢の顔役たちも出席だった。
こんな会議にはいつだって活発な意見なんか出ない。お偉方退席の後、学年ごとに分かれて話し合い。進学に関してお子さん方はいかがですか?と先生の問いに、全員が一様に「ぜんぜんやってないです。寝てばっかりです」と応える。僕も「うちも同じです」と。皆が勉強ばかりしていて成績が上がれば、またそこのレベルの高いところで、できる子できない子の差別化が助長されるだけなんだろな。僕にはうまく言葉にして説明できないけれど、きっと今の子どもたちは、僕が育ってきた環境とはまったく異なる環境に生きているのだから、将来の捉え方もまた違って当然なのだろう。それぐらいしかわからないなぁ。
今朝息子は起きたけれど、「気分が悪い」とまた寝てしまい学校を休んだ。少食を美徳とし、夜も遅くまで勉強や携帯でのコミュニケーションのために起きている彼に、朝は一番辛いのじゃないだろうか。時々具合が悪くなるのも至極当たり前だ。奴を叱る気にもなれない。奴の現実を僕には受け入れることも理解することも、僕にはかなり難しいことのように思えている。

2003年6月17日(火)くもり時々あめ
ジャンジャン降ってもいいんだよ、と梅雨空に言ってあげたくなる。
ような梅雨だな。「いいんだよ、もっと堂々と降って。遠慮要らないからね」と言ってあげたくなる。遠慮深い今年の梅雨だ。
紫陽花の写真を載せたら、Nくんからつつじの写真が送られてきた。うちはもうつつじは終わりだ。手をかければかけるだけいい花もつけてくれたり、楽しませてくれるのだろうけど、庭木の扱いはトンとわからない。短くさっぱりとすることに心がけているだけだ。だから、花芽を摘んでしまうような時期に刈り込んで、翌年まったく花が咲かなかったりした。それでも僕はさっぱりとしていればいいや、と思うことのほうが自分としては納得できた。今は少し教わったり、テレビで見たことを忘れないように心がけているのだけれど。ゆとりのないことは、僕自身に花が咲かないので、極力避けようと思う。のんびりやるさ。

2003年6月16日(月)くもり
曇りの月曜の朝。紫陽花を撮った。
色づき始めた紫陽花を写真に撮った。たくさんはないが、本堂の脇の薄くらい場所に、その淡い紫はとてもよく似合う。存在を鼓舞するわけでもなく、いつだって静かだ。鳥のさえずりだけが聞こえている。
仕事を追えて夕暮れの近い時刻の紫陽花はまた、いっそう色を増して美しい。少しの雨が降ったので、花の色が濃くなったのかもしれない。ひっそりと美しく咲いてよ。こんな時代だから余計に君が好きだ。

2003年6月15日(日)くもり
雨は降らなかったなぁ。
てっきり朝起きたら降っていると思っていたんだけど、今日は降らなかった。日中降らずに夜少し降るというパターンの今年の梅雨かもな。
夕べは光明真言が終わってから、A山さんちへ飲みに行った。女房に運転してもらったので、「1時間ね」と出かけたが、結局2時間近く11時に帰ってきた。にわか酒屋には2組の先客が居って僕たちを待っててくれてたので、えー!ヤッ!!と飲んじまった。ラブラブのカップルも居たのである。こんな時代だ懐かしいなぁと、ちょっとうらやましかったが...。
今日も夕暮れ近くに、御朱印1件あり。和服を着た清楚なご婦人であった。春の遍路というか、甲斐百八霊場巡りの人たちがぼちぼちとある。訪ねてくれる皆さんには、何故だかこちらがありがとうと頭が下がる思いである。
毎日竹の子の食卓。美味いと感じるうちはいいが、そのうちねぇ...。

2003年6月14日(土)晴れくもり/あめ
少し雨が降ってきた。
まったく休みの日は草刈りか、無気力にゴロゴロと過ごすかのどちらかだ。出かける気には一向になれない。別に行く宛てもないのだが。午前中草刈り。午後は2時くらいから今まで、つつじの刈り込み。気をつけながらやっていたはずだが、刈り込み機の延長コードを刃で少し引っかけてしまった。切ってしまわなかったので、テープで応急処置でOK。刈り込み機で結構コード切っちまうんだよな。雨が降ってきたので、また続きは明日。降らなければいいけど。
ご朱印一件あり。今夜「光明真言」なのでシャワーを浴びた後、お不動さんの仕度に行くと、お厨子の前に上げてあった箱入りのお酒が一本座布団の収納箱と、板壁の間に置いてあった。昨日の夕方「あれっ、おかしいなぁ」と思っていたのだが、これで納得。誰か飲みたかった人がお厨子の前からお酒を失敬し、2本持っていくのも気が引けたのか、2本持つ姿は目立つと思ったのか、箱から出して1本持ち去ったということだった。生憎と本堂にはつまみになるような物は供えていないので、持っていかれた方には片手落ちだったかもしれない。仕事をしてシャワーを浴びた火照った体に外の雨と流れる風が心地良く、こんな事件もさらさら腹を立てる気にならない。
娘のテニスの試合の応援に一日出かけていた女房が帰ってきて、「団体戦で、県大会に出られることが決まった」との報告。「まだ、今から決勝だよ」「向こうは雨がけっこう降ってるよ」と。個人戦で思うような結果が出なかった娘は、少々苛立っていたようだったが、これで今夜は納得して眠れるのかもしれない。気持ちのいいやさしい雨だ。

2003年6月12日(木)晴れ
大丈夫だよぉ、ゆっくりやればいいんだよぉ。
今朝のNHK『こころ』。老舗のうなぎ屋の板場を任される事になった若い板前が、肝焼きを大女将に差し出すと、それは焦げてカリカリで、とても店として客に出せる代物ではなかったが、うなだれる板前に大女将が返した言葉。「大丈夫だよぉ、ゆっくりやればいいんだよぉ。」岸恵子演ずる大女将のこの言葉は、今朝爽やかにやさしかった。喉元まで出かかっている言葉を飲み込んで、じっくりと経験を積んでいく過程で職人を育て上げるという、気骨な老舗の大女将の懐の広さを見させてもらった。
「足元ばかり見て、せかせかと生きなくていいじゃないか。もっと遠くを見て歩いていってごらんよ。」といったような気持ちなのだろうか。近くばかりに気を取られていると、車窓の風景のように短い時間にあらゆることが移り変わるが、遠くを見晴るかすと、そこはいつでもどっしりと構えていて動じない威厳がある。そこを知ることが大切なのだろうと、思った朝だった。
前から探していた、浪速Soulの女王、大上留利子の在籍した「スターキング・デリシャス」と、彼女のFastソロアルバム「タイフーン・レディ」と、70年代の日本のテックス・メックスBand「オレンジ・カウンティ・ブラザーズ」のCDがやっと手に入り届けられた。大上のvocalはやっぱ最高にいいね。今彼女に対抗できるボーカリストはいるのだろうか。彼女が育てたボーカリストはいるかもしれないね。や、でもスタキンのアルバムは必聴ですよ。ホンマに。8.8.Rock DayのAlbumに何曲か収められているから、それを探して聴いてみるのが手っ取り早いかもしれないね。オーティス・レディングの「ザッツ・ハウ・ストロング・マイ・ラブ・イズ」のカバーは一度聞いたら鳥肌ものですよ。今夜レコードが聴けなくなってから久しぶりのこのAlbumに、酔いしれておりますわ。

2003年6月11日(水)くもり
今日も結局雨は降らずに一日過ぎてしまった。
久しぶりに甲府へ出張。出張の際には定番となった「上田屋」でT君とラーメン。正確にいえば「ラーメンと焼きもつ・半ライス」のお昼のセット。すこぶるうまい。原が一杯になって午後1時半からの会議(職員の会の定期総会なんで)は、眠気を耐えながらやり過ごして、シャンシャンの総会後、講演会など聞かずに早々に退散して帰ってきた。
コロッと変わって、半年ほど前から「MY YAHOO!」を利用している。何でもっと早くに利用しなかったかと後悔しているくらい今の僕は重宝している。カレンダーの予定表を自宅でも職場でも同じように見られるし、それぞれの場所で追加変更もできる。ヤフーの興味のあるところを自分の好みでチョイスできるのでこれも便利。ニュースや地元山梨の天気予報や音楽のサイト、それから意外に使っているのが、「辞書検索」。これはいい。国語の辞書引かなくても、漢和でも和英でも何でもOKよ。まったくこんなに便利になってしまって。今夜はStudio Weeの新作、Bassの水谷浩章氏のユニット「フォノライト/while i'm sleeping」が届いたので楽しませてもらっている。旬のMusicianのいいアルバム出してます。まったくはずれがない。竹の子のように天に向かってまっすぐ伸びるJazzを僕に贈りつづけてくれている、ように感じている。

2003年6月10日(火)くもり
今日一日は雨が落ちなかった。
夕方A山さん竹の子とりに来る。その前に僕が竹林に入り竹の子をとる。雨が降れば竹の子はもっと伸びるだろう似、今日はいささか拍子抜けの竹の子を10本近くとる。でもこれはこれでうまい竹の子。A山さんと夕暮れのベンチに座って、缶ビール飲みながらたわいのない話。こんな時間が好きだ。大分前の話。(仕事が終わってから富士川の河原で、「暗くなったらお終いね」という飲み会もしたことがあった。)こんなことを企画する人が好きだ。
夕の風は気持ち良く、もう1缶ずつでも飲めばよかったかなと後悔先に立たず。「めんたんぴん」の野太いrockを今夜聴いている。

2003年6月9日(月)晴れ
風出てくる。雨の予感。
職場のメインのパソコンのハードを新しいものにしたんだけど、今日間に合わなくて明日の午前中にということになった。ということだけでもないが、午後休んで草刈り。雨が来そうだからもう少しきれいにしてしまいたかった。今週は明日から週末の土日まで曇りと雨マークだ。
女房は竹の子を採った。今年はじめての竹の子が夕の食卓に乗った。まさに旬の味で美味かった。これが続くと嫌になるんだよなぁ。でも今夜のはやわらかくて美味かった。晩酌もいけてしまった。草刈りはFreeのJazzのようだと思えた。リズム体がしっかりと土台を作って、saxが怒涛のうねりをあげてくる。俺も夏草に負けない意志と体で立ち向かう。容赦なくなぎ倒していく。爆音の中で草を刈る行為は、渋さしらズのメンバーの格闘と同じようなものかもしれないと思えた。
「渋さ...」聴きながら思ったこと、有事法制に負けない力をもらった。皆それぞれの場所で、明るく楽しくがんばろう!!!!

2003年6月8日(日)晴れ
なぜかピザ食って、ジーコJAPAN応援したんだけど、だめだったなぁ。
サッカーはアルゼンチンに4:1で完敗。巨人は横浜に今夜も勝ちそうだ。今夜はわざわざ遠くの町までピザを買いに出かけて、ビールとピザで応援したけど、自信に満ちたアルゼンチンに圧倒されてしまったようだったな。
裏の庭の草刈りをしたら、山椒の木の若芽がいい香りだった。この若葉の佃煮をずっと前に望月さんという陶芸家の方が作ってくれて、これをちびちび口に入れながら、庭で飲む日本酒が美味かった。きょうはこれをうちでも作ってみたいと思ったので探してみたのですが、実山椒の佃煮は出てくるんですがねぇ。まあいいか。
真竹の竹の子もだいぶ出てきた。まだ食してはいないけど、今年のも美味そうだ。梅の実もなっているし、庭梅の実も3粒なっていて、ひとつだけ食べてみた。また月曜日がくる。

2003年6月7日(土)晴れ雷雨
午後8時30分雷雨になる。大きな雨足。
入浴中に雷がゴロン、ドカンと鳴り、雨が降り始めた。雷鳴という奴だ。夏が近くなる予感。先週掃除した樋がきれいになって流れるだろう、きっと。僕にとっては樋の流れをよくしてくれる恵みの雨だ。
風呂から出て今PCに向かっているが、雨足は激しい。僕は「るり式」という'るり'のAlbumを聴いている。陽水の「傘がない」だ。
今日は朝9時から中学校の親子「協働作業」で汗をかいてきた。今回で僕も義務教育の奉仕作業は終わりだ。子らの成長は僕が歳をとるより早い感じだ。息子はとうに僕の背を超え、娘も僕を超えそうな勢いだ。(※ジャイアンツが勝ったので、女房は結構機嫌よく布団を敷いている...僕より野球中継の好きな母娘である。)
雨は気持ちがいい。でも明日は晴れていて欲しいと思う。いま大きな雷が鳴った。
「るり式」は、'カレーライス'になった。

2003年6月6日(金)くもり
有事関連三法案が今日国会を走り抜けてしまう。
この最悪の法案は、一握りの抑圧者たちによって国会をマジックのように通り抜けてしまうだろうけど、『イギリスがインド統治時代、戒厳令の法律をつくろうとしたとき、ガンディが「この法律が通っても私は従いません」という宣誓書にサインし、それに多くの人が賛同署名して、法案は通過したものの実際の戒厳令発動は阻止したことが』あったそうです。(星川淳「インナーネット・ソース」より転載)
こんな法律にうな垂れることなく、しっかりとした気持ちを持ちつづけ、自らの意思を表しましょう。運用のない法案という封じ込め作戦に、僕は山寺から祈りを発します。戦争や暴力のために私たちの財産や自然が勝手に使われたり、破壊されたり、兵器の製造所にならないために、いま紫陽花が日ごとに色濃くなるように、僕も自分の気持ちを色濃くしていきます。有事法案を、無事法案に!!!
一週間が終わり明日は休み。今夜はソフトボール。出番はないけれど、仲間と会って、試合後に飲むのが至福だ。有事法制のことなど特別に話すわけでもないけど、一杯飲んで近況を話すのもまた、ここに生きる僕には大切な糧になる。

2003年6月5日(木)晴れ
「どっちの料理ショー」うどん美味そうだなぁ。
過日のH君の結婚披露宴でいただいてきた「カタログギフト」で、「なに頼みましたかぁ?」というメールが届いたので、女房に「どうした」と聞くと、「まだ出してないよ」というので、今「どっちの料理ショー」見ながらカタログをパラパラッとめくっていたら、テレビじゃ今夜は、”冷やし中華vs讃岐ぶっかけうどん”だったので、カタログにあった「加賀屋のうどん・そば」のセットを頼むことに決めた。
で、メールの返信も「ツルツルしたものにしたよぉ...」となった。ヘヘッ!
午後8時過ぎに職場を出たら、蛙が大合唱だった。夕べは雨も降っていたので、あまりよく聞こえなかったのかと思ったが、そうではなかった。職場の隣りの田んぼに水が入って、今日代掻きされて、一面の水田に蛙がうれしそうに鳴いているのだ。今あちこちで田植え真っ盛り。いい季節なんだなぁ。
夕べは子どもクラブの会議に出席したら、なんと帰ってきたら11時だった。晩飯も食っていなかったので、腹の虫も呆れて半眠りしていた。今夜はそんな風にならずに腹の虫も落ち着いてテレビの讃岐うどんを眺めておる。

2003年6月4日(水)くもり
今にも雨が...。
曇り空。曇りずら。今にも雨が降り出しそう。灰色の空は山の稜線も隠してしまい、のっぺらぼうな風景だ。
昼飯を済ませたところだが、テレビで女性のアル中の特集をやっていた。一日に缶チューハイを5リットルも飲むという女性もいたし、30代前半なのに、ろれつが回らない状態になっている方もいらっしゃる。男性の飲酒は下降線なんだそうだが、女性は上昇しているのだそうだ。
女性の社会進出云々、と真面目くさって語っている輩もいたが、どうなんだろう。わが身を振り返り、こりゃ行かんなと反省したところであります。
本山から「神変」という冊子が届き、購読料の値上げが通知されている。宗費も上がり、とんと葬儀に縁がなく、いよいよ霞を食らって生きていかなければならないのだろうか。

2003年6月2日(月)晴れ
社協会長の重任登記申請も済ます。
一発でうまくいくかどうかわからないが、会長の重任登記の申請も済ませてきた。月初めのいくつかの書類の作成を済ませた。
用がなければ17:15に帰ってくる。帰ってから裏の池の周りの草刈り。一時間ほどで大分刈れた。真竹の竹の子が顔を出している。竹の子より草が僕には問題なのだが、この竹の子の美味さはまた格別だ。
N君から美輪明宏のCDが僕に届けられた事情のメールが届いていた。俺もあいつも死んでも治らない馬鹿かもしれない。多分そうだろう。治らなくてもいいさと開き直って、僕は余生を生きるのだ。
今日は結婚記念日だった。15回目だか16回目だ。僕は浮気性で、惚れやすいタイプで、いつも音楽に乗って空中浮遊しているような人間なので、女房のように地にしっかりと足を付けていることがない。でも、彼女から去っていくことはできないだろう。なぜなら僕は彼女に手綱を握られているような気持ちでいたいと思っているからだ。彼女と暮らして、子どもたちが居て、愛する友人たちが居れば、それで僕は終わってもいいとさえ思っているのだ。

2003年6月1日(日)晴れ
夕方になって、青空広がる。頭を刈って気持ちがいい。
朝起きたときにもまだ少し降っていて、午後になって天候が回復してきた。3時過ぎから屋根に上がって本格的に雨樋の掃除をした。一昨年家をリフォームしたときに、義兄に屋根の造りをシンプルにそして瓦でない、割れない素材にしてもらったので、今日はじめてのぼったけど、ゆるやかな合掌で、裸足で歩いたけどとても気持ちよかったし、以前の瓦屋根ほどの勾配もなく、高いところの嫌いな僕にとってはホッとする屋根であった。
これで梅雨時も今年は気持ちよく樋から水が流れ落ちるだろう。心も晴れ晴れ。遠い青空のつながりを高い屋根上から清々と眺めた。
蛇がヒキガエルを飲み込んでいた。女房と娘が居間で勉強しながら外のその光景を眺めていて、僕が屋根に上がるために外に出て行くと「蛇がいる!」と。よく見ると頭のほうが以上に大きいので近づいてみると、蛙の頭が蛇の裂けた口元の先端にあった。デジカメに撮ろうと戻ると、母娘が興味一杯で外に出てきて、あんまり近づいて覗くものだから、蛇はしらけてしまったのか、飲みこんでいた蛙を戻してどこかに消えてしまった。結局カメラには収められなかった。戻ってくるかと思ったが、そのままに蛙は放置されている。生きた蛙でないと興味がないのかもしれない。蛇には可哀相なことをした。蛙はすでに絶命していた。
こんな季節になってくると、蛇やら蛙やら、もう少しするとムカデが寝ている首をさささっと、這って過ぎたりする。
ケヤキの葉が風に揺れて、こすれあってさわやかな音を送ってくれる。6月の始まりの今日も、わが寺はいつもと変わりなく、僕もまた屋根から下りて頭を刈り、シャワーを浴びて、美輪明宏を聴きながら「徒然」を書き、そしてこれが終わるとビールになる。

2003年5月31日(土)
台風4号で一日雨降り続け、シャンソンを聴いている。
庫裏の玄関にN君からの贈り物が置かれていて、開けると美輪明宏のCDが入っていた。夕べの酒が残っていたので、起きたのは8時過ぎ。彼はいつ来て置いていったのだろう。
美輪明宏の銀巴里でのLIVE Album。雨音と美輪さんの太いvocalがマッチしているようで、彼の語りのところもこの肌寒い部屋に似合う。炬燵が恋しくなる。
昼飯の後、1時間半ほどカッパを着て外へ出て、雨樋の掃除や側溝の掃除をした。梯子を恐る恐る上り、屋根のひさしを握り、枯葉や杉の葉を取り除く。詰まった樋の出口から勢いよく詰まったものが飛び出してくるのを上から眺める。こちらもさっぱりとした気分になる。雨の休日は僕にとっては牢獄のようなもので、外に出られないので何もできない。音楽や映画でも観て過ごすしかない。美輪明宏を聴いていると酒が欲しくなる。20年以上前の信州美麻村の廃校の校舎の元給食室で、白馬錦を毎晩飲みながら越路吹雪のカセットtapeをよく聴いた。長い長い雪の冬に、信州の酒とシャンソンはまた似合っていた。
シャルル・アズナブールを初めて聴いたのは、N君の部屋だった。あまりシャンソンなんて聴いたことなかったけど、アズナブールはいっぺんに好きになった。彼の部屋でも日本酒だった。宿屋で出てくるようなアルコールランプの七輪風なもので、酒をつけてくれた冬の夜だったかもしれない。
レコードをかけて、酒を飲んで、果てのない話をして、勝手に眠り、そしてまた勝手に起きだして朝から酒を飲むようなことを休日といえば続けたような時期もあった。シャンソンはそんな時間の中のどこかにいつも必ずあったような気がする。ありがとう。

2003年5月30日(金)晴れ
快晴だが台風の影響か風が強い。
昨日の夕方と、今日のの午前中で職場の草刈りと植木の剪定をした。見違えるようにきれいになった。
早昼飯を食べて今日はこれから、県の戦没者慰霊祭に向かう。この引率も今年で4年目。7月には靖国神社参拝もある。(当然神社内へは入らないつもりだが)
戦争の遺族は減っていくばかりだが、もう新たな遺族を作ることだけはないように願う。命令を出す奴等はいつでも、きっと自分たちだけは安全な場所に居て、僕らを前線に送り込むだろう。そんなところに真実も聖戦もない。と思うのだが。時間だ。
23:38)飲んだ飲んだ、GET's!!(ゲッツ!!)”

2003年5月29日(木)快晴
暑さを予感させる朝だ。
新緑に真っ青な空の景色だ。気持ちの良い朝が生まれた。で、先日買った「ガロ」のBest Albumを聴きながら、三人の絶妙なハーモニーに聞惚れている。ハモれるのは羨ましいな。K康くんの家で、よくガロも聴いたな。ガロは彼も僕も買おうと思うほどのアーティストではなかったけれど、彼の妹が居て、ガロのアルバムが何枚かあった。それで、遠藤賢司なんかを聞き飽きると時々ガロをかけた。そのうちに「学生街の喫茶店」がヒットした。彼らを最初に聴いた(見た)のは、今はもう無くなったが「山梨県民会館」で、たくろうやかぐや姫、RCサクセションなんかとのコンサートの最初のほうで出たのかもしれない。水色のスポットライトが当たって、ガロの清楚な雰囲気とハーモニーによく似合っていたように覚えている。ギターテクニックは感心させられるほどにうまかったように覚えている。
メンバーの日高富明は、解散後何年かして自殺してしまったけれど、このBandもオモイデダ。

2003年5月28日(水)晴れ
社協の前年度決算終わる。ホッ...。ヽ(^。^)ノ

今夜評議員会があって、そこで最後の決算の承認を受け14年度にキリがついた。監事の監査を受けた後に資産の変更登記申請を法務局へ出して、今日確認の電話を入れたら、特に問題なく変更登記が済んだということだった。あとは、新理事(会長)の重任登記を済ますだけである。
先日法務局へ行ったら、なんか前より親切に応対してくれて、法務局の内部も変わったなと感じた。多分、応対の横柄さなんかが目立っていたので、職員の接遇に指導があったのかもしれない。何も知らない人間が行くのだから、もっと懇切丁寧にと思ったものだから、ちょっとこの間の応対はびっくりしたし、今日の電話も丁寧に受け応えてくれた。最近は(僕らもそうだけれど)首から顔写真付きの名札(身分証明書)を下げている職場が多くなって、こんなところからも変革の風が吹いているのかもしれない。個人的には名札には反対であるが、機構の中にいるからにはいたしかたないことかもしれないとは思うようにしている。だが、実際は僕は社協に居るので、あまりこれを首にかけるということをしていないのが現実である。
まあ、今夜が終わってホッとした。ただ社協の合併のことがこれからは中心となってくるので、そんなにのんびりともできないだろうけど。
今日は暑かった。職場のエアコンを暖房設定から冷房設定に切り替えた。梅雨がきたり、蒸し暑い日がきたりと、初夏が近づくな。
全然話は変わるけど、宮沢賢治の「永訣の朝」を(前に読んだのはいつだったか思い出せないくらいに)うんと久しぶりに読んだ。良かった。

2003年5月27日(火)くもり
田植えの変わらぬ風景に心洗われた朝。
出掛けの雨が上がり天候は回復。愛の育み途上にある若者と一夜の酒を共にして、彼とは久しぶりの楽しい酒だった。僕にはもう頂点を極めるというような途上はないのだろうか。三浦さんが70歳にしてチョモランマを制した例もあるので、きっといくつかの場面では、僕もまだまだ道半ばというものもあるのだろう。
田に水が張られ、苗把が無造作に置かれている。小さな田に老人がゆっくりと早朝から時間を気にかけることなくその作業をたった一人で続けている。かがんだ背中が神々しい。田の神が彼の背に降りている。やわらかな水面下の土に、まるで引き込まれるように規則正しく右腕が伸びて苗が植えられていく。田の虫をついばむ鷺の頭のようにその握りこぶしは見えなくもない。いい風景を朝から見させてもらった。華やかさもないが、ここには悲惨もない。
おっと、夕べの酒があまりにも良かったもんで、ちょっぴりしんみりとしてしまったぜ。
田植えの詩を作りました。興味のある方は詩壇をclick願います。

2003年5月25日(日)晴れ
法事一件。あとは作務、作務。
作務。SAM。なんて、ちょっとSMAPみたいジャン?今度からSAMにすっかな。
電気バリカンでつつじの刈り込み。結構今年はいい花が見られたので、その気になって刈り込みにも熱が入った。先週教育テレビで見た一言も気になって、思い切り刈り込む。でも今日の刈り込みは始まりのもので林泉の群れの刈り込みはまた来週以降になる。
サラリーマン僧侶は気まぐれなので、飲んだら気がむかないこともあるし、起きられなくて「ゴメン」の時も多々である。でもまあなんとかやっていけてるのは、女房のお陰かな?二日酔いの臭い息と屁の臭いまで我慢してくれる彼女には、ここだけの話しだが絶対に頭が上がらない。時々僕を救済するために結婚してくれたのじゃないかと思ったりもするが。僕はこの頭の上がらない彼女に、何もできないことが僕だと思っていて、でもただ一つだけいつか詩でも送れたらと思っている。いつか新聞に載った詩を見て何日か口をきいてもらえなかったことがある。女性は回りくどいことよりもストレートを好むようだなとそのとき感じたのだが。
馬鹿馬鹿しいかもしれないけれど、僕が山梨日日新聞の「山日文芸」短歌部門の1991年度賞をとったときの選考作品を。
○ジョン・レノンあなたが逝きて十年を役場の机にいて思うなり
○寝ていろよ風邪癒ゆるまで寝ていろよ指のあかぎれに肉ののるまで
○振り返る妻は麦わら帽子かむり「ボーナスで買わせていただきました」
○東京のまだ見ぬビルや地下鉄や母の話に子らはかがやく
○なつかしき友来る如く右指の小指が腫れてかゆみましくる
僕の中で短歌や詩は、少し遠いものになったけれど、いつで引き出せる場所にあり、そこには紙切れと筆が入っている。僕は僕の筆を折るつもりはさらさらない。書きたいときになればそれこそ松本隆が吐いたように「雨だれ」のように書けるときも来るかもしれない。別にどん底景気に並走するように我慢の時期なんかじゃなくて、僕は僕の熱をいつも自分で感じたいだけだ。少しの友達の思い出に残るようなものが書ければいいな...。恋を進展させているカップルが僕にも恋の胸熱くなる思いを思い出させてくれた。感謝。Back Music by るり。

2003年5月24日(土)晴れ
一日良い天気となり、H君の披露宴もいただき。
役場の同僚でもあり、仏弟子に一人として最近は彼を特に評価している俺だ。彼の結婚はうれしかった。
互いが担う宗派の違いはあっても、僧として在ることに変わりはないのだ。
この徒然が意外と読まれていたりして、僕はいまさらに気持ちが後ろめたかったりする。書くことに正直になることは100%は無理なんだけど、僕はHPを運営してきて、日常生活を吐露するページが僕にとっても一番興味深かったり面白かったりする。
うまく自分のなかで書くことの組み立てを維持していこうと思います。阿保らしいほどのこのページを覗いてくれている諸兄、許せかし。嘘はつきませんが僕の心に嘘をつくことがあるかもしれません。
今日のHくんの披露宴。僕は大好きなFさんに会えてとてもうれしかった。彼女は今日の新郎と同い年に入ったPHNだったけど、結婚してここを辞めてしまった人で、と書いたところでもう今日は玄海灘。書いていても千日手になりそうで。地球の平和を守るために筆を絶つ。

2003年5月23日(金)晴れ雷雨
この年初めての雷雨あり。
お昼近くから雷が遠くに鳴り出して、お昼の休憩時間が終わって職場に戻る頃には、俄かに空が曇りだして今にも雨が降り出しそうな様子。そんで午後2時ごろに雷一発ゴロッと鳴ってザーッと降ってくる。夏の予感がしたね。でもこんなこといつものくり返しだ。
僕は雨の降り始める中を法務局へ社協の「資産変更登記申請」に。法務局へ行きカウンターで、受付嬢(?)に、「中富町の社会福祉協議会ですが、資産変更の登記...」と言い始めると「エイメイ(永明)くん?」。俺「?」。「あたしK原」と。なんと幼なじみのK原さんであった。昔はすげぇ太っていたんだけど、年齢と共に痩せたのか、ダイエットしたのか、昔の面影はなく、「K原と言われたから、あっそう!!」ってなもんだ。
この法務局。僕は社協に来て初めてお世話になったところだが、とにかく大上段に構えていて、無愛想、不親切、こちらが手揉みしながら恐る恐る声をかけるというようなところであったが、今のご時世でかなり世間の厳しい申し出でもあったのか、大分丁寧に教えてくれるようになった、みたい。
明日は、同じ地区の役場に勤める後輩の結婚式。彼も僧侶なのだ。!!う〜〜〜ん!!!山岸潤士のギターが部屋をめちゃめちゃに回り始めた。すげぇぞ。P!。という訳で今夜はお終い。

2003年5月22日(木)晴れ
社協決算監査終わる。
決算の監査を受けて無事住んだ。来週の理事会と評議委員会を経て一年が終わる。
一通のメールが朝届いていて、上田正樹のBand「South To South」のAlbumを探しているが、手に入らないので貸してくれないかというもの。こんなメールの来ることを密かに期待しているのだ。早速明日送ってあげることにした。その復活Live CDのビデオも付けて。1991年7月21日、京都大学西部講堂でのLive。これはBS-WOWOWで録画した貴重な映像で、前座に泉谷しげるwith LOSERが出ている。そしてこの泉谷さんの後に、北京一(漫才師の後に、SOOD BAAD REVUEのボーカリスト)のパントマイムが収録されている。このあたりの関西系のBlues、Soul系のBandは凄まじい。俺は今でもこの音が大好きだ。
27歳の若者からのメールであるが、20歳も若い彼にこの熱い音が伝われば本望であると思っている。僕も今夜は、思いがけなくビデオを見ながら楽しませてもらっている。

2003年5月21日(水)晴れ
今日はとてもいい天気で、気持ちのいい夕の薄紫の風に吹かれている。
雨の翌日の快晴。客殿や本堂も湿っぽかったが、朝の風を一杯に入れてやったので息を吹き返したことだろう。
やっと体調が戻りつつあるというのに、今夜飲まない?とAさんから誘われたが鄭重にお断りした。だけど今夜ソフトボールがあるので、終わってからやっぱり少しは飲むことになる。
金森幸介というシンガーを、ここ何年か聴いていて、彼の作品を遡っている。全然知らなかったわけじゃないが、アルバムは持っていなかった。この何年か彼は精力的にAlbumを発表し、彼の言葉は僕の気持ちのなかにじ〜んと染み込んでくる。1975年発表されたソロ・デビューAlbum「箱舟は去って」から1997年「緑地にて」、その後の「静かな音楽になった」「Lost Songs」「50/50」「金森幸介」と、僕は団欒の炬燵のような彼の歌の世界を泳ぐことができた。金森幸介をいつかお寺に呼んで歌ってもらいたいと思い始めた。

2003年5月20日(火)
一日中お疲れモードでありました。

完全に旅行疲れの火曜日である。元の状態に戻るまでには、2〜3日かかる。飲んで騒いでハイになっているときは、薬中者のように疲れを全く感じないしイケイケ状態だ。だが一度ことが終了すると、朝の明けるのが恐ろしいくらいのむかむか状態になる。布団の中で脂汗をかき、吐きたくても吐けない水分だらけの胃袋がぽっこりと飛行船ツェッペリン号のようにくら〜い部屋に浮かぶ。そんでもって自己嫌悪も3〜4日は続く。懲りない酒飲みの成れの果てだ。
でも、こんなに楽しかった旅行も久しぶりだ。残念ながら3人が直前のキャンセルになったが、16人の参加は結構賑やかで酒もたっぷりと飲んだ。愛すべき仲間たちが僕にまた涙の海をつくってくれそうな気がした。
浜田真理子という唄い手がいる。懐かしい唄を歌う。感情の起伏があまり感じられないが、やけに懐かしさを感じてはまり込む。“るり”という唄い手もいる。彼女も懐かしい。懐かしいフォークソングをカバーした「るり式」というアルバムがあり、つげ義春のマンガのように懐かしくて切ない。切ない、という言葉が最近は好きだ。浜田真理子は。るりは。
朝も昼も飯が食えなかった。そんな風にひどい状態で僕の5月20日は終わった。晩飯は何とか食えたが...。


2003年5月18日(日)晴れ
山梨は青空の予感。
出かける前に雑感を。
夕べ書き忘れたので書こうと思っていたら、今朝のニュースでやっていた。例の日本で観光旅行をした台湾人医師の件である。台湾側が遺憾表明をしたということだ。僕も昨日草刈りながらこのことも感じていたのだ。エイズなら性的な接触がなければ感染にまでは至らないというが、SARSはくしゃみ一つで感染が芋づる式に広がっていくのだから恐ろしい。で、それを十分に承知しているはずの医師が、まして旅行の前まで自らがSARS患者の治療に当たっていたのに、入国の際もこの事実を公表せずにのうのうと旅行を楽しむ。入管も手ぬるいなというのは否めないだろうが、被害を拡大させないためには、もう少し厳しい入国審査なりがあっても、ご時世で許されるんじゃないだろうか。テレビでは「(本人からのコメントで)日本人との濃厚な接触はなかった」などと、遠まわしな言い方をしているが、運転手や、まして団体旅行した当の観光客自体も不安を抱えているのじゃないだろうか。
それから昨日は、松の新芽の芽かきもした。毎年シルバー人材センターから来てもらって、松の剪定をしてもらっているが、「年一回じゃ、いい松に作れないよ。自分で新芽をかいてごらん」て言われていたのだ。じゃ、言ってきます。5:05。

2003年5月17日(土)晴れ
第1回目の墓地の草刈り終了。
住職である私は、明日1泊で地元の消防団の若者に誘われて伊勢方面に旅行に行ってきます。父の闘病中、そして分団長で消防を退団したときも行けなかったので6年振りかもしれない。
もう行けなくてもいいやと思っていたのが、行くきっかけになったのが、同僚のT君をこの愛すべき仲間たちが連れて行ってくれるということで、僕も今年は腰をあげた。Tは、僕の地元のソフトボールもしたり、若い奴らとも親しくさせてもらっていて、消防の旅行の誘いに行きたいのは山々だが、なんせ一人暮らしの薄給生活で、年中財布の中は隙間風が吹いている。それを見かねた年上の奴等が彼を連れて行くというありがたい申し出、僕も彼等に一口乗って参加させてもらうことにした。
前置きが長くなったが、というわけなので今朝は気合を入れて8時半から草刈り作業。一日がかりで墓地の草刈りを終えた。天清浄、地清浄などの言葉が頭の中を巡りながら、爆音の禅の三昧。私度僧となった空海が山林修行に身を投じた思いが少しはわかるというもの。大天才である彼の足元に及ぶべくもないが、日々お大師様の御法号を唱え、彼の歩いてきた道の教えの中に存在していることの清々しさが、草刈りの最中には毎度のこと溢れてくる。悩むことは多々あるけれども、これが俺の道なのだと感じる。
明日の旅行は楽しみだ。若い連中ばかりでなく、消防のOBも何人か行くので、ゆっくり飲みながら語りたいと思う。

2003年5月16日(金)
雨だ。タマちゃん同様に大地も今朝は濡れているぞ。
癒しのタマちゃんまでが騒動の一端にさせられていて、どんな世の中が正しくて、どんな世の中が間違いなのか。
SARSの感染被害は収まりつつあるというが、地球上のあらゆる悪事の感染は大きく広がりつつあるようだ。こんなもんじゃいけねぇだろうに。手洗いやうがいをして予防するように、一人一人が心の中に平和の種を蒔き育てることだ。誰も争いごとを好むものはないはずだ。戦争は作り事だから、作り事など予防することができるはずで、予防することを手始めに考える。「ニッポン国憲法第9条」をしっかりと守ること。受け継いでいくことが大事だ。
すべての人が武器を楽器に持ち替えて、自然の中で歌を歌う。安心して夜を眠る。心地良い排便ができる。そんな風な世の中になりたい。努力してみたい。

2003年5月15日(木)
月のない光明真言の夜。
今夜の光明真言は出席者僕を入れて7名。雨で肌寒いような夜で、闘病あがりのIさんは、綿入れのハンテンを羽織ってきた。足の痛いとか悪い人もいて、足を投げ出してお経を唱えるのであるが、これもいっこうに構わない。お不動様もお大師様もすべて承知でなにもかも許してくれる。この夜に足を運ぶ心がけが大切だと。
ゆっくりと昔話をして、小降りになった夜を皆帰っていった。晴れていれば月明かりは青白く輝いて、夜なのに影を作り出してくれるところだが...。
Baritone Sax11本であのムーンライダースの名盤「火の玉ボーイ」をフルカバーした、東京中低域というBandのAlbumをやっと手に入れた。前から欲しかったがなかなかきっかけがなくて。で、やっぱりよかった。鈴木慶一氏もvocalで参加しているが、なんと言ってもBaritone Saxの中低音が郷愁を誘い怪しくやさしい。鈴木慶一はすごいな。はちみつぱい、ムーンライダースと決して派手ではないが、しっかりと音楽シーンに存在している。こんな素敵なAlbumだから、いかしたMusicianたちが取り上げたくなるのだ。
網戸からすこ〜し風が入り込んできて、音楽と遊んでいくよ。アスパラをしゃきしゃきと噛むように、僕の今夜を楽しんでいる。

2003年5月14日(水)くもり
有事関連法案の修正案が可決される見通し。

この国の未来はいよいよ小泉独裁内角の思い通りに運ぶことになりそうだ。馬鹿は死ななきゃ治らないとはよく言ったもんだ。
弱者は死んでそこから逃避するしかないのか。空もいささか曇りがちで、今朝の空の目はくすんでいる。
夕方墓地の草刈りを1時間ばかりしてビールを飲んだら、疲れと眠気が一気に押し寄せてきて、「育成会の会議」なんか行かなくてもいい気持ちになって蹴ってしまった。
世の中はこんな暗くて物騒なニュース報道ばかりだ。子どもが放火されたり、建物が爆破されたり、小さなものから大きなものまできりがない。
『大法輪』を読んでいたら、次のようなくだりがあった。「
自分が強者の立場にいようとする限り、慈悲は真実にはならない...」という中野東禅氏の一行である。僕は不戦という土俵に他国を引っ張りあげるというような強者であるなら賛成できるが、多分この小さな弓の国を牽引する者たちにこの論理は通じないであろう。
(20:00)雨が降り始めてきたので、急いで帰宅して草刈り。雨は僕に猶予を与えてくれてたいしたことなく一時間作業。ビールと焼酎で晩飯終わる。
(20:48)風呂から出たら雨だ。音を立てて雨だ。焼酎に酔った男の戯言で雨だ。雨が何でも洗い流してくれればいいさ。それでいいじゃん。田舎に住んでたってでっかく生きてえじゃん。

2003年5月13日(火)晴れ
天気は下り坂か?新緑が風に泳いでいる。
鯉のぼりはさすが見えなくなったが、大きな風にケヤキの緑が勢いよく泳いでいる。天候は下り坂かもしれない。
昼休みからBluesを聴いて執筆。不破大輔氏が現在「頚椎日記 日刊ふわふわ」を書いておられる。頚椎から来る職業なのかうまく指が動かないらしい。その闘病記とでもいうのだろうか。
夕べは社協の新しい理事候補に集まっていただき、会長副会長を互選してもらった。特別に問題なく現職会長の続投と、女性副会長もすんなりと決まり、こちら事務局としちゃぁ、ありがたいほど短時間で終えることができた。事が比較的順調に進んでいて、22日の監事の監査と決算の理事会・評議員会がちょっと待ち遠しいような感覚になった。
今夜も夜の会議があるので、なんだかもう家族が一緒に飯を食うなんて事が、休み以外まともにないような日常生活になった。

2003年5月11日(日)くもり
雨になった。
午後4時くらいから雨になった。昨日買った長谷川きよしを聞きながら、「雨もまたいいものだ」などと詩人のような心持ちになっている自分がおかしい。加藤登紀子とのデュエット曲「灰色の瞳」から「黒の舟唄」へと流れていく。この2曲とも学生時代に西武池袋線の椎名町の早川均君の4畳のアパートで、飲みながらよく聴いた。長谷川きよしは、1993年に「アコンテッシ」という後世に語り継がれるだろう名盤を作った。
日曜の夕暮れはまた明日からの、サラリーマン生活の背中をなかなか前に押し出そうとはしてくれない。風のない灰色の背景の前にケヤキの大木がある。今夕のケヤキは表情を見せない。しわだらけの老人の体は、深い瞑想に浸っているかのようだ。

2003年5月9日(金)晴れ
渋さ知らズオーケストラ。
『渋さ知らズオーケストラ/European Tour In Japan '02』という、できたてのビデオを買った。聴くのはいいのだが、集中して見ながら聴くということが割と苦手なので、音楽のビデオなんかは録画しても再度見ることがほとんどないのだ。でもこれは面白かった。お薦めである。知らない人にはきついかもしれないが、渋さに足を取られてしまっている僕には、まさに蟻地獄のようなビデオだった。いやあまた楽しませていただきますよ。Liveに触れる機会がないので、これは面白かった。地底レコードには気遣っていただいて、おまけのCD-Rまで付けていただいた。感謝感謝。
明日土曜は13回忌と、屋敷神さんの供養がある。午前中は草刈りになるか、今夜のソフトボールの初戦の後の飲み会で、重くやっちまえば午前中はベンチに座っている状態で終わることになる。
中国のSARSの感染者が4800人を超えたという。死者も230人を超えたらしい。この感染症いつまで続くのだろうか。感染症なんてどうもあまりピンとこないというのが実感だが、このSARSだけはこの国にも入ってきたらおっかないと思うな。毎日マスクして生活するなんて耐えられないよ。そりゃあ「たまちゃん」の右目の下の釣り針も確かにかわいそうだけれど、どこまでも脳天気なニッポン人なんだろうな。

2003年5月8日(木)くもり/はれ
大善寺の藤切り祭典も楽しかったよ。
朝から雨で、なんとなく「残念だなぁー」って気持ちで7時半に家を出た。勝沼方面の空は、落ち着かなくて灰色になったり青くなったり。向かう僕の車はワイパーをONにしたり、OFFにしたり、ONでもSlowにしたり。
9時ちょうどに到着すると、瀧本院と松鶴院のご住職はすでに柴燈道場の飾り付けに行かれていたのですぐに向かう。雨が小降りの中シメを張り、10時から行者祭り。その後に「藤切り」のメインの藤づるで作った大蛇を吊るす。これは醍醐の行者の受け持ち部分。僕たちはこれを受け継いで続けていく役割がある。
お昼を食べて午後1時に、町内の2件の家を回る。昔はこの門付けがたくさんあったのだそうな。俗な話になるが寺からのお布施意外に、この門付けでいくらかの臨時収入となる。
午後4時に庫裏を出て山上の本堂に向かい稚児堂で、修験の一連の作法を行う。それが終わってメインの藤切り。瀧本院のご住職が真剣を持って藤を巻きつけた木によじ登り、吊るされた大蛇を切り落とすと、その後は、若い血気盛んな男の子たちが木に飛びついていく。太い藤をのこぎりで切っては、ギャラリーに投げたり、お目当ての女の子に鼓舞したりするのだ。僕らはこれが始まるとお役御免。山を降り「また来年ネ」となる。本当にまた「来年」なのである。この大善寺のお祭りが春を渡り歩く山梨の行者たちの最後の祭りとなるのだ。
今年もたくさん楽しませていただき、勉強もさせていただきました。ありがとうございました。南無神変大菩薩。役の行者に大感謝。これより夏に向かう。
明日はまた日常生活に戻るのさ。最近の祭りは酒が飲めないので、帰ってきてから女房に一日の報告がてらビールと焼酎の湯割。今日の往復で聴いた車内の音楽は、中山ラビ、一風堂、太田裕美、リザード。一貫性はないが、どれも僕の今でも愛する音楽家たちばかりであった。特に帰りの夕暮れの甲府バイパスの太田裕美はよかったなぁ。もう一度ドキドキするような恋がしたいとしみじみ思ったなぁ。

2003年5月7日(水)晴れ
なかなか思うように仕事はかどらず。
今月が社協の一年で一番忙しい月で、なおかつ今年は理事の交代もあるので、その候補者の選任についてもお願いしてあるのだれれど、なかなかに名前が挙がってこない。結局こちらが痺れを切らせて夜電話で確かめることになる。「聞いていない」とあっさりとした返事が返ってきたりする。
まあ確かに、僕個人としても、色々な団体が氾濫していて、小さな地域では人選に苦慮することが多いのは確かだ。結局区長さんが何でも引き受けることになったりもする。向こう側の苦悩も分かるので、あまり強く出られないのが僕たちだ。
月に傘が掛かっている夜の空で、明日の天候が心配。大善寺の祭りのメインは夕方なので、その時間に雨が上がっていればいいので、なんとか空にお願いしたい気持ち。
「パナウェーブ研究所」の皆さんは今夜どちらにお泊りになるのだろう。筑紫さんの番組が待ち遠しいな。彼等も一種の修験者だと思えば思えるのかな。

2003年5月6日(火)晴れ
漏水修理に来てもらっている。
もう随分と長いお付き合いのT業舎さんに来てもらって、水道の漏水箇所を探してもらいその修理をお願いしている。お祭りの終わった4月30日の検針で、125立方mもの使用量になっていた。前月が80立方くらいで、これだって通常の家庭に比したら相当に多い使用量だし、メーター器をながめれば、漏水を示す小さな針が微妙な速度で回っていたのだ。もう2年近くなる。水道課からも漏水を指摘されていたが、T業舎さんに話すと、「お寺の水周りは広くて、探すのも大変だし、原因を調査するにもかなりのお金が掛かるので、とりあえずこのままのほうがいいでしょう」と言われていた。が、驚いたことに250立方の数字は我々夫婦の我慢の限界を超えるものであった。去年から水道の使用量が、下水道料金とイコールになっていて、町村合併になると、水道料金が将来的に上がることも噂されているので、もう金の問題じゃないということになり、今朝から作業してもらって、どうやら原因の箇所を狭めていってくれて、もうすぐわかりそうだということなので一安心。
この水道屋さんには、お寺の古い水道のことで、一年中世話になっている。サラリーマンばかりの世の中じゃ困るってのは、こういうところにある。家の修理に大工さんは必要だし、僕には彼等のような匠の技がないのだ。職人のありがたさがしみじみわかるときだ。

2003年5月5日(月)晴れ
連休も今日で終わり。
夕べは居酒屋「喜田」で、女房と娘もお邪魔して楽しい時間をたくさんの友人たちと過ごさせてもらった。焼肉をして、竹の子も焼いて、ワラビを食べて、おばさんの手打ちのうどんをいただいて、至福のときだった。
外には風が出てきて、あまり得した気分になれない連休だったけれど、明日からまたかわり映えのしない日常が始まる。でも今週は8日に勝沼の大善寺の「藤切り祭り」に行くので、なんとなくやり過ごせてしまいそうだな。8日の藤切り祭りが春のお祭りの最後になる。3月の西光寺、長谷寺、不動寺、4月の華光院、最勝寺、わが寺、5月8日の大善寺でフィナーレ。これはすべて修験での関わりなので、今年もたくさんのお祭りにお呼びいただいて、これも至福の時間でした。
白装束集団の件が4月の中旬以降報道されてきて、この休み中も、僕も興味を持って見ていた。通常の感覚では理解できないようなことを真剣に喋っているので、滑稽至極なのだが、きっと「オウム」のような集団とは違うと思うな。彼らはインタビューに「我々は宗教的カルト集団ではない。反共団体だ」と公言した。反共団体だというのが面白いところじゃないか。でも白い布をガードレールや立ち木にまで巻きつけるという行為は、前衛芸術としちゃちょっと古い気もするがなぁ。


2003年5月4日(日)晴れ
日本国憲法第9条を守りたい。
日本国憲法第9条 【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
昭和23年に文部省が「中学校社会科第1学年用」に出した
「あたらしい憲法のはなし」がある。「みなさんの中には、今度の戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

戦争の放棄に関する解説である。大事に守りつづけなければいけないことだと思う。過去にも未来にも約束を守りつづけるということだろう。
この春最初の草刈りをする。汗を流して、また俺と草との格闘の季節の始まりだ。

2003年5月2日(金)晴れ
夕べも飲みすぎだ。
まぶしい朝が生まれて、僕はそれに背を向けるように頭をもたげて、ゆっくりと後ろを振り返り朝の光景を眺める。
これが一介の労働者だ。仕事に支障がないように今日は静かに静かに当り障りなく過ごそう。そうすれば明日はまた休みになる。休みになればまた大好きな酒が待っていてくれる!!!
緑燃えるこの光景の中で、俺はこの46の人生を燃やしてしまってもいいくらいに考えている。しばらく自堕落な日々が続くかもしれない。なかなか立ち直れないかもしれないが、ここに生きるということはそういうことなのだ。

2003年5月1日(木)晴れ
五月晴れ。
寺の最大のイベントが終わって、昨日の片付けを終えて今日は5月。空はいつになく穏やかでさわやかな一日となりそう。
祭りが終われば終わったで、家族の中には色々とごたごたが起きる。各方面からの苦情も寄せられる。寺の運営はこんなことのくり返しで、人間世界の縮図がある。世事に一切耳を傾けずに仏と対峙してさえいればいいなどということには決してならない。
女房に感謝で、また来年を迎えるための一年が始まる。

2003年4月28日(月)晴れ
祭り前夜。晴れて星が出ている。
午前中務めて午後から休み。秋山さんが午後資料館の草刈りに来る。
天候はなんとか持ちそうな予報なので少し安心。
息子が弾く「エリーゼのために」を聴きながら書いている。今日ピアノの調律師が来て、コンディションをいい状態にしていってくれたので、奴は手を揉みながら長い間ピアノを弾いている。娘よりピアノが好きなようだ。
夕方本堂の掃除をしていると、増穂町のNさんが訪ねてくれた。Nさんには、去年客殿の壁を無償で塗っていただいたりとすっかり世話になった。※実はこの恥ずかしい「徒然」を時々読んでくれているようで、明王寺から代行車で帰ってきた話も、「読ませていただきました」と即応だったのだ。この「徒然」も、過激に書くことが僕の信条なのだが、なんかやばくなってきたなぁ、なんて思ったりする。
祭りの前夜が一番気分が昂揚するときで、今夜風呂で頭を買ったり、少しずつ自身の気分も高めて明日を迎える。夜が明けてしまえば、もうなるようになれだ。

2003年4月27日(日)晴れ
祭りの準備整った。
あと気がかりは天候の崩れだけだ。なんとか雨さえ落ちなければいいので持ちこたえて欲しい。
高齢化が進む中でも、檀家の皆さんよく手伝ってくださる。僕も家内もそれなりに事前準備はしているのだが、やはり、人手がどうしても必要となるものもあるし、大きな幟は何人もの男手が必要になる。まあ皆手馴れたもので、こちらがいちいち指示を出さなくても動いてくれるので助かる。檀家の皆さんのためにもいい柴燈護摩が焚けるように晴れてくれることだけ祈りたい気分。
今日は町議会議員の選挙もあり、地区の人たちも「八日市」の仕度と、地元からの候補者の当落の結果の出る11時頃まで、長い一日となる。
護摩札書きも一段落ついたし、もう時間も5時まぢか。年ごとに体の疲れが溜まるようになってきているのをつくづく感じる。一杯飲んで風呂はいってゆっくり寝たいけどねぇ。

2003年4月24日(木)くもり
娘のテニスの試合に空は雨を降らせない。
6時前に起きたときは少し降っていたのだが、今の時間雨は上がっている。中学生は、体育クラブの他校との試合があるのだそうだ。ソフトテニスのキャプテンの娘は張り切って出かけていった。
雨の落ちない一日であればいい。僕にとっては明日一日持って欲しいところだが。桧葉をいただく約束をしてあるので、空には頑張って雨を連れてこないでもらいたい。
今日オウム真理教の松本智津夫に論告求刑が出される。おそらく死刑を求刑するのだろうけど、結構時間が経過しているような気がするな。彼の偶像も完全に地に落ちたし、上九一色の富士ヶ嶺にオウムの影はない、と書いたところで一転、雨が落ちてきた。

2003年4月23日(水)くもり
雨が落ちずにとりあえず今日は終わったが...。
この時期は風が強い。雨は降ることなく終わったが、明日からがまた心配。
ナイター中継を見ながら仕入れた「PIGBAG」Albumを聴いていたら、何のことに6:3で勝っていた巨人が、9回表でヤクルトに逆転されてしまった。どうなるのやら。
このPIGBAGなんだけど、1979年に"Y"というAlbumで登場したTHE POP GROUPから枝分かれしたBandで、管楽器を前面に出した今の日本の面白いjazzなんかを予見させるようなBandだったと改めて今夜感じた。実にいいです。レコードは庫裏の屋根裏に眠っているけど、こんな奴を時々検索して見つけて注文できる今は何て優雅な時代なんだろう。「THE SLITS」のAlbumも買っちまったよぉ。
風の中で体動かすので、花粉症が表に出てきて、鼻水が出たり体中が痒かったりしてます。

2003年4月22日(火)晴れ
町会議員選挙始まる。
定員が二つ減り、12議席を13人で争う町議会議員選挙が始まった。27日の日曜日が投票日で、僕の住む地区からも三選を目指すH氏が立候補した。
会社勤めの若い奴等も今日はポスター貼りなどに借り出されて、4年に一度のお祭りが始まった。でも、来年の町の合併を控えているので、中富町の議会の選挙はこれが多分最後となる。田舎の選挙は、こんなときにはうっかり夜外出などもできない。昔は張り込みなんてのもあった。
僕は正直果てしなく興味がない。「あいつは投票もしなかった」などと言われるのもうんざりなので、早めに不在者を済ませてしまおうと考えている。
風が強く、また雨を連れてきそうな予感がする。
Studio Weeの新作が届いた。初の2枚組みで、「林栄一+大友良英+豊住芳三郎/the crushed pellet」まったくの即興演奏である。早い帰宅で外作業をしたので、疲れた体にはなんだかよくわからない3人の即興は変に心地良かったりする。

2003年4月21日(月)晴れ
今夜は風が吹き荒れている。
風が吹き荒れていて、聴いているシンセサイザーの音楽からも吹き荒れる音が出ているので、その二重苦の中で夜を送っている。まあ、そんなに苦ではないんですがね。暑い一日で、昨日の雨が嘘のよう。一日違うだけでこうも違うのだ。昨日がこうなら、最勝寺のお祭りに柴燈護摩も焚けたのだ。お祭りはその日一日の勝負なので、明日やればいいさがきかないので、また来年ということになる。僕の歳になると一年を待つのは長い感じがする。一年後の自分が想像できなかったりもする。
帰ってきてから鐘楼の横の柴燈護摩の道場を少し形作った。山の柴や枯れ枝を拾い集めて、骨格を作って当日までには檜の青葉もたくさん集めて、それから杉っ葉も点火口にたくさん集めて。思いがけず椎茸を見つけ、晩飯に食うことができた。仕事をするとご褒美がもらえるのだ。
お祭りまでは仕事と寺と、少し酒を慎みながら過ごさなくちゃならない。

2003年4月20日(日)
最勝寺のお祭り、柴燈護摩焚けず。

去年も雨。で、今年も雨。残念ながら今年は柴燈護摩はあえなく中止。観音堂に急遽叔父の寺から持ち込んだ護摩壇で、内陣の護摩を叔父が焚く。見慣れないGalleryにはこの護摩も珍しいらしく、フラッシュもバチバチとたかれる。天候は神頼みだ。29日の祭典は良い天気であって欲しい。徒然読者諸氏のお祈りにも期待しています。よろしく。
来週は町会議員選挙も告示され日曜日が投開票になる。小さな地区も候補が三選を目指すので、いつもの年より賑やかで、浮き足立っている。僕はこんなときばかりは、「公務員」という肩書きを押し出して静観を決め込む。ブッシュが戦争をやめることのほうに興味があるのだ。歴史の遺産を破壊し、独裁者一人を片付けるために、たくさんの人々をまるで蝿や蚊を殺すように巻き添えにする。戦争を終結させる祭りの護摩を焚きたいと思っている。娘が修学旅行で撮ってきた原爆ドームが今日は心に染みた。彼女に中にも反戦の気持ちが芽生えてくれたら、僕にはこんなにうれしいことはない。

2003年4月18日(金)晴れ
素晴らしく晴れ渡り、初夏のような暑さだ。
僕の住む八日市場には「同志会」があり、僕はもうそこを退会しているが、同志会員でありながら、消防団活動やソフトボールのチームなんかを作っている。夕べはソフトボールの総会ということだが、メンバーは相変わらずの顔ばかりで、すぐに酒になり話が弾む。もうすぐ先の僕の寺のおまつりと「村まつり:八日市」の打合せも始まる。町会議員の選挙の話も始まる。「今。仕事の現場はどこだ?」という話もする。互いが互いを思いやり、夕べもしみじみと話したが、八日市場の集まりには、とかくありがちな派閥や軋轢のようなものはない。
満月が照らす富士川の流れに導かれて家に帰り、車庫から女房に電話一本して、そのまま公会堂に向かい酒を飲む。ビールから日本酒へと移り、酔うほどに時間の過ぎるのがもったいないような気持ちになってくる。支配したりされたりのない、サンクチュアリなのだと思う。
週末の天候がまた気になるところだ。去年も最勝寺のお祭りはじゃんじゃん振りだった。その中で柴燈護摩を修するのは、やはりきつくて何より寒い。自分の寺のおまつりもそうだが、祭りだけはよい天気を祈りたい。
中国の雲南省で今でも使用されている象形文字がトンパ文字で、これは「石田」なのだそうだ。ここでダウンロードできます。

2003年4月16日(水)晴れ
今日は暑くなった。

天候が落ち着かないので、体の調子は良かったり悪かったりだ。今日は汗ばむような一日。
娘の修学旅行はきっといい天気なはずだ。
今夜は十五夜で「光明真言」。昨年の11月から休んでいたIさんが今夜は顔を見せてくれた。元気になられて、今夜の本堂は寒くなくて、月も鮮やかに満丸を誇っていた。
僕のCDコレクションのリストアップは、どうやら終わったようだ。枚数などあまり関係ないが、一度はでも数えてみたいと思うので、近日中に枚数を発表したいと思っている。
今夜仕事をしていたら、Aさんから「桜並木の下で飲んでいるので、出かけてこないか」と誘いがあったが、寺の予定があったので鄭重にお断りした。夕べも一昨日も、酔った勢いのメールを寄越したのだ。漢字変換が違っていたり、ほんと面白かったが。

2003年4月15日(火)
菜の花の上に冷たい雨が降っている。
北朝鮮に拉致された5人が帰国してから半年が経ったそうだ。彼等の我慢も限界にきていることだろう。何一つ事は解決も進展もしないままの状態で、彼等には臨時の仕事が与えられ、「ここにいて、事の解決を待て」というのだ。子どもや夫を北に残したままに家族が離れ離れである。
フセインとまったく同じ独裁者である金正日の国は、貝のように固く入口を閉ざし、「子どもや夫等は、北で皆さんの帰国を待つ」という姿勢を貫いている。
政治のことはよく分からぬが、家族がひとつになりたいのになれないという状況は、僕らニュースを見る者の側からすれば厳しくて辛い。何とか確実に一つ一つ事の糸を解いていくことはできないのだろうか。北朝鮮に渡ればまた家族と暮らせるという状況を選択することにもなりかねないだろう。
(20:45)17:05からのNHK甲府の「いいじゃん山梨505」のなかの「いいじゃんマイタウン」というコーナーへ、農協や役場の職員と出てきた。八日市場からは、「八日市」の宣伝に同志会長の小林君も出てくれた。なんだかぶっつけ本番のような番組で、喋ることもほとんどアドリブで、うまく伝わったのかどうか疑問が残るような番組だった。でもまあ、いい体験。ラーメン食って帰ってきた。一日寒い日だった。

2003年4月14日(月)晴れ
桜の時期なんてあっという間に終わってしまう。
梅のほうが長い時期楽しめる。桜はあっという間だ。花びらが風に吹かれて本堂の回廊や外陣の畳にまで落ちている。土曜日の護摩の後を昨日の夕方掃除しながら、花びらも掃除機で吸い取った。また一年の後まで桜とはお別れだ。来年の桜の時期には息子はここから旅立った後かもしれない。なんだかさびしいなぁ。
奴が弾くピアノもこの一年が聞き納めになるのかな?
娘は明日から修学旅行だというのに、今夜も塾へ行っている。息子も午後8時45分から塾なんだそうだ。眠らない、休めない夜を彼等は過ごしているのか。ノンキに酒を飲んで呆けているのは我が家では僕だけだ。(今夜は飲まないが)。
明日テレビ出演があるので、慎みの夜だ。

2003年4月12日(土)くもり
めんどくさいような土曜の夜だ。
戦争なんてものは、始まらないように、たくさんの手段を講じて阻止しなければいけないものだということが、俺には今日わかったんhだ。

2003年4月11日(金)くもり
もう10分で明日だ。
今夜は地区の育成会の会議があった。今年の会長を引き受けることになったので、女房と出席。
会の行事の中で、「八日市」のおでんの出店は、お寺のお祭とかぶるので会員の皆さんにお願いした。ありがたく、小林君がやってくれるといってくれたので助かった。年下のありがたい友人である。
雨が少し降っていて、また週末の天気が悪いみたい。明日は10時から本堂で護摩を焚く。あさっての日曜は甲府のお寺のお祭に。
一日は長いようで短く過ぎていく。戦争のニュースを聞きたくない深夜である。

2003年4月10日(木)晴れ
戦争も終わりになるか。
フセインがどうなろうと、ブッシュが大喜びしていようが、そんなことにはこれっぽっちの興味もない。
ここから先の死傷者が出ないために、日々を費やして欲しいと願うのみだ。
戦争を実際には体験したことのない中年おじさんだが、これがどんなものかぐらいはこれだけ世界中の情報が毎日手に取るような日常にあればわかろうってもんだ。
お祭りの準備もあるが、毎日少しずつ護摩のお札を書く。昼休みにも夜にも少しずつ書く。書くときには静寂の中で、無心に護摩のお札に個々の願い事と共に、平和への思いも込める。そのくらいしかできないのだ。

2003年4月9日(水)晴れ
醜い戦争が繰り広げられている。
今日はよい天気だ。昨日は春の暴風雨が吹き荒れた。イラクの砂漠に巻き起こる怒りの嵐が日本にも届いたということかな。
今朝も朝から嫌な報道だ。各国の報道陣が宿泊しているホテルが直撃されて、何人か死傷者が出たという。日本人スタッフも同じホテルに宿泊してたらしいが、これがアメリカ軍の仕業という。アメリカは強国だ。強国はその力に任せてこの戦争を無理やり最終段階へ持ち込もうとストーリーを練っているようだ。何をしても許されるのか!
たがの外れた兵士たちの引きつった笑い顔が浮かぶようだ。
松井が満塁ホームランを打ったことさえ素直に喜べないような今朝だ。

2003年4月8日(火)晴れ
雨だというが、日差しがある。風強し。
どうも戦争のニュースが終局にきているようで、気分的にへこんでしまう。たくさんの市民が傷を負い命も落としているらしい。
同士討ちもあったりと、兵士の中でも緊張の糸が切れているのか、闇雲に攻撃しまくって事を収めようとしているようだ。どれだけの市民が犠牲になれば戦争が終わるのだろう。風だけが知っているのだろうか。
空が曇ってきた。桜の花びらが風になっている。桜の木の下には死体が埋められているのだ。
(20:00)春の大雨の一日となった。定時に帰らせていただいて側溝の掃除をした。案の定裏の方は一杯にたまっていた。こんなことをいつまで俺が気にしなくちゃならないのかと、いささか気が滅入る。

2003年4月6日(日)晴れ
《未納料金について大至急ご連絡を致します》 。というメールが届いた。
週末はどうも疲れてしまって、パソコンに向かう気持ちになれなかったりする。表題のようなメールが届いた。アダルトサイトの利用料金が未納になっていて、料金の徴収を「T債権管理事務所」が代行するというもので、期日までに支払わないと、もっと膨大な料金の取立てに伺うことになるというような内容のものだった。まあ、金を払って見るようなサイトには行っていないのだが、気分は穏やかではなかった。で、この債権管理事務所の名前から検索したら、ありがたいサイトに出くわすことができた。
ここは必見なので、ぜひご覧になっていただきたい。
『インターネットのゴミ箱』の中に、債権回収詐欺メールにご注意!!というところがあります。僕のところに来たメールはここに紹介されているものそのものでした。慌てたり、おろおろする前に少し考えてから、冷静に行動しよう。相手はメールのアドレスしか知らないのだ。電話かけたり、こちらからメールで問い合わせたりすると、向こうに余計な情報を漏らしてしまうことになりかねないよ。いわゆる少し前の『ワンギリ』のようなものらしい。金が振り込まれれば設けもん!と相手は思っているのだ。許せない!!!!
昨日は雪混じりの雨で、桜の花もわが家では峠を過ぎた。今日はよい天気だったが風が少し強かったので、だいぶ散り始めた。戦争のニュースがあったので、昨日は一日炬燵に丸くなっていたが、今日はそうもいかずにお札を書いたりしていたのだ。また相変わらずの月曜日が始まる。

2003年4月3日(木)くもり
今朝は曇っているが、娘は新学期始まる。
娘は今朝から中学3年生の1学期の始まりである。ソフトテニス部の部長としての一面と、高校受験も控える。元気で過ごせてくれればいいと親としては願っている。
雨が上がり、風も無く風景はしんとしている。昨日とまた違う新しい一日の始まりだ。
(12:27)3月の転出が多かったのか、前月比マイナス27人で、4,394人の中富町の人口だ。人口減には驚かないが、この時期の人口減は、進学や就職などで若者が旅立っていく理由も多いのだろうし、なんとも複雑な気分だ。僕は学生時代も住所の異動はしなかったし、今こうしてこの町に暮らしているが、僕の子どもたちもやがてここを出て行くのかもしれないと思うと、やはりさびしい気持ちになる。

2003年4月2日(水)
今朝は雨。
静かな雨が降っている。花びらが雨音を吸い込んでくれているような静けさだ。老木の枝垂桜は満開なので、この雨で花が散り始めるかもしれない。
今日は社協の合併準備会の設立があり、いよいよ本格的に動きはじめなければならない。
また少し遅い日が続くことになりそうだ。朝の短い時間の音楽が一日の糧になっているので、早起きの春にはしたいと思う。
(21:40)まだ霧雨のような絹糸のような雨が舞っている。職場には、異動してきた役場のTとDと僕の、男だけが残っていた。友部正人の「密漁の夜」をなぜか思い出して、なんだか阿保らしくなって帰ってきた。

2003年4月1日(火)晴れ
4月1日。何かやはり特別な感慨があるものだ。
月末の日記を休んだ。叔父の寺のお祭り。昨日は、年度の晦日で、Kさんの墓参に行ったり、退職する職員を送ったりと、お疲れモードであった。
今日は僕にとっては異動も無く、平素と何ら変わりは無い。アメリカ大リーグで松井が初打席でヒットを打ったことや、県内で南アルプス市が誕生したことや、それからここ何日か思っていたことだけど、北朝鮮の子どもたちに宛てた手紙を北朝鮮が受け取らずに返して来たことなど、今夜は早く帰って風呂の中で、いろんな事を思ったり考えたりしていた。藤井郷子オーケストラの「月は東に日は西に」が届いたので、それを聴きながらこれを書いている。このBig Bandもいいんだな。いま藤井郷子さんと旦那の田村夏樹さんは、jazz界で話題の人たちだ。
秋吉敏子さんの計算し尽くされた?オーケストラとは違い、自由な演奏に終始している。「※譜面どおりでなくてもOKです。自由に好きなように演奏してください。」などと制作ノートには書かれている。
新しい年度がスタートして、今月末には寺の最大のイベントが控えている。仕事と寺とこの4月はいつの年も慌ただしい。しっかりと乗り切らなくては。それからイラクの戦争のこと、北朝鮮の拉致家族の早期帰国のことなど、忘れてはならないことはいつも心の片隅に持っていよう。朝日が昇るときを見るような気持ちで、朝の勤行にこのことの解決を祈ろう。小さな思いをしっかりと継続していこう。自戒を込めて、もう一度しっかりと継続していこう。

2003年3月29日(土)晴れ
桜も開き始めたぞ。
境内の修行大師像の横の枝垂れ桜も花が開き始めた。今年は紅梅と枝垂れ桜が同じ時に楽しめることになる。
一日寺務。お祭りの準備で、柴燈護摩の護摩木や内陣の護摩木を割った。スピーカーを外に出して、がんがんに鳴らしながら、ドゥービーズやJAPAN、果てはディーボまでかけてしまった。風がないうちにどんどん割って、昼飯のあとすぐに内陣で護摩を焚いた。戦争の早期終結を願って3月の護摩を焚いた。護摩の後に割った護摩木をまとめ、庭を掃除して、その後護摩壇の掃除もしてやっと一日の終わり。
来月の今日はお不動さんのお祭りだ。一ヶ月なんてあっという間に過ぎる。シメを切ったり、護摩の準備をしたり、お札を書いたり、案内状を出したりと、女房も僕も少し忙しくなる。
春の花を見ながらの外の仕事は楽しい。鶯の鳴き声も今日はよく聞こえた。
明日は不動寺のおじさんのところのお祭り。おじさんのところも4月からは南アルプス市になるのだ。
今はサンタナのギターを聴いている。今夜は少し飲もうかな。

2003年3月28日(金)晴れ
今朝も春爛漫な日和の予感。
天気がいい。昨日も温かかったし、春の大風も吹いた。桜の蕾も待ちきれずに膨らみ始めた。早咲きの桜は咲き始めている。これで週末には一気に開花しそうな予感がする。
こぶしの白い花も天に向かって花びらを開いている。冬を越えた大地にもう我慢できずにいろんな花が命を開花させてきた。
命はつないでいくものだ。誰の命が大事で、誰の命が軽いということはない。皆等しい命の重みを持っていて、その命の一つ一つは、誰もが大切にしなければならない。平和への連鎖の広がりをこの田舎寺から願いたい。今日は28日。お不動さんの縁日だ。今朝も早起きで、勤行は太鼓と法螺貝もつけた。僕だけの日々の安寧を求めるだけでなく、こうして他の命のこともお願いできる寺に住んでいることのありがたさを感じるひとときだ。
娘も息子も春休み。娘は3日寝込んでいる。風らしいのだが、吐いたり下痢をしたりと散々な体調のようであるが、今朝はだいぶ回復の兆しがみえる。
さあ今夜の評議員会も、ことなくやっつけてしまわねばな。
(23:07)無事に評議員会もやっつけてきた。これで新年度が無事迎えられる。去年までだったら、終わったあとに「若大将」で一杯という風になったが、このご時世では飲むことに躊躇してしまう。僕は残務処理をして10時過ぎに帰ってきた。飲みすぎ状態の体を休めているので、今夜で4日目の不飲酒の晩。ゆっくりと風呂に入り、頭をさっぱりと刈った。これも一つの菩薩の境地なのだなぁ。MARVIN GAYEの「What's Going On」を聴きたくなり、この歌の背景にあったヴェトナム戦争の時代と今の時代はまた、同じことのくり返しなのだなぁと、しみじみと聞き入っている。

2003年3月27日(木)晴れ
夕方からまた天気が崩れ始めるとの予報。気まぐれな天気の連続だ。
ついにアメリカが「劣化ウラン弾」を使用したと、今朝のテレビで報じていた。戦争にルールもあったものではないと思ったりもする。ルールを作って戦争やるなら格闘技のようなものだと思えるし、ルールを作って戦争やるなら初めからやらなければいいと思えるのだ。
長期化しそうな戦いになったとブッシュも少し弱音を吐いているようだが、歴史や文化、何よりも人的な被害を最小に、特に兵士以外の人々の安全の確保を願いたい。
夕にはまた天気が崩れ始めるかもしれないとの予報だ。満開の紅梅をご覧ください。

2003年3月26日(水)晴れ
雨が上がって、今朝はあたたかな日の予感。
今日は穏やかなあたたかな一日になりそうだ。砂埃のイラクの乾いた大地にも慈しみの雨を降らせたい。武器で楽器に替えて、爆弾を花の種に替えて、平和の花を咲かせよう。
(21:34)今夜は昨日より少しはやい。隣りの福祉課の皆は、職員の異動内示のあとの飲み会で、「ペンギン・カフェ」という、なにやら名前だけでうきうきしそうなところへ終業時間を待って皆出て行ってしまった。社協も遅い職員が7時くらいには退けて、僕が9時少し前まで一人残った。PCでジャズをかけながら果てしのない仕事の一つ一つに手をつけて片付けていく。まだとうてい終わらないのだが、まあでもかなりはかどってますよ。新年度の職員の発令通知もすべて終わったし、ああ、今年は一年が長くなりそうだな。理事会も無事やっつけて、あさっての夜の評議員会をもう一つやっつけるだけだ。
イラクの情報を仕入れる余裕もないのだが、なんだか忙しいのに早起きになって、今朝は太鼓を打つだけの時間も持てた。明日の朝もこんな常態でいたいと思うのだ。

2003年3月25日(火)晴れ
お昼休み。雨が上がった。
雨が上がり日が射してきた。外の物干し竿に残る雨粒がキラキラと光っている。
吉田美奈子の「BELLS」をかけて、少し幸せな気分だ。こんなホンのちょっとな幸せな気分を、フセインやブッシュにも与えてあげたいぜ。愚かなことだ。
(22:46)帰宅は午後10時過ぎだ。外に出たら雨がまた降っていたんでびっくり。センターの建物の外壁の灯りも10時を過ぎると消えてしまうので、足元を確かめながら駐車場までゆっくりと歩いた。雨は少し気持ちよかった。明日は理事会があり、新年度の予算の承認を得る。それが終われば、28日に評議員会に再度上程し承認を得る。今週はいつもより少し忙しい。退職するFにも、やさしい言葉すらかけてやることができない。これではいかんのだろうな。クソッ!!

2003年3月24日(月)晴れ
美しく、いとおしい女性お二人と今宵を共にして。
夜11時近くにまでなってしまって、女房に迎えにきてもらって、しばらく帰り支度にならず、女房も含めてしばらく4人で話す。
今夜は戦争のことは話題になかった。身近な話題に終始し、いっときの鬱憤晴らしに僕は夜を使った。右も左も前も後ろも、まったく穏やかでない。心が痛くなるほど飲んだ。あなたと別れたくないと言いながら飲んだ。
人間の盾となるためにイラクに入る邦人が増えているらしい。これはこれでいいのだろうし、僕は僕の思いで戦う。どちらもきっと価値のあることだと思う。

2003年3月23日(日)晴れ
春爛漫。
梅もいっそうほころびが増し、昨日とまた天気は一変。彼岸の日曜はよい天気となった。東京から甲地里さん親子もやってきた。甲府からもドライブがてらになんぞといって親戚の墓参に来てくれたご夫婦もあった。
明日で彼岸も終わりだが、彼岸は寺が最も賑わうときだ。そりゃ、賑わいっていったって、大きな寺や霊園に比べたら足元にも及ばないだろうけどさ。紅梅の咲き具合を愛でていってくれる参詣者があったりで、僕も住職としての三連休をじっくりと寺に居て過ごさせてもらった。それから、本堂で毎日朝昼夕と太鼓を打ち、法螺貝を吹き、僕なりの平和への思いを外に向けた。
戦争が起るから戦争に反対するんでなく、やはりいつもそのことを心の片隅に持っていなくちゃいけないと思う。
明日からはいよいよ最後の3月の大詰めだ。異動がなかったので、「最後まで社協に残って、合併まで指揮をとれ」ということなのだろう。本音は一番居たくないところなのに、結果として4年目に入ることとなる。皮肉なものだ。これも諸行無常の慣わしかもしれない。

2003年3月22日(土)くもり
これから法事一件あり。
茨木に活路を求めて30年前にこの地を離れた檀家の、昨年4月に亡くなったご主人の一周忌の法事がある。これを機会に息子さんと奥さんが、向こうの霊園墓地に先祖のお骨も集合して祀りたいと言うので、法事の前に墓地の発遣をしなければならない。
昨日と打って変って今朝は寒い。雨が降らないことだけよしとしよう。
イラクの空が空爆で曇っている影響が子の島をも曇らせているのかもしれないな。法事にはこのことも話さなければならない。
(19:45)夕方から雨が少し降っている。「夢千代日記」のナレーションのようだ。今日はほんとに寒かった。馬鹿な僕は飲んで頭と体を温かくするだけだった。戦争がはじまってしまってから、本堂での太鼓、それから法螺貝と、僕のできる音の出るものでのアピールを続けている。同じ空の下に居て、同じ空気を吸っているのに、、互いが享受している状況の違いがなんとももどかしい。僕は正直に「ゴメン」とあやまりたい。

2003年3月21日(金)晴れ
彼岸の中日。日和良し。
午後から少し風が出てきたが中日としてはいい日和となった。梅の花の開きは去年よりずいぶんと遅れていて、五分咲きといったところか。
戦争の早くの終結を祈るしかない。砲弾が打ち込まれて、その下に暮らす市井の人間たちが巻き込まれて殺されていくのは悲しいことだ。私たちは己の心をできるだけ深く耕し、真実の世界に渡る努力を惜しんではならないと思う。

2003年3月20日(木)晴れ
まだ間に合うかもしれないので、祈るのみ。
元気のいい太陽が向かいの山に昇った。あまねく皆を等しく照らす太陽であれば、同じだけのぬくもりを与えて欲しい。乃至法界 平等利益。午前7時33分。沙門永明敬白。
(12:25)昼飯。ついに始まっちまったな。こんなにいい天気の日になったのに、残念だな。
(23:00)役場では、職員の異動内示が出た。僕はこのまま社協に町が合併するまで埋もれなさいとのことなのだろう、異動はなかった。僕はきっともう役場に戻ることを考えられなくなるかもしれないし、浦島太郎のような思いだ。僕を苦しめた社協に僕はこんなにも長く居座ることになる。丸く三年が過ぎて、町の合併は来年の9月だ。
戦争がはじまってしまって、寺はひがんで、紅梅は七分咲きになり、僕は仕事に追われている。カラカラの頭で、考えられるだけの精一杯のことを考え、結論は
思いきり人を愛したいとなった。

2003年3月19日(水)晴れ
そりゃあ、フセインだって決して誉められたものではないが...。
でも、この国では対岸の火事だ。俺にとってもそれ以上でもなく、それ以下でもない。やりたい奴等には勝手にさせておけばいいのだが、リングに上がりたくない人々をリング内に無理やり押し上げるのだけは勘弁して欲しい。
細菌兵器だとか核兵器だとか、もういま事が始まれば、湾岸戦争以上の悲惨な状況になることは目に見えているのだ。ブッシュやフセインのために命を賭してまで戦うなんて、馬鹿げているぜ。俺はあの老いたライオンのような頭髪の小泉某のために、命を賭けることは決してないだろう。俺は彼を支持したつもりはない。が、この国の仕組みの中でたまたま彼が、この国を左右する発言をしこぶしを振りあげる。こんな時にばかり「戦争を回避しよう」などと後手に回ってばかりだ。清き一票を行使するのは、よくよくあとのことまで考えて行使するのがよろしい。
彼岸に入ったこの寺に居ながら、俺は俺に与えられたこの「サンクチュアリ」で、静かに来山者にこのことを問いかけようと思う。

2003年3月18日(火)晴れくもり
今日は、八田村長谷寺の大般若。
長谷寺(ちょうこくじ)へも訪ねるのが初めてだったし、大般若は話やテレビでしか知ることができなかったので、まったく新鮮であった。600巻の経典を転読するというお祭りなのである。
それぞれの寺にそれぞれの寺の歴史があって、それを今の住職やその家族や檀家が護っていくという姿は美しい。僕の寺もまさに同じだと思えた。陽が出て、一昨日濡れた衣を陽に当てて乾かしてから出かけたが、祭りが終わる頃にはまた肌寒い陽気となってしまった。
長谷寺から帰って、明王寺でご住職としばしの酒盃を交わす。飲んだ帰りは、はじめての代行車での帰り。7,000円であった。でもこれじゃ今の道交法の厳しさを思えば安いものだ。ただ、この代行車、うちの近所にはないので、これが厳しいな。うちのお祭りにきてくれた人たちにはなかなか酒を飲んでもらえないかもしれない。
心を入れ替えて働いたら、MOのデータが破損してしまったので、もう気持ちを入れ替えない。今夜は飲む。「CAROL THE BEST」を聴きながら、戦争を回避する祈りを高めたい。夕べの筑紫さんのテレビでもやっていたぜ。劣化ウラン弾の影響で、僕らの両の掌に収まってしまいそうな小さな命の葬りを...。

2003年3月17日(月)
気が滅入る春の寒さと雨だ。
昨日は夕の柴燈護摩まで天候がもたなくて、雨の中を護摩を焚いた。お陰で衣もだいぶ雨を吸ってしまった。明日また、八田村の長谷寺で修験の衣体を着けなければならないのに、今日も一日雨。夜になってやっと雨が上がり、今夜の光明真言に間に合わすために職場を出ると満月だ。空気が澄んでいるのでくっきりといい月が見られた。
今夜の参加者は僕も含めて4人。今月から本堂に場所を移したが、今夜は寒かった。経を唱える息が白く流れた。春にじらされているような天候が続く。
僕はMOのデータが飛んでしまったので、まったく仕事にならず、一日PCとにらめっこで、祈るような気持ちで残っているデータを拾い集めた。岐阜の修復会社からのFAXで、修復可能なものはしたが...程度の返事で、35,000円を振り込んでからでないと返送してくれないので、女房に頼んで午後一で銀行振込。振込みの事実を伝え早急に修復データを送ってくれと再度電話。まったく気が滅入る。
明日は小暮さんのお寺のお祭りのお手伝い。彼の寺には初めてなので、少し楽しみ。春は、でもいいなぁ。修験の衣着けて、法螺貝を携えて、役行者のように、春の祭りを渡り歩くのだ。ここ数年こんな春が続いていて、これはこれで止められない楽しみだなぁ。いやいや遊んでいるわけでは決してなくて、此れ修行の時です。

2003年3月16日(日)くもり
「徒然」二日間のお休みでした。
金曜の夕方仕事で最も頼りにしているMOに収めてあるデータが、バラバラになってしまって冷や汗も出ないような状態になっちまって、今もって心の隅にあるんですけど。
とりあえず知り合いに相談してみたら、岐阜にある会社を紹介してくれて、その夜のうちにヤマトから発送の手続きをして帰ってきた。たぶん今日の午前中に着くはずで、年中無休とのことなので、修復ができるとしたら今日中に解決してもらえるんだろうが。参りました。バックアップをとっておかなきゃいけませんな。
昨日は息子がエレキギターを仕入れたので、一日それに付き合い、初歩の初歩を指導。まあ誰でも最初は弾けないのだからな。日々の練習あるのみだな。
戦争への道を阻むためのうねりが弓の島の各地にも広がりつつあるようだ。ブッシュははじめようとしている戦いを聖戦と唱えているようであるが、人が人を殺す行為に聖なる冠など付くはずがない。
僕たちがそのことにしっかりとした”ノー”の気持ちを持つことこそが”聖戦”であるんじゃないかな。僕は今日、隣町の市川大門町へいって、西光寺という寺の秋葉山の祭典で柴燈護摩を焚く。護摩道場に不動明王を招き、僕の内なる聖戦の思いを伝えるつもりだ。

2003年3月13日(木)晴れ
今月は頑張って皆勤賞を狙っているのだ。
自分ひとりでこれを書いて、休まずに精励する。今月は皆勤賞を狙っているので、もう明日に15分前だがこの一行でいいと思ってしまうほど、眠くなってしまった。が。
車で1時間半はかかってしまうところのお寺へ通夜に行ってきた。放光寺。ご住職のお母さんがお亡くなりになったので、Sさんから連絡をいただいたので行ってきたのだ。真言宗でも僕は醍醐派なので、放光寺の智山派とは異なる。困るのが、同じ理趣経を読むにも独特な節があってあわせられないのだ。僕は、弓の島の同じ仏教の教えを説く者の中で、更に真言宗というジャンルに属しているのに、経の読む節が違うということに以前から憤りを感じている。なぜ同じにできないのだろう。坊主も自己顕示を発揮してきたとしかいえないだろう。いつまでもこんな事が継続されていくことには、近いうちに警告を発しなければいけないんじゃないかな。

2003年3月12日(水)晴れ
なかなか仕事がはかどらなくて。
今日は心を入れ替えて朝から熱心に仕事に集中しているが、なかなかはかどらない。頭が腐り始めているのか、進捗状況がすこぶる悪い。工期までに終わるだろうかこの年度末。などと土建屋さんみたいな心持ちだ。
天気は上々。紅梅ももうすぐ花開く。二分咲きくらいか。
今夜はまた少し残業になるな。理事会・評議員会の資料作りをしなくちゃならない。貸し付け資金の取り立てもあったりしてね。
(23:45)もうすぐ明日になるのだが...。BSで懐かしく「夢千代日記」を見た。吉永小百合に憧れたな、あのころは。あの頃といっても、多分僕が大学を卒業した頃だ。あがた森魚や緑魔子も出ていたし、「夢千代日記」は何度か再放送されているが、でもいつ見てもいいなぁ。明日も真面目に仕事をして、早めに片付けてしまわねば。結構はかどったぜ。

2003年3月11日(火)晴れ
アカゲラ、コツコツコツと朝からせわしい。
これも春の音なのかもしれない。コツコツコツと布団の中にまで、よく響く音で届く。
今日は朝からよい天気。地上の温度がみな平等に、皆が同じ温みをもつ一日であればいい。それだけで今日は「まんてん」だ。
(20:20) 今日は障害者福祉会で、友愛訪問。役員の皆さん方4人と役場の担当と一緒に22人のお宅を訪問。特に自宅で療養されている障害者の方を訪ねるのだ。寝たきりの方々の場合は、介護する側の大変な様子が特に心に残る。このことは障害のある方ばかりでなく、介護保険を利用する高齢者についても同様だ。大家族ではなくなっているので、特に家族間の介護は限られた人に頼ることが多くなる。福祉サービスがいくら充実してきてはいても、家族間の介護は、どうしても必要な部分となっているだろう。
話は変わり、夕べ遅く帰ってから”みのもんたの番組への件”をここに書いたが、きょう僕への特別な連絡もなかったので、なんだろうね、これって。日本全国の坊さんに宛てて数打っているのかもしれないね。だとしたら、何かもっと眉唾物で、その手の番組に対してげっそりとしてしまう。「楽しみですとメールをくれたKさん、多分実際はないでしょう。すんません」。
毎日遅かったりしたので、今日は定時に帰ってきた。明日からまた気持ちを入れ替えるにはこんな日も必要だ。そしたら、晩飯時に電話がかかってきて「作務衣のセールス電話」。初めは女房が出て、しばらく押し問答で、「もう結構ですから切らせていただきます。」と、チン。また電話が鳴って今度は僕が出るとまたしつこく、「なぜ切るのだ」とか訳のわからんことをいい、延々と話を引き延ばそうとする。こんなくだらん電話もかかってくる。「坊主も怒る」と言ってやった。

2003年3月10日(月)晴れ
変な問い合せがあったぜ。
今夜も結局遅くなってしまい帰ってきたのが9時半近く。珍しく高橋君がお仕事だったので、付き合ってしまった。明日印刷屋さんが来るんで、社協の広報原稿を仕上げなけりゃならんと。
で帰ってきたら、女房が不思議なFAXを見せる。「取材申請書 大聖寺御中」と。用件は「みのもんたコロシアム 悩む前に相談なさい3(仮)」というTBSの3月26日放送予定の番組に、みのもんたと一緒に相談者への解決のアドバイザーの一人として出演願いたいということなのである。
何処でどんなふうにしてうちを見つけたのか。このFAXの前に、この番組の製作会社から電話がかかってきて、今日高校が休みだった息子が応対していたのだ。「父はサラリーマンで、年度末で色々と忙しいと思うので多分無理でしょう」と、我が息子が的確に先方に伝えてくれたらしいが、FAXがその後送られてきた。こりゃ本当に僕をターゲットにしているのだろうか?
いや、実は今日テレビ出演の話が2件目だったんだ。企画観光課のSから「来月15日に『いいじゃん山梨』というNHK甲府の夕方の番組に、一緒に出てお不動さんのお祭りのことを話してくれ」とのことだった。まあ渋々承知したのだが、不思議な日だなぁ。でも織田無道みたいにはなりたくないなぁ。でも、この話がほんとだったら、直接僕に電話でもかかってくるんだろうな。弱ったな。

2003年3月9日(日)晴れ
風強い一日。法事一件あり。
法事のあとの食事の席で、法話として人が人として互いに敬い、決して殺しあわぬことと話す。このことは大きなうねりとならなくても僕はいいと思う。僕は山尾三省が最後に残したように、その”こと”に対峙するのは”個”でありたいと僕も感じている。どちらかというと集団は苦手なほうだ。なので、この思いが誰かを動かすとか、それが通じるとかいうことを最後の目的としない。あくまでも自分の心の在りようを大事とする。
僕はこのような在りようの連鎖が欲しいと思っている。決してつるまずに個として思いを持ち、それを祈る、というようなことかもしれない。僕は己の屍など風に撒いてしまえと思っている。死んでしまえば核も戦争もないのだ。そのときにはもう、望むものなどない。一曲のブルースに送られて風に葬られたい。命ある限り恋もしていたいと思っている。それは女房であったり、すれ違いざまの女性であるかもしれない。くそったれの世の中で、精一杯不良の風に吹かれていこうと思う。

2003年3月8日(土)晴れ
法事の準備と護摩木づくり

明日の法事の準備と、来週の西光寺での柴燈護摩の準備。昨日の雪は大きな被害もなく、竹薮も大丈夫だった。
仕事の手伝いに行ったが、用が足りたらしいので帰ってきた。お陰で、考えていた以上に寺務も進んだ。
「アメリカのイラク攻撃に断固反対する!!」の意思表明をHPに載せた。お釈迦様は仏教徒だけでなく、生きとし生けるものすべてが、同じ命の重さを持ち平等であるとおっしゃっている。いまこそ仏弟子として、僧侶として、僕もこの時に、しっかりと自分の意思を表したい。
3月2日には、1万人が広島に集結して「NO WAR NO DU」
(※DUは劣化ウラン弾のこと。湾岸戦争でアメリカが使ったDUは、放射能汚染を残し、それにより多くの新生児が奇形で生まれるなどの悲劇が生まれている)の人文字を作り、平和へのメッセージを全世界にアピールした。僕はここに座っているが、ここから僕の気持ちを明らかにする。
人が人として互いを敬い、決して殺しあわないこと。これが原点で、ここに終結してもいい。
(追加:今、外で小便してきたら、三日月と星がすんげぇ、キレイ......でした。19:35)

2003年3月7日(金)
大粒の雪、雨に変わる。7:20
まさかほんとに降ってくるとは思っていなかったのに、うっすらと雪化粧だ。雨に変わり始めたので、デイサービスのこととか考えると、ホッと一安心。
でも、野良犬に本堂に入られるのは避けたいので、今日本堂の扉は開かない。紅梅の小さな蕾にも雪だ。
明日の午前中も仕事、日曜日も法事なので、午後はまあ、嘘も方便で勘弁してもらった。なかなか雨にならない空の下を出かけ、ブック・オフで何枚か仕入れる。今日の目玉はスティーヴィー・レイ・ヴォーンのblues。ヘリコプターの事故で90年に35歳で亡くなってしまったけど、この最後のAlbumも1曲目からスライド・ギターでハートをぐっと持っていかれる。僕はbluesが好きだけれど、なぜか白人の奏でるブルースに惹かれてしまう。BLACKのbluesは当たり前だけれど、確かクラプトンが語っていた言葉がいつも気持ちの中にあるのか、「黒人になれない白人」みたいに、bluesに惹かれた白人のbluesは、黒人以上にその思いがイエローの心を揺り動かしてしまうのかもしれない。

2003年3月6日(木)くもり
雪になるかもしれないという雨の夜。
まさかここまで雪は来ないだろうけど、山梨も山間部は雪になるとの予報が出ている。春は足踏み。これも春へのいくつかの扉なのか。
今月末を持って退職したいとの職員から、今夜「退職願」を受け取る。わかってはいたことで、こちらはすでに新しい体制を模索して職員の採用にも動き始めているのだが、やはりこの手渡された封筒の中身は厳しく重いものだ。
自分でも辞めたいと心暴れた2年前を思い出し、この職員の退職を止めるだけの僕自身の技量や知識や経験の深さがなかったことを悔やむばかりだ。年度末のここに来て、また海溝を漂うかのような気分だ。
誰かに話したくて、メールを書いた。特別な慰めもないが、電話で話すのと違って、向こう側もこちらのメールに真摯に応えてくれている様子がうかがえてありがたかった。今夜外には、春が足踏みするような音の雨が降っている。

2003年3月5日(水)晴れ
今朝は冷え込みがあったなぁ。
久しぶりに寒い寒い朝だったなぁ。外の水道も凍結していたし。雲間に太陽があって、一日が良い天気になるのかどうか。
朝飯を食っていて外を見ると、石畳をお不動さんに向かって走っていく学生服が見えたので、女房と「誰かな」と話すとM君だった。今日は公立高校の入試だ。試験に行く前をお父さんの車に乗せられて、合格祈願に来たのだ。
この村に来られてから800年以上を経るお不動さんは、いつもこの村の皆のことを見てくれているのだと思う。だから、同じ仏教徒であっても宗旨を超えて、お不動様を信仰する気持ちが地区に生きる人たちに連綿と受け継がれている。彼にお不動様の強いお力があらんことを。
夜:  慌ただしく、一日の時間だけは容赦なく過ぎ去ってしまう。待ってくれ〜〜とも言えないのだが、受け止めてもらえたら、待って欲しいような一日の時間の経過だ。
朝出かけて仕事の流れや、今日片付けてしまおうと思うことなど、布団の中で寝つく前や朝目が覚めてからもシュミレーションするのだが、思うような片付きができないのが今週。やばいぜ。余計な心配が出てしまったお陰で、予定通りに片付かない。
泣く子と地頭には勝てないという歌があったが、そんなところかなぁ。高田渡はどうしてるんだろう。飄々とこの春も漂っているのだろうか?

2003年3月4日(火)晴れ
寒風吹き荒れる。こちらの心も同じか。
風強く、体は飛ばされないまでも、ちっぽけな思いや悩み、みな吹き飛ばされてしまうような感じだった。一己のできるものなんて、なんとだらしなく弱いものか。つくづく思い知らされる。
俺には個々をまとめたり、統括していくことなど無理なようだ。今ある立場に限界を感じる。情けなくも、尻まくって逃げ出したい気分だ。
光を手探りでもいいから探し出したいですな。仏にすがりたいとはまさに今のこの自分。風吹くもよかろうが解決の風吹いて欲しいな。いや、ほんとに。

2003年3月3日(月)
雨降りひな祭りだ。
ここは月遅れのひな祭りなんだが、それにしてもよく雨が降る。一日おきに晴れたり雨だったりだ。滅法気が滅入る。嫌んなる。
今夜も遅くて、なんだか帰り間際には、これまた気が滅入る話もされたりと、息をしているのさえ嫌になる。
三回忌になる「テルオ」さんの塔婆をお昼休みに書く。筆を握って、僕の心をこめた塔婆を書く。こんなときが安らぎの時間だ。塔婆を書いて、死者に心を癒されているのだ。
雨の上がった夜を帰ってきたら、消防の詰所に電気が点いている。春の火災予防運動中で、今夜定例部会なのかもしれない。こんな集まりに参加する機会もトンとなくなってしまって、コトリと落ちる、椿のような気分だ。

2003年3月2日(日)晴れ
法事のあとKと飲む。
朝方風が強かったけれど、日中はいい天気になって暖かい日。法事あって、終わってから近所のKとそのまま寺で飲む。
飲んで疲れて僕はこのまま死んでもいいよぉ、なんて気分。
もうすぐ紅梅が花開く。

2003年3月1日(土)
弥生3月、初日は止まずの雨だ。
朝から雨は結構な量降ったのではないか。3時過ぎから溝の掃除にカッパを来て2時間ほど外に出た。明日法事があるので墓地にも行ってみた。薄暗い墓地に春の芽吹きは感じられなかった。昨日と一転で炬燵の中に丸くなっているしかなかった。サンディ・ラムの中国語の歌が妙に沁みる3月初日の夕だ。
法事のあとの法話を考える。話は女の子のスカートと一緒で短いほうがよいとのことで、短く、でも心に残る話をしてみたいのだ。いつまでも若くはないので、勢いで話せる時期はそろそろお終いかなとも考える。酒をたらふくいただく対価になるような話を明日はしなくちゃな。
今日は秋山さんのお母さんお誕生日だそうだ。飲みに行くと明日の法事が辛くなりそうなので、今夜はうちでささやかにお祝いの気持ちをこめて晩酌させてもらいます。

2003年2月28日(金)晴れ
大瀧不動尊祭典。
朝7時前に家を出て牧丘町に。腰痛で2本足歩行ができなくなってしまった叔父の変わりに、K永とお祭りのために出立。修験の衣体に長靴。今回初めてだったが、来年からは地下足袋でいけると思う。
二人で祭儀。鼻水の垂れる寒さを乗り切る。でも、この楽しさは格別な味わいだ。法螺を高らかにまた山を下る。「本物が来た」と、村の衆喜んでくれる。これは僕もうれしい。公民館で祝宴。お昼ちょうどに終わる。上求寺(じょうぐじ)に戻り、鹿の刺身など珍味の数々いただく。僕はこの寺の一構成員だ。やくざみたいな者だが、この寺を粗末には決してできない。まさに命の源、水源地である。老齢の叔父は、五輪塔を見事に建て直し、葡萄の里の富士を望む傾斜地に上求寺はまた大きく胸を張った。感謝、感謝。帰りに持たされた葡萄酒に僕は大きな酔いを味わっている。

2003年2月27日(木)晴れ
太陽がまぶしいほどの輝きで昇ってきた。
長崎のハウステンボスも、会社更生法の適用申請とのこと。もうずいぶん前に役場の職員旅行で行ったなぁ。前の晩からの酒が続いていて、翌朝も何もする気力がなく、配布されたチケットのカードも一回も使わずに帰ってきた。島の中のホテルのロビーでこっくりしていたら、余りに永くいすぎたのか、ホテルマンがやってきて、「当ホテルのコンセプトにあいませんので、申し訳ありませんが外に出ていただけますか」というようなことを、やんわりと申し出された。言い返す気力もなくただうなだれて重いカバンを肩にかけて出て行ったのだ。
幼い子ども二人に、レインコートと腕時計を買って帰り、「いつか連れて行ってあげるね」なんて話したが、息子は去年の秋修学旅行で行ってきたが、娘のときまで引き継がれた営業が続いていてくれたらいいなと祈っている。(僕が引き連れていくことはないだろうが...)
よい一日でありますように。
(21:45)朝一番で呼びつけられて、お説教を食らう。昨日の事件の名残だ。これは仕方がない。うなだれてじっと我慢だ。小学3年生が午前中見学に来てそれに正午まで付き合い、午後は遺族会の役員会。Tも出張していたし、Iも午後から休みを取ってしまったので、なんだかデスクワークをする暇もなく過ぎてしまった。早く帰ろうと思ったが、帰ってきたTが珍しく仕事をはじめてしまったので、しかたなくそれに少し付き合う。帰ってきたのは7時半過ぎ。明日の仕度をして風呂に入り、この時間。頭を刈ってさえいれば、それで坊さんみたいなところがあるからな僕は。外見も大事だし。その程度の坊主だし。明日は朝早いのだ。7時には家を出る。楽しんできたいなぁ。

2003年2月26日(水)晴れ
実は大変な一日だったんだ.
Sさんからの心やさしいメールを朝開いて、早起きで余裕のあった僕は朝から足の爪切りなどをして出勤前をすごし、彼への返信も怠ることはなかった。「伊東家の食卓」の裏技を彼は僕に提供してくれたのであった。まあ、それを実行に移すかどうかは別として、しがない「徒然」を時々酒のつまみにしてくれていることに深い敬意を表したい気持ちだった。ありがとう。
いつものように「まんてん」を見終えてから出勤し、7時50分くらいに職場に着く。なんと泥棒に入られていたのだ。詳細を書くことは慎もうと思うが、びっくりした。幸いに大きな被害もなく、大切なパソコンなどの機器類の破壊や盗難などはなく助かった。パソコン本体は諦めがついても、僕たちはそのデータが無くなることに危惧する。いま、この時代の利器に去られるのはなんとも致命的だ。そのくらいこの箱に己の命(首)を預けてしまっているのだ。僕らが動かしているのか、はたまた実はパソコンに僕らがひれ伏しているのか。この麻薬のようなパソコン世界に浸りきってしまっている現実。もう抜けるに抜け出せない。
僕には今日もう一つの仕事があったので、この盗難事件に関わっている時間はなく、「在宅介護者のつどい」に出かけねばならなかった。この職場のほぼ皆がこの集いに関わっていたので仕方がない。在宅で介護をしている方々の慰労会のような集いなのである。話を聞いたり意見交換したり、温泉に入ってくつろいでいただいたりと。お陰で僕も下部ホテルの「当ホテルの庭から自噴しています」という、硫黄のにおいたっぷりの温泉にゆっくり一時間ほど浸からせていただいた。起きてしまったことは仕方がなく、時間を巻き戻せるものではない。ここはもうのんびりとしようと思ったのである。至福のひとときであった。

2003年2月25日(火)晴れ
朝日が昇る。これはよい天気になりそうな朝だ。
何日かぶりで見る太陽が、東の空から昇り始めた。セネガルのユッスー・ンドゥールで気持ちのいい朝のHOT TIMEを書く。ビートの利いた心地良いパーカッション群とユッスーの高音が今朝のみじかい時間にぴったりだ。
今日は下部へ合併の会議。どんなときにも朝は明けて、この朝というやつに悲しみはあまり感じられない。いつのときでも何かを期待させてくれる強さがある。「仕方がないじゃないか」と昨日に踏ん切りをつけさせてくれる説得力もある。
昨日と変わらない一個であるが、今朝はさっぱりと生きられている。
(21:13) 北朝鮮が日本海に向け地対艦ミサイルの発射実験を行ったということである。この国のやることはまったく子どもじみている。韓国で盧武鉉(ノムヒョン)、第16代大統領に就任したのだ。昨年もサッカーでの活躍に沸く韓国に、北朝鮮が砲撃した事件もあった。これらの行動は僕にはとても理解に苦しむ。なんとも後味の悪い、さびしい行いだ。
気持ちのいい朝の先には、またつまらないできごとに汚されてしまった夜があった。残念。

2003年2月24日(月)
「サイモン&ガーファンクル」が復活。
グラミー賞授賞式に、「サイモン&ガーファンクル」が復活して、「サウンド・オブ・サイレンス」を生演奏したそうだ。ここに写真があるので、どうぞ。ポールもアートもそれなりに歴史を感じさせるお姿となっている。特にポールは津川雅彦の疲弊した表情のようだ。でもきっとあのハーモニーは往時のままに違いないはず。喜多郎は残念ながら選から漏れたそうである。
今日は朝から雨で、みぞれも混じったりと一段と寒かった。和紙の里の体験工房で、障害者と原小学校の1.2.4年生の児童29名との交流会を午前おこなった。うちわ漉きを体験し、美術館を見学して、意見交換の会をもった。児童数は年々減少の一途だが、明るく無垢な彼らが大好きだ。今夜はS&Gをかけて、心やさしい2月のおじさんになろう。

2003年2月23日(日)くもり
天候不良。春は足踏み。
天気は不良。外の景色をカメラに収めることもできない。午前中シメ作り。豊田勇造を聴きながら作業する。
市川大門の西光寺のお祭り用と、うちのお祭り用とシメを切る。今年の春のお祭りは少し早く始まる。牧丘町の上求寺のお祭りがスタートになる。2月28日、不動尊の縁日に、僕の命の源の寺のお祭りを手伝う。
横浜女子駅伝を見てから本堂の掃除。電気掃除機の柄の蛇腹に穴があいて、もうずいぶん前から吸い込みも悪い。いよいよ新しい掃除機に買い換える時期かもしれない。護摩を焚くのは苦にならないが、護摩壇を掃除するのがめんどくさい。毎日護摩を焚いている方は毎日が大変なんだろうなと思う。
夕のお勤めで太鼓を打つ。夕方のお勤めは今の時期、土日しかできないので、昨日も今日もゆっくりと太鼓を打った。お勤めのあと、五大明王をつける竹を取る。折れた椿の枝を片付ける。墓地の寒さはなかなかに気になる。炬燵もストーブもないので、早く暖かくなって欲しいと思う。いまさら適わないことであるが、もっと日当たりのいい場所に墓地があったらよかったのにと思う。

2003年2月22日(土)くもり
朝方雪が舞い、雨になる。今夜まだ降るとの予報。
一転寒い一日。ストーブを焚いて法事の塔婆を書き、お祭り用のシメを切る。ヘヘン、と嘲笑うかのように寒い。炬燵で丸くなっていたかった。
午後2時過ぎから3時間ほどセンターに行き仕事の片付け。宅配便がうちにセンター宛ての荷物を置いていったので、それを持ちがてら行く。誰か仕事をしているのかと想像していたが、見事にもぬけの殻であった。連絡事項が机の上に何件かあり、その回答を3通FAXで送る。帰りがけに電話で、「デイサービスの来週の食材の注文が入っていないので、今日中に欲しい」と。俺の知ったことか!!とも思ったが、担当に電話すると、こちらも肩透かし。日記を書き終わって6時でも回ったらもう一度電話をしてみよう。
Studio Weeより、緑化計画『arbor day』届く。翠川敬基 cello、片山広明 tenor sax、早川岳晴 bass、石塚俊明 drums。翠川氏の初のリーダーAlbumだそうだ。Jazzが面白すぎて、僕の笑いは止まらなくなってきた。

2003年2月21日(金)晴れ
旅行から帰還。
バスは軌道を逸脱することもなく、無事帰還。太平洋の海沿いの街は大風が吹いていて寒い寒い。住んでいることと大違いで、寒い寒い。甲府の八ヶ岳おろしなんかとも違った寒くて冷たい風だった。
どうしても年配の方々と旅に出ると、戦争の話になってしまったり、戦没者の慰霊碑みたいなところをまわるコースが必ず組み込まれていたりする。まさに今回もそうであった。「思わず手を合わせて、涙が出そうになった」とか、感想が聞かれるのだ。散っていった彼等への弔いの気持ちはあるが、僕にはこの話を聞きたいとかいう気持ちはさらさらない。僕が思わなければならないことは、僕が戦争に行きたくないことだけだ。
雑誌を読んでいて、あまり大きなことは語るなと書いてあった。がつんと打たれた気がしたので、「僕は戦争に参加しない」ということだけ宣言したい。それから息子を戦争には行かせないということだ。
「月刊!不破大輔」から久々のリリース。「塩トト3 塩・技・体」ちなみに(しおとと)と読む。かなりマニアックなもので、浄瑠璃のような音もある。僕はマニアなので・・・。
帰りの道中、コンビニで「ドカベン(殿馬一人編)」秋田書店を買う。30年ぶりくらいで懐かしいドカベンを読む。殿馬はあの頃気になるキャラクターだったが、読み返して懐かしく面白かった。保存本だね。

2003年2月20日(木)晴れ
山の上に雲があり、太陽の光が射している。
もうすぐ陽が登る。今日も天気は良さそうだ。広がる雲が海の凪ぎ時のような装いをしている。今日は本物の太平洋を久しぶりに拝見できるので、海なし県に住む僕としてはやはり少し心躍る。
不動寺のおじさんのところから昨日3月末の寺のお祭りの案内をいただいたので、そのひと月後がうちのお祭りになるので、こちらもそろそろいろいろな準備を考えはじめなくてはならない。手始めに夕べ、表紙と「徒然」にお祭りの案内を作ってみた。のぞいてみてください。
「フォト・ハイウェイ」というサイトに「低音環境」のライブ写真を載せてあるが、ここが3月になると有料化されるということなので、自然消滅します。Yahooの「ブリーフケース」を今後利用することにします。
平穏な一日でありますように。早暁のお不動様にお祈りしてきました。

2003年2月19日(水)晴れ
如月のひと月は短い。
もうあと10日で如月は終わり。2、3日少ないだけなのにやけに短く感じるのは、3月という年度末の月が次に控えているので、なんとなく気忙しかったり、心細かったり、旅立ちに不安があったりという、人間の繊細な気持ちをくすぐる何かがあるからなのだろう。
夜8時過ぎに帰り、テレビをつけたら、小林旭の「昔の名前で出ています」の画像が流れていた。演歌な夜だ。飲みたくなる気持ちをぐっと押さえた。明日から一泊で社協の役員方と愛知県へ旅行。今週のデスクワークはこれにてお終い。

2003年2月18日(火)くもり
今日は時々パラパラと、天候落ち着かず。
午後、高橋と高齢者作品展の片付けに「富士川クラフトパーク」へ行く。クラフトパークは風が強くて寒かった。雨粒がつぶてのように飛んできた。毎日天気が違う。
僕の心の微妙な変化を見透かすように、自然は恐ろしく気高い。
年度末になって、まことしやかにささやかれ始めている噂も気になったりするので、なんとなく気持ちが落ち着かなかったりするのだ。この社協という場所に居たくない気持ちと、乗りかかった船だし仕方がないかという気持ちが錯綜している。内藤君に貰った「中国の古琴」の太い旋律が僕の心を覗き込んで、細い弦をはじく音が「う〜っ!!!」っていうようなところをつついてくれる。身をよじりながらこの春寒の夜を過ごしている。

2003年2月17日(月)晴れ
暑さ寒さが波のように...。
今朝は昨日の雨が凍って寒かった。日中は暑くて小春日和だ。暑さ寒さが寄せる波のようにいったり来たりしている。昨日本堂の外陣を荒らしまわった野良犬が、車庫を出たすぐ近くでさぶそうに立ちすくんで俺を見ていた。「お前も辛いだろうが、俺も本堂の畳をかじられて、なんとも切ないぜ」とテレパシー送ってやった。奴も俺もそれぞれに備わった言語は解せない。目と目で語ろうぜ!「何か欲しいものあったら言ってみな、できるだけ希望に添えるように努力してみようじゃないか。頼むから本堂に上がりこんで荒らしまわるのだけは止めてくれ。」
俺も野良犬のように天下御免の暮らしが永かったからなぁ。坊主でいることも天下御免のような気持ちの現れの一つだもんなぁ。俺の中の犬はどこを彷徨っているのか、野垂れ死んだか。子どものナイフに切り裂かれたか。相変わらず給料日だった今日も、「狂気と正気」の薄皮のマントひらひらと浮遊しているのだ。

2003年2月16日(日)
この雨も春を導く雨だと思えば我慢できる。
今日は霙も混じる雨の一日。身体障害者の甲斐の研修会で朝から仕事。Cさんを町の奥の地区まで迎えにいく。霙まじりの雨になる。午後の送りには道路が幾分白くなっていた。蕾は少し背を丸めたかもしれないが、こんな天気のくり返しで大地に潤いも増し、春が来るのだと思えばこんな天気の日もやり過ごせる。が!!!夕方本堂へお勤めに行くと、外陣に犬が入ってまたスリッパをもてあそんで切り裂いたひどい状態となっていた。正月明けにも一度あったのだが、多分雨宿り代わりに本堂の回廊から外陣にも上がりこんでしまうのだろう。こりゃ参った。猿害よりもこちらのほうが当面の苦悩となりそうだ。
夜のテレビでは、金正日の61歳の誕生日の報道。北の国ではお決まりのマスゲームやら、将軍様を称える老若男女の讃歌のオン・パレードだ。次男坊を後継とする計画も進行中との新聞記事もあったし、また飲んでしまった。ブッシュの横暴も停められない状態となってしまったし、どっちの馬鹿も手がつけられないのだなぁ。
「大法輪」に執筆している岡部伊都子さんの随筆が毎月楽しみだが、今月のは特別によかったな。病にある方らしいが、言葉は病むことなく、いつも新鮮で鋭い。こんな風に僕も齢を重ねたいと思う。

2003年2月15日(土)晴れ
春の遍路一人あり。
梅の花もほころび始め、午後「甲斐百八霊場」を巡る方一人朱印を貰いに来る。春になるとこのような遍路が山梨でもちらほらと現れる。心の時代を象徴しているかのように、皆それぞれの思いを抱いて歩いているようだ。
夕べは護摩を焚きあとゆっくりと飲んだ。この時季になると僕等も、4月からはどこかに異動になるんだろうかとか、漠然と考えるようになってくる。ここには居たくないけど、新しい仕事を覚えるのはしんどいよなぁといったところか。
今夜は今年2度目の光明真言。果たして何人が来てくれるやら。

(10:58)
今夜は参加者4人。終わってから「諸行無常」について少し話す。お茶を飲みながら、猿や猪の話もする。焼酎を飲みながら「蝉と川下直広U」を聴いている。2曲入りのCD-R。30分を超えるFree improvisation。川下さんのサックスももちろん凄まじいが、これを迎える「蝉」の連中の演奏も熱い。JazzはRockをも超える。Jazzは音楽のジャンルの壁を取っ払ってくれるだろう。このAlbumに興味のある方は一度覗いてみるべし、「マネキネコ商会」。

2003年2月14日(金)晴れ
今夜は今から護摩を焚く
道迷う若者のために夕方から護摩を焚く。彼の行く手に幸多からんことを祈って護摩を一生懸命心をこめて焚かせていただきます。
終わったら宴会だ。ブルースを聴いてジャズを聴いて宴会の夜になればいいな、と思っているのは僕だけなのかもしれないが、今夜は宴会だ。
梅の花が開いた枝もある。ままならぬ世の中に、護摩を焚いて「悪魔払い」の一矢を投じてやる。

2003年2月13日(木)晴れ
諸行無常
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽。無常偈とも雪山偈(せっせんげ)ともいう。今日色々と調べてみた。
諸行無常は「いろは歌」に象徴されている。
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
でもなあ、この境地に至るのは簡単なことではないなぁ。わかっていても難しいことだなぁ。「有為の奥山」を越えることができないのだろうな。

2003年2月12日(水)くもり
サントゥールを聴く夜。
サントゥールの繊細な響きがじっくりと体の中に伝わってくる。それに絡むタブラがまた、ポンポンと春の若芽がはじけて生まれるようだったりする。
ラーガは朝・昼・夕・夜などの時間帯によって異なるようだ。それを詳しく理解はしていないので、脳天気なニッポン人としては、昼夜お構いなしにインド音楽を流す。気持ちがよければそれでよし。
最近このインド音楽がやたらと気に入っているし、またタブラなんかが、テクノなんかにも取り入れられているようだ。ジョン・マクラフリンのシャクティなんかもまた見直されて人気が復活しているようだ。僕も大好きだ。
人の世は無常だ。無常の風にさらわれて山中で見つかった幼い姉妹も、近所のBさんも逝ってしまったのだ。ままならずに気ままに吹いているのか、悪漢ばかりを捲り上げてしまったりはしない。これが無常の風という奴か。誰がこれの命はこれでよしと決めるのか。生臭坊主には分からぬことばかりだ。
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽   無常の風か... mutable wind...。

2003年2月11日(火)晴れ時々晴れ・雨
風が吹いたが、生暖かい風で、時々雨パラパラと。
娘は友達と甲府へカラオケ。息子は半日寝ている。僕は過去帳の整理とお札つくり。ゆっくりと音楽を聴いた。
お昼近くに檀家の佐田さん見えて「墓誌を新しくしようと思うがいかがか」と。「よろしいと思います」と応える。おばあちゃんの戒名がすでに付けて刻んであるんのだが、亡くなったご主人の戒名と重複しているところがあり、「これはおかしいんじゃないですか」と去年問うていて、息子さんも「確かにおかしい。また改めて付けて貰うようにします」ということになっているのだ。隣町の禅宗の檀家にも入っていて、大聖寺は墓檀家という付き合いであったらしいのだが、時代の流れで隣町の禅寺の檀家から、昨年きっちりと抜けてきた家なのだ。それでおばあちゃんの戒名はまた本人が亡くなったときに、改めて大聖寺が付けるということで落ち着いているのだ。寺と檀家の関係も色々と複雑なこともあるんだな。
同じ地区に住む僕よりちょっと上の方が夕べ交通事故を起こして亡くなった。県外での事故だったので新聞にも載っていなかったので知らなかったが、午後になって組の人が教えてくれた。まだお子さんも小学生と中1である。なんということか。元々地元の方ではないが、八日市場に家を建ててここを終の棲家とした家庭である。同じ地区の同じ風を受けて生活している人たちの悲しみは特別に辛く感じる。

2003年2月10日(月)くもり晴れ
午後は暖かくなったが、少々の雨もあり。
夕べの食卓には、ふきのとうの天ぷらも乗った。小さな小さなふきのとうだったが、毎年毎年この季節にしか味わうことのできない苦味が僕には幸せだった。これから少しずつ何度かこの春の賜物を味わうことになる。
午後は社協合併の会議。6時半過ぎまで身延社協での会議となった。で、戻ってからほかの仕事を片付け帰宅は8時半。明日はまた休みだ。明日は少し寺の事務をしなくちゃな。3月の日曜は法事とお祭りで埋まってしまった。音楽聴きながら寺務するくらいしか楽しみはなさそうだ。

2003年2月9日(日)晴れ
ふきのとうが顔を出した。
夕べたくさんの雨が降って、今日は一日暖かい日となった。4月の初め頃の陽気だった。夕方散歩したら、ふきのとうを見つけた。いよいよ春到来だ。梅のつぼみも大きくなり始めている。何より風が暖かだった。
春の到来とともに、国内外の冷え込みや様々な問題が解決してくれるといいのだが。西日が当たっている山のいただきに、明日の朝は日が昇るのだから少し不思議だ。解決できない問題なんてないと思えてくるよな。こんな柔らかな風景を眺めていると。

2003年2月8日(土)晴れ
甲府”バードランド”でCD7枚仕入れる。
思い立ったら吉日。10時過ぎに一直線に甲府まで。バードランドを漁る。不用のCDを5枚持って出かける。2,100円を仕入れ、店の主人と少し話す。ジャー・ウォブルのCDは飛んでしまっていたところを確実に指摘され、「今は目だけじゃなくて耳でも査定するのだな」と少々感じ入った。
たった5枚だけれど、店の主人に「もうかなり行き着いてしまった感じですね」とか言われて、「そういう風に見てくれる彼の洞察力は凄いなぁ」と痛くまた感じ入ってしまった。で、マーカス・ミラーを三枚、ポリスの1st、金延幸子/み空など7枚を仕入れて帰ってきた。
九州南部では例年より一ヶ月早く春一番が吹いたそうだ。春かぁ、特別に胸がときめくこともないなぁ。ただ、暖かくなることだけうれしいな。今夜の晩飯は「ブリ大根」だった。熱燗がいけてしまった。ニュースから、富士急ハイランドでは透明な観覧車がオープンしたのだそうだ。床まで透明で、来週バレンタインデーとかあるので、それにも間に合わせたのだろうか。オープニングに叶姉妹を招いていたのを見て、中富の富士川祭りの最後も、売れてない演歌歌手呼ぶより、思い切って叶姉妹なんかを招いてお色気たっぷりに華々しく町のフィナーレとするのもいいんじゃないかと、半分マジで思ったのでした。

2003年2月6日(木)晴れ
年度末に備えて、資料を作ったり、新年度予算を手直ししたり。
昨日役場の予算査定が終わったので、社協の予算編成にも少し目途がついてきた。要求しても貰えるものが貰えなければこちらは成り立たないので、社協の年度末はヤキモキだ。何せ、社協は3月末に新年度に事業計画と予算の承認を理事会にかけて、さらにその後評議員会にかけなければならないのだ。決算は5月末なのだが予算は3月末で、行政の3月町議会で新年度予算の承認を受けなければ、こちらも本来はGOとならないのである。が、そこはあらかじめ議案だけは作っておかなけりゃならない。しがない田舎町の行政マンである。
夜、玉屋さん来てくれて、息子のノートPCにDVDつないでいってくれる。この接続関係が素人の僕等にはどうにも手におえない。パソコンに詳しい人はいいな、自分でバージョンアップできたり、環境整備もできるだろうし、問題の発生時には解決や修復を容易にできるだろうし、いまとてもかっこいい人たちだな。こんなものを考えた人たちはもっと凄い人なんだろうな。三上寛を聴いているけど、パソコンに演歌は似合わねえなぁ。

2003年2月5日(水)晴れ
♪霧にむせぶ夜。

夕方、三井先生のお寺へ通夜に行ってきた。早川は霙に近い雨が落ちていた。村の人たちが道路案内に何人もが辻々に立ってくれていた。すでに通夜の読経が始まっていて、禅宗の通夜らしく、薄墨の衣に身を包んだ十数人の僧侶が「修証義」であろうか、唱えていた。本来なら住職である三井先生が真中に座るのであろうが、今夜は祭壇に先生の遺影が飾られているのだった。
焼香を済ませ、少し寺の周りを歩き帰ってきた。僕がかつて、父と母の事を詩に書いたら、わざわざ「新聞読んだ」と、はがきをくれたこともあった。僕はこんな方と、もう少し長く僧侶としての道を、先生の影踏みながらついて歩きたかった。早川町の小さな寺は主を失い、これからどうなるのだろう。息子さんたちが後を継いでいくのだろうか。
中富よりも雪の残る県道を走りながら、内藤君にもらった「三上寛えん歌の世界」のなかの「霧にむせぶ夜」を繰り返し聞いてきた。
♪涙じゃないよと 言いたいけれど こらえても こらえても まつ毛がぬれる 君より切ない この俺なのさ だから笑顔が ほしいのに さよならが さよならが 霧にむせぶ夜♪  (霧にむせぶ夜 : 作詞 丹古晴己・作曲 鈴木淳・唄 黒木憲)
この歌がなぜだか、じーんときたんだ。切なく切なく山峡の道を帰ってきた。三番まで歌ってみたい方は、ここ
「節分」の詩を一篇追加。興味ある方はご覧あれ。

2003年2月4日(火)晴れ
今夜は少し残業。
夜9時に帰ってきた。ラジオを聞いていたらこんなニュースがあった。自己破産の申し立てが、昨年20万件を超えたのだそうだ。10年前の約5倍の数で、20万件を超えたのは初めてということ。
今の世相を反映したできごとといえよう。いつまでこのような状況が続くのだろう。実際、僕自身の気持ちの片隅にだって、こんな状況への不安は芽を出し始めているし、子どもたちの将来のことを考えたりすると早く好転してくれるといいなぁなんて考える。
今朝の新聞の死亡記事に、三井先生が載っていた。早川の寶龍寺で葬儀があるときには、よく助法に来ていただき、葬儀の後には接待を受けながら酒を飲みながら、いろいろな話を聞かせてもらった。三井先生は僕の大好きな人のひとりだった。悲しくて、さびしい。月並みだけれど、悲しくてやりきれない。

2003年2月3日(月)晴れ
節分会。赤鬼青鬼来る。
帰宅後、娘と女房と本堂で豆まき、回廊から誰もいない外に向かって毎年の豆まき。息子は「寒いからいいや」と今年は拒否。
山寺の小さなお寺の節分会は、わずか5分ほどで終了。
夕食に豆を食べ目刺しを食って熱燗を飲む。「同志会の鬼は・・・」と話しているところへ太鼓の音とともに現れる。豆を撒いて「福は内、鬼は外」で終了。愉快に愉快に彼等はまた二月の寒空の下へ去っていった。

2003年2月2日(日)くもり
山梨知事選挙終わる。
午後8時選挙終わる。たった今役場に戻り、書類の報告を済ませ、無事解放。しばしの休息のあと開票事務。多分帰りは11時近くになるんだろうか。今日も陽の射さない寒い日で、僕の受け持ち投票所は全部来ても62人だったので、朝7時から午後8時まではひたすらに長く、限りなく耐えているだけの退屈を通り越した一日だった。おまけにテレビもラジオさえも無く、パソコンを持参していたので、それと遊んで過ごした。
先週から葬儀が2回あり、昨日も仕事だったし、明日は通常営業に戻るので、いささか懐具合はいいのだが、休みてぇなぁ。
明日は節分。同志会の諸君が鬼になって地区を回り歩くらしい。春が来るのだな。
(10:50)帰宅。これから風呂入ってビール飲んで寝る。お疲れ!

2003年2月1日(土)くもり
2月1日。夕方は冷える。
正月が去り、2月1日。本当に正月気分ではなくなった。
昨日のこと。セレモニーホールの職員がお気づきの点はおっしゃってくださいといったので、告別式のあと「おっしゃって」きた。彼らは、営業マンや葬儀担当者が喪主の家で打合せをし、必要な物や前机の上に僕が、これを置いていただきたいと言ったのに、蓋をあけてみると置いてない。打合せをしたときのことが、しっかりとホールの担当職員に伝わっていないのだ。これでは、打ち合わせの意味がない。ひどく怒るわけでもないが、「何人も職員が居過ぎて、話が伝わらないんじゃ、職員を減らして、しっかりと一人の職員に担当させたほうがいいんじゃないか」と言ってやった。
たまたま同じホールでの葬儀が続いたので、気づいたことがあったので言ったのだが、どうも営業の若者がなってない。おそらく上辺だけで聞いていて、しっかりとそれを伝達できてないのか、しないのかどっちかだ。
これじゃ、僕よりも頻繁に葬儀で利用する坊さんなら怒ってしまうだろう。「先生、先生」と手揉みしながらこっちのご機嫌を伺ってりゃいいってもんじゃねえぞ、と思うのだ。どうもこの「先生」攻撃だけは苦手だ

2003年1月30日(木) 晴れ
これから通夜に行く。
午前中位牌を書いたり塔婆を書いたりと仕度をし、午後3時から納棺のため甲府に行く。そのまま6時から通夜になる。
夕べは寒くてというより、冷え切って、つま先が冷え切ってしまって血が通わないのか温まらなくて、朝まで悶々としてよく眠れなかった。今朝の冷え込みもいつもより厳しかった。明日の朝はまた7時に甲府へ出かけるのだ。つらい!
いささかの時間のゆとりが出て、女房と節分のお札を庫裏・客殿・本堂の表の柱に貼った。土日も仕事なので、まさに休みなしで僕は忙しい。Fレーベルから出たマル・ウォルドロンの追悼のソロAlbumをかけながら塔婆を書いた。マルの手形がジャケットになっている。日本を愛したpianistであった。

2003年1月29日(水) 晴れ
また、葬儀になってしまったのだ。

昨日のお昼前に電話が職場にかかってきて、甲府の檀家さんがまた亡くなったのであった。夕方から身障者の新年会があったので、すぐに家に戻って甲府へ飛んで枕経をあげて舞い戻った。葬儀は31日。26日の日曜に檀家のお婆さんの葬儀を済ませたばかりだったのに、また葬儀だ。それも会場は奇しくもまったく同じセレモニーホールですることになった。選挙の準備は同僚に任せて明日あさってをまた休暇である。
やっと戒名を考えたところ。何年も病気で苦しんで入退院を繰り返していた方で、とうとうその日が訪れたということだ。ひじょうに穏やかなお顔で、体中の痛みから解放された安堵感にも似ているのかなと感じた。
風が冷たい日だ。窓を締め切ってさえおけば部屋の中は日が差し込んで暖かい。「碩徳院天嶺悟融居士」と付けた。少し大きな名前で、景色が目に浮かぶようで、雪融けの春と痛みからの解放感を融の字に思ってみた。悟は「さとるさん」の一字である。
(23:20) セントギガで録音した一青窈(ひととよう)を聴きながら、葬儀の諷誦文を考えてやっと終わったところ。今夜も冷えている。時間の過ぎるのを忘れて、坊さんの仕事に没頭していた。当たり前のことなんだけどね。

2003年1月28日(火) 晴れ
初不動。山の向こうが明るくなってきた。
今日は28日。28日はお不動様の縁日。正月の今日は初不動。我が寺では別に特別な予定もなく、僕は勤めに出る。息子は高校の推薦入試の日で休みだという。風邪をゆっくりと休んで治せばいいと思うがどうだろう。お不動様のところへは何人かの信者さんが来ることになっている。
昨日の雨で境内の雪もだいぶ薄くなった。徐々に空が明るくなり始めた。暖かい日になってくれればいいな。
ところで「まんてん」だが、NHK連続テレビ小説の。ちょっと雑誌を見たら、なんと満天と陽平(藤井隆)が結婚することになるらしい。藤井隆のキャラクターは、おかまっぽいようなのが売りで、どうしてもそんな彼をイメージしてテレビを見てしまうが、このテレビでの役柄(宇宙飛行士を目指す)は、彼の新たな一面が見られるような気がしていた。まあ、確かに男っぽさがにじみ出ているとは言いがたいが。
ただ、この「まんてん」いまいち僕は乗りが悪くて、毎日欠かさずというところまでいかないな。

2003年1月27日(月)
珍しくまだ雨は降り続いている。
ゆうに12時間以上は降り続けている。寒い寒い一日だった。雨脚も強くて、外に出るのが辛い日だった。お陰で雪はかなり解けて流れてしまうだろう。
明日の夕方、身体障害者の会の新年会を予定していて、他の二人と送迎をしなけりゃならないので、雪道の凍るのが心配だったけど、この雨でその心配はなさそうな感じだ。
昨日は葬儀を終えて帰ってきたのが5時頃で、朝家を出たのが7時だったので、結構疲れちまうんだな。一杯飲んだらもう眠くて仕方がなかった。手伝ってくれた従弟とははじめて二人で葬儀をしたが、僕が元気でいる間は彼との葬儀はこれから何年となく続いていくのだ。
火葬場の待合室から見る南アルプスの山々がとても美しく、おばあさんが荼毘にふされている間、紙コップの冷酒を飲みながら視力の回復にでもならないかとずっと眺めていた。雪をいただいた連山の雄大な姿と、人ひとりが灰になっていく時間が、妙に感じ入る場面だったなぁ。

2003年1月25日(土) 晴れ
通夜終わり一時間をかけて家に帰る。
通夜への行き帰り、最新のJazz「ヴィンセント・アトミクス」と1976年に菊池雅章が日野皓正と組んだ「東風(こち)」のアルバムを聴いてきたが、やっぱり日本のJazzは面白いわ。特にこのプーさんは、アコースティックもエレクトリックも何でも来いで、今だって最先端を走っている。彼がまだまだ前線にいるから、どんどん新しいミュージシャンが思い切った音楽に挑戦し開拓し、僕たちリスナーにぶったまげるJazzを届けてくれる。
今回の葬儀はすべてホールで行うので、通夜ももちろんそうだったが控え室が広かったので、ラジカセでも持っていって、はじまる前の気持ちを高めたいなあなんて思ったりもした。帰ってきてたった今、諷誦文を作り終えた。僕は葬儀の仕度は、書き物も考え物もすべてがんがんに音楽をかけてする。女房が隣りで掃除機をかけていると「うるさいから停めろ」と怒鳴る。掃除機の音はただ単なる騒音だ。彼女曰く「そっちの方がよほどうるさい」ということになるが。そういえば、先日ニュースで見た高校生の若手書家も、ヘッドホンステレオを聞きながら、自らの書の世界を追及しているのであった。同じようなものだな。
雪はだいぶ解け、今日も天気がよかった。甲府は盆地だけあって、風があって冷たかったけど、空気が冴え渡っていた。富士と八ヶ岳が右左に展望できる道を飛ばすのは、ここに住まう者のまさに特権であり、その二つの姿はどちらも引けをとらずに勇壮で圧巻である。二つの姿に見られながら、恥ずかしくない葬儀を明日は執り行おう、と思う。

2003年1月24日(金) 晴れ
快晴。青空満開。
雪の花も咲いた。僕は、亡くなった檀家のお婆さんに「浄篤院雪華微仙大姉」の戒名を付けた。息子のSさんも気に入ってくれたようでホッとした。93歳の故人はもう日に日にやせ衰えてきて、家人もそのときの来ることを承知していて、そのときが昨日のお昼だったのだ。聞けば、息子さんと奥さんと左右の手を握って、話す力も薄れてきたお母さんと会話にならないような会話を交わしていたらしいのだが、少しずつ少しずつお母さんの意識の薄れていくのを感じて、そしていつの間にか眠るように二人に手を握られながら逝ったという話だった。
小さな体のやさしい笑顔のおばあさんの、最後のときもなんかほのぼのとした情景が目に映るようであった。
お婆さんが一点の迷いもなくこの世のことに満足して旅立ったのであろうように、今日の空は青空満開で、雪野原は光り輝き、昨日の夕や今朝の凍てつきが嘘のように道路から雪は消えていった。ただ、昨日の雪はこのあたりによくある水分を多く含んだ重い雪でなかったので、乾きも早かったようだ。竹林も折れている竹はなかった。これだけでも僕にはありがたい雪だ。
明日の通夜とあさっての告別式と、休日がなくなったが、寺の主人の本来の仕事ができることは、やはり厳かにまた僕にも特別な思いのあるものである。しっかりと真剣に人ひとりを仏弟子として向こうへ送る。

2003年1月23日(木)
夜が明けないなぁと思ったら雪になった。
今朝はほんとに夜が明けなかったのだ。6時半になっても明るくならなかった。朝飯を食い終わった頃に女房が「あ、雪が降ってきた」と叫んだのでそれを知ることになった。
見る間に積もり始めたので、これで今日の甲府への出張はないなと思っていたのだが、先方は会議をするというので早めに出かけた。ごつごつとした圧雪された道路を走りまた帰ってきた。帰りは3時間近くかかってしまった。
お昼過ぎには女房から携帯に報せが入り、甲府に住む檀家のお婆さんが亡くなったという。先方に電話をかけ、急ぎ枕経をあげに伺いますといったが、帰り着くのに時間がかかりすぎ、これでまた2時間かけて甲府まで家から行くのは至難で、道もかたく凍り始めていたので、また先方に電話で明日行くので勘弁してほしいと謝った。向こうもこのことは分かっていてくれたので、何とか話がつき、あすお昼過ぎに到着するように出かけることにした。
週末は葬儀である。気に入っていただける戒名を考えて持っていこうと思う。毎夏の盆にうかがうと必ず一緒にお経を唱えたおばあちゃんだったので、僕なりの思い出もある。雪の今日のちょうど正午頃に亡くなったそうだ。白く清らかに向こうへ旅立ったのだな。僕も清らかな気持ちで送ってあげよう。

2003年1月22日(水) 晴れ
やっとパソコン整う。
何日かぶりで僕のパソコンが復活。ハードディスクを新しく容量の大きなものに換えたので、ちょっと時間がかかったんだけど、まだよく使い勝手がいまいちで、今夜も手間取ってしまった。
また明日ゆっくり書きます。

2003年1月16日(木) 晴れ
今朝は冷えるといったけど、年明けの極寒ほどではなかったな。
パソコンのハードディスクを新しくするので、数日更新できなくなるかもしれません。
今度は容量が大きくなるので、僕は使いやすくなるかもしれません。ついでに娘のところにもLANで接続となるかもしれないので、彼女は大いに期待しているみたいですけど。
山梨県は今日知事選が告示となり、予定どおりの4人が立候補。特別な関心はないんだけれど、2月2日の投開票に丸々一日出なけりゃならないので、この日が辛い。朝は寒いし、夜は限りなく遅くなるだろうし。おまけに今回事務に行く投票所にはテレビもないのだそうだ。今年は統一地方選の年なので、4月には県議会選挙、町議会選挙も予定されている。午後8時までの投票は必ずしも必要でないと思うし、不在者投票が以前より簡単にできるようになったので、これで十分カバーできていると思うけどな。お役人の机上の思考では、現実にそぐわないことが多々あるように思えて仕方がないのだが。

2003年1月15日(水) 晴れ
向かいの山から朝日が昇り始める。
朝の光が雲を照らしている。稜線がくっきりと浮かび上がってきて朝日がもうすぐ顔を出し始める。
小泉さんの靖国参拝は彼の変人と奇行のいい現れだ。特別な驚きはなかった。日本中の誰もがそんなふうに思うんじゃないだろうか。「小泉さんのやることだね。」彼も金正日と似たような人だと感じた。
(
12:25)風が少し強いようだがいい天気だ。本来なら今日が獅子舞だったり、存命であれば父の誕生日だった。休みの日に墓に行き、しみじみと寒い光景の墓地に眠る父、祖父、歴代住職にこの年も「あなた方のお力をいただきたい」とお願いしてきたのである。昨日は、久しぶりに山尾三省の遺言を読み返してみた。彼に頭を撫でて欲しかったと思った。

2003年1月14日(火) 晴れ
ここのところ天気がよく安定している。
午後1時過ぎに合併の会議で下部町社協へ行くために宮木地区を通ったら、空き地でどんど焼きをしていた。小正月の14日を守っている地区もあるんだな。
ここのところ天候がすこぶる良くて、今日の午後も車の窓を開けて走るくらい暖かかった。こんなにいい天気が続くと、日当たりのいい場所では「ふきのとう」が顔を出すこともある。少し日も延びてきて、春も確実にやってきているなという実感。

2003年1月13日(月) 晴れ
天気穏やかな正月らしい成人の日でした。
わが町の成人式は昨日。今日は獅子舞の日。夕べのどんど焼きを同志会の諸君と一緒させてもらって、にんにく臭が抜けきらない朝を迎えた。
獅子舞は例年より1時間くらい早く11時前に我が家にきた。接待をしてくれる家が少なかったようで、とんとんとんと来てしまったのだという。わが家ではいつものように酒とコーヒーとアイス。そして会長の幣の四垂を新しいものと取り替えてあげた。
なんだかあまり飲んでいないようで、少し勢いに欠けていた印象だったが、後半がきっと盛り上がったんだろうと思う。先ず天候が穏やかで風もなく、いい小正月の獅子舞日和だった。
僕も明日からは正月気分を一新して仕事にかからなきゃね。
月刊不破大輔のCD売れてるようで何よりです。大聖寺にも「低音環境」「EURO渋さVol.1」「付幸のDisk/渋さ知らズ」置いてありますので、欲しい方がおりましたら連絡くださいませ。SY子さん曰く、「徐々にいい音に向かって盤を編集している」とのことです。一家に低音環境2枚あってもいいかもしれませんね。

2003年1月12日(日) 晴れ
BigBandは好きなのかもしれない。
ジミー・スミスの「ザ・キャット」もいま聴いていると後ろのメンバーがずいぶんと多いようだ。
Freeも好きだけれど、Big Bandも好きだ。今夜はもう酔っていて、日帰りのSYちゃんを送ったらもう腰にきた。
しみじみと老いを感ずるような日々になった。有りがたいことに今日はたくさん飲んだ。ジャズを聴いて、節分のお札も今日は気持ちよく書けた。字など上手い下手ではなく、勢いだ。下手も下手なりに素朴な真実の吐露がある。

2003年1月11日(土) 晴れ
今朝は少し寒さ控えめであったので。
庫裏の北側の水道も凍っていなかった。おそらく何度も差は出ないのだろうが、目が覚めて気が付く体感温度で、今朝は寒いとか、今朝はいつもより温かいななどと感じるものだ。動物の本能を持ち合わせているのだな。
3日間同志会の獅子舞の練習に付き合って遅くまで飲んだ。何年かぶりでフルに付き合った。彼らの後輩の加入がないことで、会長の後顧問を一年すると退会となるので、減少の一途をたどっている。この正月の新体制では、かろうじて二桁を維持できたようであるが、やはり数が多いと何かにつけて活動もしやすいし、何より勢いがある。この点が僕も気になってしまったのか、3日間付き合った。
明日の「どんど焼き」、あさっての「獅子舞」は天候は大丈夫のようなので、彼らにとって思い出に残る一日になればいいと願っている。
今日は叔父の寺の檀家の葬儀で、増穂町のセレモニーホールで手伝いをしてきた。ひさ〜しぶりの葬儀の助法だった。脇導師を務めるとのことで緋の衣を持参し、まあ可もなく不可もなく務め上げる。このホールも昨年末にできたばかりで、この葬祭業という奴、いつまでこんなにいい状態が続くのだろう。僕が情報を得ている限りでまだ二つ今年中にホールが大聖寺の近くにできる。
明日、月刊不破大輔のS子さん来寺予定。忙しいようで日帰りになるらしいが、女房はお昼に「ほうとう」を出し、「ぜんざい」もこしらえているのだそうな。僕はどうも甘いもの、特に小豆物が苦手であるが、若い頃、大峰山の先駈け修行の最終日にたどり着いた奈良の寺でご馳走になったぜんざいは、まさに理趣経の「善哉」(せんざい)のように癒された思いであった。

2003年1月10日(金) 晴れ
バキッ☆\(−−; お笑い北朝鮮。
北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言し、国際原子力機関(IAEA)の核査察協定の拘束も拒否する声明が出たという。「核兵器は作っていない、平和目的のための電力生産などである」との見解も述べられたようだが、この国はだだっ子のすねっ子のように、反対側へ反対側へと歩いていってしまう。もうここまできたら、引き返せないなという気持ちになっているのかもしれない。いざ事が始まればきっと、ボコボコにやられて息を吹き返すことができなくなるだろうに。「馬鹿は死ねば治る」というアルバムがあったが、死んだら花見もできないぜ。IAEAの査察再開を求める決議に「我が国の自主権と民族の尊厳に対する重大な侵害になる云々」と応じるが、民族の尊厳を重要視しているのであれば、こんなにまで貧困で冷え切った状況にまでは至らないであろう。まさに将軍様やそのお膝元で媚を売る一握りの輩が、己の腹を肥やしているだけなのだ。臭いものには蓋をして、飢えや貧困に泣く者は座敷牢に閉じ込めて、何も金メダルを一個取ったからって、高級マンションや運転手付きの高級外車を与える必要などないだろう。どこまでテメエの体裁を繕えば気が済むのか。こんな感覚って、この弓の島じゃ通用しないよね。通用しないのが当たり前だよ。
拉致家族が元のように暮らせる道はかなり遠のいたような気がするが、蓮池弟たちもこの北朝鮮という国の呪縛から徐々に解放され、解放されると共に北への不信感が増幅していくのだと思う。こんな朝鮮の民主主義なら誰だって川を渡って解き放たれたいと思うはずだ。
一切皆苦(いっさいかいく)。いつまでも楽しいときは続かない。腹一杯のときに出された食事は苦の種になる。目の中に入れても痛くないとまで思った子供に背も抜かれ、互いの信頼関係は薄れてくる。幸福も不幸も共に永遠ではなく、結局のところ苦しみの因となる。永遠でないものを永遠だと錯覚することからはやく脱却しようぜ、将軍様!!s(・`ヘ´・;)ゞ

2003年1月9日(木) 晴れ
人生ママならずというほど、大げさでもないが。
一転どん底に落とされてしまったのだ。夕方帰ってきたら女房が「狛江商店街の護摩Tourは中止」とのこと。
何とも情けない、あっけない幕切れであった。まあこれで正常に戻れた感じか。夢を見たな。
夕べは、同志会の諸君の獅子舞の練習に付き合って、このネタも話しながら盛り上がって12時過ぎに帰ってきて二日酔いだったんだけど、ママならない現実だったな。まあ、連休がこれでゆっくりできるからこれはこれでよしとしよう。
護摩はまたいつものように、対象があってもなくても月一で焚くことを心がければいい。対価を求めない生き方をすればいいのだ。

2003年1月8日(水) 晴れ
謹んで、新年最初の葬儀の助法賜る。

今日お昼に帰ってきたら叔父から電話で、土曜日に葬儀の手伝いを頼みたいとのこと。休みなので、即「お引き受けします」の返事をする。坊主がこんなことを書くのをどう思われるかわからないが、去年は我が檀家では、4月に茨木に出た檀家に葬式が一度あったきりで、葬儀のお手伝いに呼ばれることも、例年に比べて極端に少ない年であった。寺を護る者としてはこの点は、なかなか厳しいのである。人の死を待つというわけでは決して無いが、最後をお手伝いしたい気持ちは十分にある。
サラリーマンはサラリーマンの家族を養うサラリーだけなので、寺の方にまではなかなかにまわすことができないのが現状。正直、ありがたいと思った。(^_^;)
日曜日には、午前中に東京の狛江商店街の方々がなぜかお見えになるという。
今朝、福の神からのメールを読んだので、こんな風になったのかもしれない、と思った。今朝も寒くて、庫裏の裏の洗面所ははじめて凍った。この寒い寺に遊びに来たいというありがたくも涙物のメールが入ったのである。

2003年1月7日(火) 晴れ
七草かゆ
「女房は酒つつしめと七草かゆ」といった感じか、今夜はおかゆだった。松の内は暴飲暴食で炬燵に丸くなっているので、おかゆで疲れた胃を癒そうとするのが七草だ。
とうてい本物の七草など入っているわけではないが、かゆのどろりとしたすすり具合が、おなかにやさしい気がする。しかし夜の食卓のかゆではあまり意味が無いのではないかとも思うが、そこは現代っ子の夫婦なのでまあ気にしない。
女房は「今夜は飲まずにおかゆにしたら」と諭すように言うが、「飲んだ後のかゆがまた美味い」と技ありの返答で切り替えした。なんとも、日記に書くのも恥ずかしいような会話ではあるが、「七草」を行うということの大切さは毎年持ちたいと思う。
寒さがとことん厳しい。朝起きるのがまったく辛い。粥で癒された体は、明日の朝どんなふうに寒気に応えてくれるのだろう。

2003年1月6日(月) 晴れ
仕事始まる。
今朝も早よから職場に向かい、せっせと風呂の準備だ。これがなんとも新年早々からトラブル。午前中の入浴はできず、トラブルの元と解消はできたが、なが〜く9日間もあったことが要因の一つにもなっていたようだ。惰眠をむさぼっている間に、すこやかセンターのボイラー室や給水タンクは冷え切ってしまったようだ。そういえば今日は小寒だったそうな。
先が思いやられる幕開けとなった。雪も多いかもしれないので、皆で早急な対処を心がけようと話した。
顔写真を撮ってそれを名札にするのだという。どうもこういうのが苦手で、まあはっきり言えば大反対。名札自体が僕は嫌いで、20年間勤めているがまともに付けたことは無い。そしてこれも面白いことに、「名札を付けるように!」とのお達しがあっても、ひと月もせずにそんなことなんか忘れてしまうし、誰もそれを問題とする輩が居なくなっていたのだった。いままでは。新しい町長はどんなだろうと様子を見ることも面白いかもしれない。管理する者に媚びたくない。管理されたくない。できる限りわが道を行く。

2003年1月5日(日) 晴れ
青空の日曜日。
消防団の出初式ももうそろそろ終わるだろう。青空が広がっているが外は風があって寒そうだ。
夕べは夜半にかなりつよい風が吹いていた。
年賀状を整理して、出さなくてもいいところ、新たに出さなきゃという人などの住所録の整理をした。いまだに父への宛名で賀状が送られてきたりする。この方へはメルアドがあったので、返事を出しておいた。
それから、よくあってなかなかなおらないものにダイレクトメールがある。これはこちらが望んでいる訳ではなくて勝手に送られてくるものなので、気にしなければいいのかもしれないが、5年も経っても相変わらず父宛てに送られてくると腹立たしくなってくる。
僕もお寺をやっているので、この辺の情報には絶えず耳を大きく開いていて、宛名の更新は情報を得たその都度にしっかりと済ませておく。どうも電気屋さんとかの大売出しとかの案内は、一度登録したらそのまんまってな感じがする。町内の電気屋さんからも年に二度くらい来るのだが相変わらず父の名前で、僕はその店では買い物をしない。いつかあったら話そうかとも思うのだが、そんな機会にはこのことが頭の表に出てこないのだ。気をつけたいものである。

2003年1月4日(土) 晴れ
お札配りの一日。富士山きれい。
8時半に出発して古関の内藤君宅へ『世界平和』の護摩札を置き、中之倉の道を本栖湖へ登る。路面はまさにアイスバーン。朝も早いので、霧が立ち込め視界も悪く、なんだか本栖まで登ってくのが恐いようだった。本栖湖にたどり着くと富士山が正面に大きく広がり、富士の回りは風が強いのか、着物を着ているように雲が巻いていた。富士ヶ嶺の遠藤さん宅に向かう途中、車が1台スリップしてぶつかったのだろう、牽引されていくところだった。あ〜あ、一瞬にして楽しい正月休がおじゃんだ。中央道では家族4人が事故に巻き込まれて、父と次男が亡くなり、母と長男が重傷だという報道もあった。なんともやりきれないな。かというと、餅を喉に詰まらせて死亡する人や冬山で亡くなる人は相変わらず後をたたない。残念な事故だと思う。
下部から上九一色村、そして市川大門から甲府も結構な積雪だった。中富に雪が無いのが同じ地域なのに不思議で、あらためて自然の不思議を思った。正月から近所総出で道路の雪かきをしている。この冬は雪が多い予感がする。
ながい休みも明日一日で終わり、お札を配り終えたので夕方職場に行って、床暖房のセットとタイムカードを用意し忘れて、ヘルパーから携帯に電話があったので、あわせて準備してきた。
今夜女房子供は義兄のところへ泊りなので、7時前には入浴を済ませ、僕はのんびりとCDを聴いて、ビールを飲んで、テレビを見ている。

2003年1月3日(金) 晴れ時々雪
残念、山梨学院大学。
まあ、しょうがないわ。3年連続で9位だったんだから昨日の往路優勝でいいとしよう。来年にまた優勝をかけることとしよう。楽しみはまた来年にとっておこう。
寒い寒い一日が終わる。箱根駅伝も雪混じりの近年にない厳しいレースだったが、こちらも朝から霙が降り、復路が終わるまで炬燵に潜り、ストーブも焚いての厳寒の一日だった。
明日は、檀家に新年のお札を配らなければならない。富士豊茂は雪は大丈夫だろうか。
いささか飲みすぎで、アップアップ状態となっている。もうあと、二日の休みになった。たくさんの休みでいいなと思っていたが、終盤になるとなんとも寂しいものである。

2003年1月2日(木) 晴れ
穏やかな正月二日目。
まあ、よく飲んでいる。
風は冷たいけれど、まさに正月の陽気だ。山梨学院も頑張っているので、これからまた飲めそうである。
一味のかけすぎで、今朝尻の穴が痛かったが、この一味という奴、奥が深いのでもっともっとかけたくなってしまうから不思議だ。
(14:30)山梨学院大学往路優勝。ばんざ〜い!!久しぶりだったな。明日の復路も楽しみだ。従兄が訪ねてきてまた一杯。彼はYGUが母校なのであった。

2003年1月1日(水) くもり
あけましておめでとうございます。
雪にならずに済んだようだ。新年の護摩を修験の衣装で焚いた。法螺貝を吹き、平和への祈りをいつもより強く願った。
これが僕の一年の始まり。
ただいま午前2時30分。また、朝早く起きなくちゃならないので、もう寝ます。

2002年12月31日(火) くもり
おおつごもりの夜は更ける。
雪になるかもしれないという。大晦日の夜は後4時間余りで新しい年に変わる。余裕があるようで結局ばたばたと夕暮れまでかかってしまった。
晩飯を食い、例年のように風呂に入って、頭をさっぱりとしてこれに向かっている。無精髭は剃らずに越年だ。紅白歌合戦をテレビで見ながら、ROVOを聴いている。
午前中に内藤君がお札の注文に来てくれた。『テロも報復戦争も勝手に理由をつけてるけど、みんな「戦争自体が悪い」というあまりに簡単な事実を忘れている。』こんなコメントがあり、彼の願いはずばり世界平和である。僕も護摩壇に世界平和のお札をいつも掲げてある。僕たちはいつになったら穏やかな人間の本性を取り戻すのだろう。来る新しい年に幸多からんことを思う。
今年もたくさんの人たちにお世話になった。感謝。そして、早すぎるなぁと思う、何人かの有名無名の人たちを送った。
午後から猿が30匹近くとなりの畑に現れて、大豆の豆殻をむさぼっていたが、奴らも年越しが分かるのだろうか。なんとなく「わかっているのだろうな」という気がした。皆さんよいお年を。

2002年12月30日(月) 晴れ
休み三日目。明日は晦日。
昨日とさして変わらぬ日を過ごす。相も変わらず掃除とお札書きと諸々である。
今夜は同志会の諸君の年末の恒例の引継ぎで、僕も9時頃に顔を出し今帰ったところ(11:30)。来年の同士会は10人になってしまうというが、僕らがいつでも助っ人で入るからと次期会長に話す。愉快な夜を過ごした。これがもう僕の20年来の30日である。
帰ってきて録画しておいた「ザ・フォーク・クルセダーズ」の一夜限りのLiveを再生する。加藤さんはずいぶんと頭髪が後退している。北山氏は、シルバーヘアーの紳士だ。今年は「イムジン河」が再発というか、解禁になって彼らの歌声をおおっぴらに聞くことができた。僕の若い頃をリードしてくれた人たちが大いに活躍してくれたり、戻ってきてくれた年だったんじゃないかと思う。
僕もまだまだ老け込むには早いかもしれない。風呂に入ってきたので、もうすぐ晦日に届きそうだ。もう一日新年の仕度の一日を過ごす。明日の今頃は、半畳の護摩壇に登っている頃だ。

2002年12月29日(日) 晴れ
休み二日目。
今日は少し働きましたよ。のんびりとしちゃうと、とことんしちゃいますんで。
午前中は寒くて体の全体の反応が鈍いので、指先を温めてお札書き。音楽を聴きながらのった感じでお札を書いていく。指先の感覚がじわじわ〜っと温まっていく。外は風が無く穏やか。
穏やかなので、午後からは庭の掃除。本堂前を女房ときれいにする。賽銭箱の間の落ち葉もきれいにする。賽銭箱をひっくり返したら、隙間に挟まっていた賽銭が1,000円近く出てきた。う〜!儲け!
吉田美奈子の「BELLS」届く。もともとは1986年に限定3000枚で自主制作されたものだったので、今年1曲プラスでメジャー発売となったもの。ゴスペル調の曲の構成だが、やはり手に入れてよかった。圧倒される吉田美奈子のvocalである。綾戸智絵もこれには及ばないような気がする。彼女はやはり日本を代表するsoulシンガーだ。年の瀬によいアルバムと出会えた。今年の残りと正月はこのアルバムが何度も聴けそうだ。

2002年12月27日(金) 晴れ
忘年会を終えて帰ってきた。
風呂に入ってきて向かったのだが、思うようにキーボードが進まないのは、明らかに酔っているせい。
今朝も地元の後輩が飲酒運転で人身事故を起こし逮捕されたとの報道があり、これは大きなショック!(俺は絶対網の目を潜り抜けてやるなんて)気持ちじゃ思っているけど、世知辛い世の中になった。
今夜はもちろん店の車で送ってもらって帰ってきた。今見ているNHK-BSの12時まである「シンガーソング・ライター夢の名曲集」に今夜のすべてをゆだねる。風呂にも入ったし、お湯もある、明王寺からいただいてきた「いいちこ」がある。ここで正直にいっちまえば、明日は一日寝ていたっていいんだ。いつもより一日早い休みとなったんだから。

2002年12月26日(木) 晴れ
もう午後11時を回っていたんだ。
今夜は晩飯の後、決めていたのでお札書きをたっぷりと10時半まで。もう11時を過ぎてしまった。明日で年内の勤めは終わり。夜は忘年会である。
お札の申込がたくさんありますと、お寺の運営の一助となりますので、どうか願い事や悩み事、解決したい事などあります方はお申込みください。上の「同行二人」欄から申し込めますので、お願します。
オロオロ(・_・;)(;・_・)オロオロ
子どもらはそれぞれ冬休みの友をやっていたり、年賀状の作成をしていたりと、冬休みモードになっている。
今夜のお札書きは、朝甲府への出張途中を職場に寄ってくれた内藤君がくれてった「美輪明宏」を聴いたり、高岡大祐君のジャズを聴いたりであった。美輪明宏は、先月だったか今月の初めに教育テレビで見たな。スタジオでお客さんに向かって話している番組で、彼の半生を語っていて「ヨイトマケの唄」も途中であったな。初めて「ヨイトマケの唄」を彼が歌うのを見た。堂々とした歌いっぷりで、ぐっと感動したな。内藤君もあの番組を見てたんだろうか?いきなり美輪明宏を持ってくるなんて。でも、ほんとよかったよ。サンキュウ。

2002年12月25日(水) くもり
勤め先もぼちぼち年末の掃除を開始。
お昼前には陽が出たりしたので、「午後車洗ったりしようぜ」と始める頃にはまた曇り始めて、ぽつぽつと降り始めたりもした。なんだかはっきりしない年末の天候が続く。
それでもK君はデイサービスの送迎車3台、T君は1台、僕は厨房の下水処理のバケットのくさ〜い奴を洗った。書類も少し整理して処分。
後2日で終わり。子どもたちは今日が終業式で、明日からは冬休みである。息子は友達のところでクリスマスをするので遅くなるらしい。うちはもう今夜はクリスマスではない。酒も今夜は空けて体を休める。
「低音環境」に来てくれたYさんからメールが届いた。写真を載せたアドレスを教えて送った返事なのだが、これがちょっといかしていて、「アバンガルドなジャズがよみがえります。」とある。う〜!!!泣けてくるなぁ、このフレーズは。しびれた。
あ〜早く休みになって、掃除したりお札書いたりしながらも、思いっきりJazz聴きてぇよなぁ。雪の落ちてきそうな曇天に、Jazzの一撃食らわしてやりたいなぁ。

2002年12月24日(火) 晴れ
お昼過ぎ、少し陽が出てきて気温が上がってきた。
クリスマス・イブ。で、特別なことはないけど。
朝から火事だった。Aさんから一報が入り「八日市場で火事らしいよ。」地元の後輩のK君にすぐ声をかけて、団員である彼をすぐに帰らせた。その後僕も戻って火事現場に。
家が一件燃えた。檀家のWさんの家がとなりだったので心配したが、物置が少し燃えただけで母屋には影響がなく済んだ。Wさんは火事で慌ててて、高齢でもあり、気分を悪くして救急車で病院に運ばれた。
年末の火災はなんとも辛い。出火元の友人は今日から家がない。
久しぶりに消防のお手伝いをし、あらためて現役の団員たちの活躍を眺め、彼らに感謝のする気持ちになった。また、自分たちの区域から火災を出すことの辛さも思い知った。区全体が駆けつけてくれた他地区からの消防団員や応援の方々に詫びる。お寺も大きな建物なので、いっそう気を引き締めなきゃなという気持ちになる。
陽が出てきて、暖かくなってきたのがせめてもの救いの気分だ。
(21:30) 北朝鮮関連の面白そうな番組を見ているので、これで失礼。今夜は同僚のT君を招いて、クリスマス。


2002年12月23日(月) くもり
今日も風の冷たい日だったが、明王寺のお祭り終わる。
天候が良くなるようで思うようにならず、好きな女の子になかなか思いが伝わらないような天候であった。
明王寺の冬至祭りは「かぼちゃのほうとう」が訪れる人たちに振る舞われる。住職は真面目で寺のことを心底思う人間だ。彼の思いにいくらかでも貢献できるように山伏の僕は法螺貝を吹く前のお酒を頂戴する。
今日の明王寺はお父さんが導師を務める。住職ではないお父さんだが、今日護摩壇に座ったお父さんは神々しくその後姿は修行僧のように真剣であった。
連休が終わり明日から勤めが始まり、今週で終わり。もう少しで2002年のゴールだ。

2002年12月22日(日) くもり
今日も寒いぞぉ〜、山梨は。
チューバ吹きの高岡大祐氏のHPに、大聖寺でのLiveのことが載っていますので、興味とお暇がある方はぜひご覧になってみてください。コンサート以外で、お二人と過ごした短い一晩のことが彼の目線で書かれています。
高岡氏はなかなかの好青年でした。
娘がGuitarをぜひほしいというので、買ってやりました。僕も少しGuitarに色気が出てきたりしてね。年末の甲府は混んでました。僕は「マーカス・ミラー/Live」「明田川荘之/わっぺ」を買った。
昨日は暮れには珍しいどしゃ降りで、法事があってその後ゆっくりと飲んだ。大聖寺から日蓮宗の檀家となったEさんからは、特別な関係を維持していきたい旨の話があって、僕も真面目にうつむいて「ハイ、わかっております」とお応えした。
明日は明王寺の冬至祭のお手伝い。仕事は後4日で今年終了。いよいよ年の終わりだなぁ。護摩札も書き始めなくちゃな。

2002年12月20日(金) くもり
朴保(パク・ポー)の新しいAlbumが届いた。
夕飯の酒の肴は最初にピザだった。おそらく正月用にと檀家の方が送ってくれた金粉入りの日本酒であったが、夕べからそれを飲んでいて、「熱燗×」となっているので冷にピザであった。なんとも、しっくりとこない和洋折衷である。
僕は朴保(パク・ポー)の歌が好きだ。彼の事を知ったのは、阪神大震災の後のことであったが、ボーカリストとしても素晴らしいし、彼の歌の言葉がとてもよかった。最初、彼がボーカルをとる東京ビビンパクラブのAlbumを知り、その後に彼のソロを聞くことになるのだが、よかった。
今回、映画「夜を賭けて」のサントラとともに、久しぶりのAlbum発表となった。そうそうタイトルは
「いつの日にかきっと」。後で知ったことだが、彼は山梨の富士吉田の方の出身なのである。名から想像できるように在日コリアン二世である。
北からの帰国者たちが、キム・イルソンのバッヂを外した。昔から缶バッヂは大好きで、いまでも喜納昌吉のとか、新しいものでは「低音環境」の缶バッヂを時々服に付けたり、バッグに付けたり、頭陀袋に付けたりしているが、金日成バッヂはきもいぜ!!彼らがバッヂを外して、北に向かって新たなメッセージを発したことによって、おそらく子供たちの帰国への道はかなり遠いこととなるのだろうが、5人は自らが今度は親兄弟が彼らのために長い間行ってきた活動を、自らの子や夫のために展開していくことの重要性を知ったのだろうと思う。早い解決のあらんことを。
明日の住職。9時から、墓地移転のお供養。10時から法事。雨か雪だとの予報。頭を刈って寒い金曜日。

2002年12月19日(木) くもり
雨が少し降ると、これは雪でも降ってくるんじゃないかと思うような一日。
北朝鮮からの帰国者5人が今日は揃って会見をし、揃って「金正日」のバッヂを外して臨んだようだ。これはこれでいい進歩。
僕はいったん彼らが北に戻ってから、子ども共々帰ることが自然だと思っていたし、そうでなければ不安でたまらないという思いでいたが、そんな訳にも至らなかったようだ。北の態度が降下してきているので、彼らの問題解決が速やかにいくとは思えないが、希望をもっていこうじゃないか。
年賀状を仕上げようと思う。

2002年12月18日(水) 晴れ
パソコントラブルでちょっと慌てましたが、何とか無事に。
もうパソコンの使えない生活なんて考えられないような日常になっちまっていることを、つくづく思い知るような一日を過ごした。
朝トラブルがあり修復ができないでいたら、玉屋さんにヒントをいただいて「ノートン」で修復できたのでした。玉屋さん曰く「僕が行くとお金がかかるから」でしたが、もう慌ててしまっているので、冷静に対処の仕方が思い浮かばないんですな。
夕べ日記を書かなかったのがいけなかったんだとか、変な風に思い込みしてしまったりとかね。
今夜は今年最後の「光明真言」。今夜は6人。寒さがちょっと足踏みしているような夜で、静かな夜空に満月が輝いている。「足元が明るくていいわ」と言いながら今晩の参加者たちは帰っていった。来年もこんな風でちっちゃくてもいきましょう。
低音環境の余韻に浸りながら体を癒していたら、職場の先輩で長く同じ係りなどをしていた方のご主人が急逝された報せが入り、現実に引き戻されたように、世の無常を感じる。容赦なく悲しみに引き擦り込んでいく魔物が蔓延っているように、ここ数年僕の親しい人たちやその家族に不幸が続く。
祈るしかないのだと今もまた、頭を抱えながらこれを書いている。

2002年12月16日(月) 晴れ
「低音環境」御礼。
体力の回復がゆっくりなもんで、今晩になってしまいましたが、14日の夜の「低音環境」in大聖寺は大盛況のうちに無事終わりました。40人位の人たちが聴きにきてくれまして、終盤には八日市場の同志会の連中も(定例会の夜だったので)拉致ってきて聴いてもらったりしました。
寒い夜だったので、場所は庫裏から客殿に変更して、畳に絨毯を敷き、ストーブを3つ置いて、テーブルもいくつも出して、飲んだり食べたり、子どもたちは勝手に喋っていたりと楽しい2時間の演奏会でした。不破さんと高岡さんは6時半頃に松本から到着し、手馴れたものでコントラバスのアンプ1台を差し込むだけで、セット完了ってな具合でした。あと不破さんも高岡さんも終わってから食事にするということで、不破さんは客殿の絨毯の上にゴロンとなって、二人とも活字中毒者ということなので、8時のStart5分前までしっかりと読書をしておりました。高岡さんは炬燵にあたり、漫画を読んだり僕のCDを眺めては、「東京ザヴィヌル・バッハ」のCDを熱心に聴いたりしておりました。
書ききることなど到底できないような彼らとの時間でありました。アンコールはイマジン。ぐっときました。彼らのファンも大勢来ていたし、近所の皆さんも何人か見えてくれまして、普段味わうことのないJazzの夜を満喫していってくれました。ワインや焼酎や日本酒の熱燗や、もちろん不破さんの大好きな「サントリーのDRY」もたっぷり用意して皆さんに振舞いました。お酒は各グループとも持ち込みで、お二人の演奏をゆったりとした気分で味わえました。
翌日の不破氏は、かなりのダメージでお昼近くまで寝ており、比較的早く起きた高岡氏は、チューバを抱えて境内を歩き回り、鐘楼の鐘の中に立ち、音を出したり、不動明王とご対面してそこでも音楽を奉納するというなかなかにサービス精神旺盛な好青年でありました。
コンサート終了後も2時くらいまで飲んで話していたように思いますが、不破さんとは年が3つしか違わなくて、僕が上です。共通な昔の話題がたくさんあり尽きませんでした。「曲馬館」の話題などは特にマニアックなところでした。
またの再会のはやからんことを願うのみであります。おしまい!

2002年12月14日(土) 晴れ
開演間近。
ただいま午後5時30分。もう回りは暗くなった。天気が良かった分、寒さはきびしそうだ。
間もなく不破さん方も到着のことだろう。楽しみ。

2002年12月13日(金) 晴れ
今日はお休みして一日寺の掃除や準備。
風のない日でよかった。3日間シルバー人材センターで入ってくれて、庭を掃除していただいたので助かった。
裏の庭も伸びすぎた雑木を整理してもらって見違えるほどきれいになっていた。ここをきれいにする時間やゆとりがなかったので、3人をもう一日頼んだ分だけのお金はかかるんだけれど、こんなにきれいにしてもらったことは生きた金を使ったなぁという気分である。落ち葉を掃いて焚き火をして一日過ごした。
いよいよ明日は「低音環境」だ。S子さんが、「これから出ます」と9時半過ぎに電話をよこした。きっと到着は2時くらいになるのかなぁ。一番寒い時間かもしれない。
明日の朝はまた一段と冷えるそうだ。でも天候は良いという。
お客さんはどのくらい来てくれるんだろう。明日の今頃にはもうそろそろ終わりになる時間だな。大石内蔵助と息子主税(ちから)は、45歳と16歳だったそうだ。ちょうど僕と息子の関係と同じだ。『元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松の廊下で起こった刃傷事件にはじまる一連の「赤穂事件」から300周年を迎える』ということだ。
明日誰もが「よかった〜!」って帰ってくれるようなLiveができるように、明日また夕方まで環境整備だ。

2002年12月12日(木) 晴れ
「サントリー スーパーチューハイ ドライ」一箱ゲット。
低音の不破さんのお気に入りとのことで、この缶チューハイを捜した捜した。やっと手に入れた。今夜はこれを試飲させてもらっている。
明日は休みを取ったので準備にかかります。準備の多くは外の庭の掃除なんですが、これもいいじゃないですか。僕は寺を第一に生きる人生を歩んでいるのですから。
昨日今日と一番の寒さを更新していて、寝るのに寒いだろうというところが一番の気がかり。もうここまで来てしまうと、よっこらしょっ!っつう感じかな。

2002年12月11日(水) 晴れ
「いいちこ」の日。
よくわからんタイトルであるが。僕は今日「いいちこ25度」の紙パックを買って帰って飲んでいた。女房は息子を迎えにいっていて帰ってきたら、「いいちこ20度」を買ってきた。二人で笑ったが、笑いの度数は違っていた。
今朝はだいぶ冷え込み結露で凍り、内側のレースのカーテンはガラスに貼り付いて取れなかった。昨日今日とシルバー人材センターから三人が来てくれていて、境内の植木の剪定をしてくれていたが、もう一日思い切って頼み、裏の庭の木の剪定も頼むことにした。庭の手入れは僕にはどうも手にあまる。これだけはなんとも仕方がない。お金は余裕がないが、今年は思い切って奮発することにした。
まあ、こんなことより頭の中は「低音環境」である。お昼に帰ってきたときに、チューバの高岡さんのHPを見てみると、「低音環境で、踊る客が出た」とのコメントがあった。Duoは不破氏のクルマで回っているようで、大聖寺へは長野松本のあとを来るようだ。できれば大聖寺でも、踊れる「低音環境」になればいいなと思う。
来ていただいた人たちに良かったと言っていただけるようなLiveになればいいけどね。女房は「おでん」を作るといいます。寒い寺の部屋と夜を共通に体験することもいいんじゃないでしょうか。

2002年12月10日(火) 晴れたりくもったり
天気の回復とまではいかなかった。
今日はボーナスが支給されたが、夕べ飲んじまったので今夜は休肝臓。
歳末援護事業ということで、障害者の入所施設を訪問してきた。20年程前に交通事故に遭い、車椅子の生活を余儀なくされているA君に会うことができた。
今年の5月にオープンしたばかりという30室完全個室、インターネット接続設備付きという、小高い丘の上にあって、遥か前方に富士山が見えるという施設を訪ねた。
僕が名乗ると彼も僕がすぐわかったようであった。事故後に彼と会うのは今日が初めてだったけれど、非常に元気で安心した。ただ、施設は生活をするだけの、過ごすだけの施設なので、何かそこに居て彼が社会に参加できるようなものが見つけられるといいなと感じた。障害者にも程度の差は様々なのだが、今日の一番最後にA君と会うことができて、さわやかな気分で帰ってくることができた。
天気の回復とまでは遠い空の色だったけれど、彼との再会はとても新鮮で、彼の未来に幸多からんことを願ったことであるよ。

2002年12月9日(月)
初雪。あらあら、こんなに早い雪になってしまった。
朝起きたら雪だ。東京の雪のほうがたくさん降っているようだけれど、初雪。例年よりは早い。雨まじりの雪なので積もるようなことはないだろうが、本堂や新しい鐘楼の屋根にも雪だ。
妻は昨日の夕方スタッドレスにタイヤを替えたことを自慢している。息子の送りを幾分早めに出た。また一週間が始まる。大きな写真はこちら

2002年12月8日(日) 時々くもり
イマジンで夜は更ける。
今日も朝から雨。さむ〜いさむい雨。部屋も外も寒い。10時半から法事一件あり。墓地への坂道に紅葉の葉がいっぱい。鮮やかな赤は色褪せて雨に濡れた紅葉はみすぼらしくさびしい。
傘をさして墓地では読経。さすがに猿たちも山の中で雨で足止めか。庫裏のトイレを掃除して、庫裏の玄関の窓ガラスも拭いて、「低音環境」さまさまの年末の掃除となる。草刈り機から残りの燃料を抜き納屋にしまう。今年の草刈りもおしまい。
境内地の整備事業の会計報告をまとめ、村内の檀家には薄暗くなりかけの5時前に配る。町外は明日女房が発送。少しずつ少しずつ用を済ませる。体が少しずつ軽くなる。
ジョンの命日に、ゆっくりとAlbumも聴けなかったが、夜になって聴いている。忘れたくても忘れられないこの12月8日だ。雪の落ちてきそうな鈍い色の空だったけど、長野の美麻村はどうだろうか。葉菜ちゃんももう20歳を超えたはずだな。ジョンの想いとは反比例の一途をたどるかのような世界のお粗末な歩みが今年も続いて、どうやら次の年になりそうだ。
丸メガネの向こうのジョンの瞳に、地球はどんなふうに映っているんだろう。

2002年12月7日(土) くもり
太陽はどこへ行ってしまったのだろう。

もう何日も日差しのない日を過ごしているような気がする。今日も昼前には雨が降り出した。寒い寒い一日だった。
午前中は女房とお札つくり。正月に檀家に配る門札をつくる。いつも年が押し詰まってからの仕事になるが、来週の「低音環境」もあるので、早め早めに行こうじゃないかということになった。これで一つ正月の準備が済んだ。
午後からは明日の法事のために客殿の掃除と、庫裏に炬燵を立ててやはり来週のための準備。こんな寒い日じゃたまらんなぁと思いながらも、夜なんだからどっちみち寒いよなぁなんて考えている。
お昼過ぎに、鐘楼と山門の瓦屋根の葺き替えを請け負ってくれたIさんがみえて、447万円を清算する。すべての境内の整備事業が終わった。ほっとした。夕方その息子さんが「父に頼まれました」と、「奉納5万円」を持ってきてくれた。ありがたい。
一週間なんてあっという間に経ってしまうのだろうな。来週の今頃はこの寺に低音のDuoが流れているはずだ。明日はジョン・レノンの命日だ。平和であることの当たり前と、当たり前でない国に強く生きている人々のことを考えよう。

2002年12月5日(木) くもり
今日も仕事一筋で特別なことはない。
天気はどんよりと冬色だ。鉛色の空と今でも雪が落ちてきそうな空だった。
「低音環境」を仕度してくれたS子さんからメールが入る。「忙殺されています」であった。僕も今週は残業の週である。
明日が終われば少しは、準備に取り掛かるさ。子どもたちも手伝うと言ってくれているし、弘法大師やお不動様の後ろ盾もある。
雨降って地固まり、JAZZの日間近。

2002年12月4日(水) くもり
雨の中の寒い葬儀でした。
7時の電車に乗り、帰ってきたのが21時45分だ。電車で行く横浜あたりというのが、結局遠いところになるのかもしれない。
祖父の兄弟姉妹は4男3女ということらしく、一番下の妹が亡くなり、すべて故人となった。師走の雨が強く叩いて、寒い寒い葬儀だった。僕自身は面識に欠ける親族の人たちが多く、これでだんだん僕の代になると疎遠になってくる予感がした。古いつながりが終わり新しいつながりがまた生まれてくる。
甲斐岩間の駅から車で帰らなきゃならないので、飲みたかったが帰りの電車では飲まずにひたすら読書であった。生き返りで思わぬ収穫。「梁石日/タクシードライバー 一匹狼の歌」を一冊読むことができた。
イージス艦派遣のニュースが流れたが、与党の中にも反対はあるようであるが、もう小泉さんも後に引けなくて強引に自らの思いを遂行し続けて、自らの幕引きに向かっているような気がする。小泉といい、石原都知事といい、危ない人物が世にはびこった年だったなぁ。でも結局選挙で選んでしまうのは選挙民たる我々なんだよね。批判しても結局自民党を支持しちゃうようなところって、そこが肝心なところだと気が付かないのかと、昔から僕はいらつく部分なんだけど、脳天気なんだなぁ。

2002年12月3日(火) 晴れ
一日数字とにらめっこで、脳みそが噴出しそうだ。
隣の席が今日明日と出張なので、朝から夜8時半まで二つの机に書類をいっぱいに幾つも広げてにらめっこだった。
うまく調子に乗り始めるのに時間がかかったり、去年のやり方を思い出したり、時には数字のマジック(トリック)を編み出すことを考えてみたりするのだ。普段使わない頭がだんだんと熱くなってきて、脳みそが煮えたぎってしまうのじゃないかと思えてくる。そうなると、冷ますために外に出て、T君の煙草を一本貰って山を眺める。紅葉ももう時季を越えた。冬の枯れた風景に近づいてくる。
明日の朝はまた早く、横浜の近くの戸塚まで行かなければならない。低音環境の不破さんの実家は平塚だって言ってたよなぁ。もう低音環境まで10日だなぁ。といって、特別な準備もしていないんですけど。

2002年12月2日(月) 晴れ
少し残業をして。
来年度の予算のことも始めなければならない時期で、今夜は少し残業。
祖父の一番下の妹が亡くなり、4日に横浜へ葬儀に行く。人工透析を続けてきた方だったが、高齢のために「透析を続けることが無理になったので、いずれ死が近い」と連絡があった翌日の訃報だった。これで祖父の弟妹は皆亡くなったのだと思う。
先月の中頃からわが町でも亡くなる人が増えてきた。寒くなり、死を迎えてしまう時季なのかもしれない。今年は大きな風が何日も吹かないので、ケヤキに葉が残っている。早く落ちてしまえば屋根に登って、樋でも掃除しようという気にもなるのだが・・・。

2002年12月1日(日) くもり時々雨
今日は何件もの用意を済ませた。
10時から秋葉山で毎年の供養。来寺2件あり。檀家のSさん家族と、月参りのやはりSさん夫婦。
こう言っちゃ何だが、用事が一度に済むというのはありがたい。今日は8時過ぎに雨が落ち始め、庭を掃きたいと思っていたのであいにくの天気だった。
秋葉山はよく降られる。降るのは「火伏せ」の神さんだからよいのかもしれない。
12月になったということで気持ちがすこ〜しだけあらたまった。来週の法事の塔婆を書いたあとに、尺5寸の護摩札もとりあえず3本書いてみた。僕の書は勢いだ。自己流の勢い一番で書く。
奄美の島唄は男が歌っても、女が歌っても、どちらも裏声を使うので切ない感じがする。ここが奄美の島唄の僕には魅力だ。公務員の給料も下がってしまうのだけれど、こんな好きなものに包まれながら、家族にも許しをいただきながら、僕は好きな生き方を継続したいと思うのだ。
師走が穏やかな月でありますように。「低音環境」が成功しますように。

2002年11月30日(土) 晴れ
二日日記を休みましたが、再開。
私は今から、甲府へ行ってまいります。甲府駅前で真言宗の僧侶方と街頭托鉢を行います。
ささやかではありますが、少しだけ寒い思いをしながら、世の中の役に立てることで気持ちを暖めます。
網代笠の内側から見る師走(あっ、まだ師走ではありませんね)の町の風景と、人の流れは、時代を反映してその年々に違ったものに見えるように思えます。さて、今日はどんな光景が待っているのでしょう。それでは行ってまいります。
(17:00) 托鉢は6人の不揃いな僧侶達が集まり、甲府駅前にて1時間半ほどを立った。持鈴を鳴らすのみで、ただ立つだけの行いなので、浄財の集まり具合も推してはかれようというものだ。何年か前に外国人の多さが目に付いたことがあったが、今はもう当たり前の光景になっている。女性の髪はほとんどが茶系統に染められている。不揃いな托鉢僧達が一年一年歳を拾っていくのみだ。
山門の屋根の葺き替え工事も今日でキリがついた。明日からの師走を前に、今年の一大事業も片付いた。予定通りの終わりに感謝、感謝。

2002年11月27日(水) くもり
遠くの山は時雨れていたようだ。
雪でも振りそうなうす寒い一日で、遠くの山は時雨れているかのように白くガスがかかっていた。もうすぐ冬がきて、この冬も何度かの雪が降るかもしれない。
デイサービスの特浴が寒いという冬がやってきたので、月曜日に一晩、浴室内のパネルヒーターを入れっぱなしにしてみた。翌朝少し温かかったが、電気料のこともあるし、このパネルは「暖房器具ではない」という前提があるので別の対策をと考えたが、以前から皆が言っていたように、ストーブをたいて入浴前の室内を暖める方法が一番確実で安全で安価じゃないかということになり、家にあったファンヒーターを今日持っていった。僕はファンヒーターは音がうるさいので好きではない。で、もうここ2年くらい使っていなかったのだ。うまく点火してくれたので、これを使うことにした。
特浴は車椅子で入浴するようになっているが、床がタイル張りで、おまけに西向きなので陽が当たらない。入浴は午前中なのでまったく陽は当たらない。体の不自由な利用者は「寒い、寒い」とこぼし、職員からも不満が出ていたのだ。これで少し解消できるかもしれない。
同僚のT君は一人暮らしなので、寒い季節は辛いとこぼす。炬燵は気持ちいいけれどそこで深夜までつい眠ってしまい、朝は朝で起きるのが増して辛いのだと嘆く。飛ばし屋の彼のクルマは、あまり溝のない太いタイヤを履いるので、凍り始める道と雪でも降られるのが大変に困るのだ。去年の冬それ用のスタッドレスタイヤを買い、大きな出費だった。彼はタイヤを履きかえる時期を見計らっている。
内田勘太郎のブルースギターを聴いているので体が火照る。それにしてもこの間聴いた三上寛の「船頭小唄 えん歌の世界」はよかったなぁ。内藤君に貰ったけど、まだもったいなくてパソコンの前に置いて眺めているだけだ。雪の降る夕方に、酒でもちびちびやりながら聴きたいもんだな。

2002年11月26日(火) 晴れ
午後休んで寺務。
今日は午前中暖かい日だった。休みが取れそうなので、午後から休んで寺の仕事。鐘楼の建替えが完成。シメを切って新しい鐘撞き堂に張った。庭を掃き、大工さんたちとお茶を飲む。これも僕の仕事である。
明日からまた新しい時の鐘が鳴る。永く八日市場の時を告げる鐘になる。鐘は僕たちの時を超える。できれば100年くらい先まで欲しいと思う。頼もしい4本の柱と、太い鐘を釣る梁がある。
西日に照らされて、鐘楼は少し照れていた。ふふふ・・・。

2002年11月25日(月) 氷雨
寒いぞ、寒いぞ。
梁石日(ヤン・ソギル)の「夜を賭けて」の映画のサントラ盤が届いた。音楽は朴保(パク・ポー)だ。彼は山梨生まれの僕と同い年。12月にはオリジナルAlbumも出る。ヤン・ソギルは、ジャズの渋さ知らズと同じように、作家のジャンルで今僕の頂点にいる。時間を忘れて読み入ってしまう作家だ。映画を見ることはできるかどうか分からないけれど、パク・ポーの音楽ならぜひ聴いてみたいと思っていた。この亀の島に生きる同胞として、「夜を賭けて」の面白さと、パク・ポーの唄に触れる機会のあらんことを皆に願うものである。
「さむいぞ、寒いぞ」氷雨のような霜月の雨が音を立てて降っている。
昨日は土曜からの疲れのままにまた酒を飲み、日記を更新できなかった。で、テレビを見ながら夕べ思っていたのは、「国を捨てて他所に行きたいと思うこと、実際に脱出するということは尋常なできごとではないとあらためて思った。命を賭してまでもそれを行うということの重さを、彼の国の独裁者は分かっているのだろうか。僕はこの弓の島を出て行きたいと思ったことはない。この国の持つ温度が合っていて、このいい加減さが好きだ。国を捨てるということの重さを僕は夕べはたと思った。捨てて逃れる場所の確たる展望もなく、ただ
ここより何処か!ということの重さだ。しばらくこの重さについて僕は悩むことになる。パク・ポーの音楽は今夜きびしい。

2002年11月23日(土) くもり
曇ったり時々降ったりで、一日寒い日だ。
わが46歳の誕生日は、首が痛くなるような曇りの天気で、寒くて、布団の中にくるまっていたいような一日だった。
これからわが友の時々開くという「居酒屋 喜田」へ行くのである。手土産を一日作っていた。千社札シールとか、感謝状とかである。いま、一升瓶のラベルも作ってみたのだが、貼るゆとりがないかもしれない。急がなくちゃ。

2002年11月22日(金) 晴れ
息子は修学旅行から無事帰還。
相変わらずの無表情の冷め切った顔で、息子は夜8時頃に修学旅行より帰ってきた。
お土産は送った物もあるとかで、早くもメールなどのチェックが始まっているようである。不在の4日間を埋めるモードに入っているようだ。「勝手にしやがれ」である。それでええじゃないか、である。かく言う俺もそんな奴だったのだ。
頭を刈ってさっぱりした。風呂場でじっくりとバリカンをかけて頭を刈る。45歳の頭にサヨナラだ。明日の朝はもう46歳になっている。50歳まで生きられるだろうか。音楽と酒の自堕落を僧侶という隠蓑でバランスをとっているようなものだ。こんなことで許されるのだろうか。
毎年毎年こんな思いのくり返しでここまで来た。これが生ある限り続くのだろうと思うと、いささか世間様への後ろめたさも沸いてくるが、生来のこの脳天気は誰も止められないかもしれない。僕の生き方を全うするしかない。これが人間永明であり、あの世に行った仏弟子永明でもある。恥ずかしい。

2002年11月21日(木) 晴れ
ぽつぽつと、あっ?雨かなというような反響・・・。
ほんとにひと粒ふた粒と雨が屋根を叩きはじめるときのような、ちょっと静かにしていないと聞き漏らしそうなほどにではあるが、『低音環境』Liveへの問合せやメールがある。低音なので静かに霧が流れるような反響なのかもしれない。12月14日は討ち入りの日で、静かに雪もあったのだろうなと想像すると、これも案外、事を待つ僕としては秘め事のような楽しさがある。
今のところ、「行きます」「このくらい集めました」「来るだろう」を集計してみると40人くらいにはなる。40人が庫裏に入れば「もういいんじゃねぇか。」と、早や楽観気味の僕である。東京で大聖寺でのLiveを陰で支えてくれているS子さんから、昨日チラシのマスターが届き、今日何枚かを送ったりしたところである。23日に居酒屋「喜田」で、僕の誕生日をも祝ってくれるらしい?飲み会があるので、そこでも少し宣伝してこなければ。
前回「喜田」で”秋刀魚の会”をしたときには、詩を2編読んだので、今回は日本のJAZZを、初参加のSoul Brother(魂の兄弟)N君と、お客さん方に熱く語ろうと思う。(次の日が法事なのであまりお調子に乗って飲んでてはいけないのだが・・・)
聞こえるはずのない波の音が聞こえてきているので、よくよく耳を澄ませたら、「岡野弘幹/ヒアリング・ゼア」からしずか〜に流れているのだった。『低音環境』も、師走の寺の夜に僕たちの心を浄化させてくれる波の音を運んでくれるかもしれない。
※恒例の増穂町「明王寺」の冬至祭の案内状が届いた。ここのお手伝いで僕の歳の締めくくりとなる。

2002年11月20日(水) 晴れ
今夜は静かに、音楽を聴いている。
白竜というシンガーの古いAlbumを引っ張り出した。彼は今役者として時々テレビで見るが、在日朝鮮人のsingerである。彼が「シンパラム」という自主制作アルバムを出した頃、僕はもう大学の終わり頃だったと思うが、最初に彼を見たのは、キャロルを解散して映画にジョニー大倉が朝鮮名の「朴雲煥」で出た『異邦人の河』を何処かの小さな会場で見たときに、白竜が民族衣装をまとって生ギターを抱えて唄ったのが最初だったと思う。「シンパラム」とは新しい風という意味であるが、ちょうどこのAlbumの出る前に「光州事件」があり、この事件のことを僕は旧友内藤君と僕の相模原:東林間のアパートの白黒テレビで見て知ったのだった。二人で「わぉ〜」などと叫んで、(もしかしたら)二人で乾杯のためのビールを買いに走ったかもしれない。
白竜は在日朝鮮人である。僕は在日の日本人である。アイヌもオキナワやアマミの島人も、たまたまこの弓の島に暮らすだけの者と考えれば、さして問題はない。互いが互いを思いやり理解しながら共存すればいいのだ。この島に住む者たちには、あまり小さなことにこだわる事のない大らかさがあるはずだ。もうすぐクリスマスも正月もやってくる。キリストも仏陀も氏神様もみな一緒になって、念仏踊りができる大らかさだ。「ええじゃないか、朝鮮でもアイヌでも奄美でも沖縄でも大和でもええじゃないか!黒でも白でも赤でも黄色でもええじゃないか!」。

2002年11月19日(火) くもり空
空はまだ曇っているので、今日が晴れなのか?
また相変わらずの一日の始まりだ。息子は高校の修学旅行へ出かけていった。長崎に行くのだそうだ。飛行機に乗って機内で昼食となるということなので、きっと10時とか11時の飛行機なのだろう。
彼は、今日のために新しいMDデッキを買い、旅の友にコレクションを持ったのだろう。どこか僕と似ていなくもない。殊勝にも布団の中に居る僕に「行ってきます」と言葉をかけていったので、修学旅行に旅立つ特別なありがたさがあったのかもしれない。まあ、女房に「お父さんに言っていきなさい」と言われたのが本当のところなんだろうけど。
僕は彼の旅の無事を朝の勤行に託した。
今夜は満月。今夜は「光明真言」。

2002年11月18日(月) 晴れ
太陽に照らされて、部屋の中は暑いくらいだ。
チューバ吹きの高岡大祐さんからメールが届いた。旅暮らしなのだそうである。「チューバ一本担いで旅から旅の渡世人」なんて言葉が頭に浮かんだ。
好きな音楽を奏でながらの旅は、きっと楽しい比重のほうが多いのだと勝手に想像するが、どうなんだろう。
僕は田舎の寺暮らしだ。これもまた旅なのだ。
山門の屋根の吹替えも、屋根だけというわけにはいかなくなって、あちこち材の補修をしなければならなくなった。寺の出費がかさむ。底をついたらまたそのときに考えるとするか。気ままな旅暮らしと思えばいいだろう。

2002年11月17日(日) 晴れ
静かな静かな朝。
京都の寺のようなわけにはいかないけれど、うちの寺も紅葉がはじまっている。ケヤキの葉が毎日毎日落ちてくる。女房の焼き芋屋が開店する。
(17:45)午後2時半には帰ることができ、帰ってから落ち葉掃き。女房はまた焼き芋。でき上がりを隣近所に配り歩く。この時期になるとこのあたりでも、石焼芋の車が走ったりする。今日は女房の焼き芋屋が開店していたために、「粗大ゴミの有料回収車です・・・が暇そうに走り抜けただけだった。落ち葉は掃いても掃いても、今の時期は尽きることがない。石段の落ち葉を掃いていると、大きな風が2〜3回吹き荒れると、また元の木阿弥。あせることはないまた明日やりなさいということなのだと、薄暗くなり始めた空に満月に近い月を見たので、夕のお勤めに本堂に向かった。

2002年11月16日(土) くもり
薄日すら差さない寒い日である。
寒くてからだが固くなっていたけど、元気を出して護摩を焚いた。鐘楼と山門の建築工事の祈願と、「低音環境」の成功を祈った。
棟札を書いて、棟梁の石川さんに鐘楼に付けてもらうように頼んだ。「大工 下山 石川今朝良 同 石川清朗」と、親子の名前も札に書き入れた。いつかまた鐘楼をなおすときなどに懐かしいかもしれない。大工の仕事は清々しくて気持ちが良く、後世に残る。いい仕事をしてもらっている。
午後これから明日の「福祉健康まつり」の準備で出勤。

2002年11月15日(金) 晴れ
低音環境チラシ完成。
メールで送られてきたチラシはそれはそれは素敵な仕上がりになっていた。地図もとてもよく入れ込まれていて、さすがは、"マック・マスター"である。感謝感謝。
寒い金曜の夜に体はあたたかくなった。「低音環境」を思って胸がドキドキしてくる。甲府からは10数人で押しかけますとのありがたいお便りも届いているのだ。
寺の鐘楼は屋根に瓦が乗りはじめた。山門の瓦も今日取り外されて、新しい瓦に葺き替えられる。新しい命の吹込みだ。
高い場所から急ぎ足で紅葉が降りてくる。池の端の紅葉ももうすぐ色鮮やかになるだろう。
今年の討ち入りの夜は、大聖寺で暖かくなろう。

2002年11月14日(木) 晴れ
宗修司率いる「SOH BAND」手に入れて。
コレクションにはまだ載せないが、今日「地底レコード」から5枚のAlbumが届いた。決してsampleとかロハではなくて、これから金を払うのだが。Soh Band(宗修司)をいつか聴いてみようと思っていたのだが、機が熟したというか今回頼んだ。Soh Bandを2枚と、酒井俊「Fry Me To The Moon」、川下直広のDuo、大沼志朗「Danny」(遅すぎたFast)。
宗修司(ds)氏はすでに故人である。氏のBandも、Rock Band顔負けの過激な音の洪水と、随所にちりばめられたお遊びが面白い。彼らのFast Albumのジャケットは、ムンクの「叫び」を模したものであるが、これがなんとも衝撃的で、こんなのがレコード時代のjacketであるなら話題になっただろうと思える。音はまさに一本気。
今夜は仕事がなかったので、大相撲の最後の一番で横綱武蔵丸が負けるのを見てから焼酎。「低音環境」も日本酒は後に残るので焼酎がいいな、などとぼんやりと考えながら1杯2杯と飲む。ストーブがなきゃ、やっぱ寒いかなと3杯4杯と飲む。まあ当日になって考えりゃいいか、と5杯目を飲む。で、曽我ひとみさんの佐渡の山河を語る言葉を思い出しながら炬燵にしばしウトウトとしたのである。山寺住職のジャズ的一日の終わり。

2002年11月13日(水) 晴れ
障害者のスポーツ教室でした。
身体障害者のスポーツ教室も今日は天気も良くて、風もなく最高の日和で楽しく終えることができた。
去年は途中で雨が降ってきて、みな寒くて冷たい思いをしたけど、これが何より。車椅子の方もグランドゴルフを楽しんでいたし、ホールインワンゲームで貰うティッシュペーパー一箱をみな喜んでお持ち帰りになってくれる。これものどかな光景でよかった。でも、そんなに健常である僕らが想像するよりも障害者は沈んではいない。
飲める人は酒もよく飲むし、カラオケも上手だ。
僕にとっては一つことを終え、ホッとした気分だ。今夜はまた仕事がある。土日は「福祉健康祭り」である。秋は何かと休日のつぶれることが多い。法事もあるし。PCに向かってCD聞いているのが一番のゆとりの時間だな。

2002年11月12日(火) くもり
早朝から雷が鳴ったりした。
雨はお昼までには止んだけど、陽が少し出て暑くなるかなぁと思ったわりにはしぼんでしまった。
今夜は、T君が仕事に出てくれるというので僕はOFF。晩飯がうどんだったので、風邪引きの彼を呼んで食わせてから仕事に送り出した。僕は焼酎のお湯わりを飲んだ。
CDリストをまとめながら、今夜は吉田拓郎になった。CDでは2枚しか持っていない。LPも多分4枚くらいかもしれないが、「LIVE'73」「元気です。」がある。LIVEは"
落陽"がよくて、「元気です。」は、僕が一番たくろうが好きだった頃のアルバムだからだ。
懐かしい曲を聴くと、僕は今ある自分ともう一人の自分を比べながら、酒を飲んだり、笑ったり、がっかりしたり、好きだった女の子を思い出したり、そして一番に「できれば、もう年をとりたくはない・・・」と思う。
12月14日の『低音環境』のLiveはそんな僕の思いの吐露かもしれない。ある意味では、僕も拓郎や陽水と同じ時間を歌い続けてきたのかもしれない。僕には制約がないので、それが時にはRockであったり、folksongであったり、Jazzであったりしただけの事なんだろう。
日記を書いていたら、甲府のIさんから電話がありしばし中断。「低音環境」Liveの問い合わせ第1号である。長々とお互いにPCを見ながらの話になってしまった。「少なくとも15人くらいは行くと思いますけど・・・」というようなありがたいお言葉で、こちらもなんと返答してよいのやら、「よろしくおねがいします」と電話を置いた。恐るべし「渋さ知らズ」か「不破大輔」なのか。

2002年11月11日(月) 晴れ
鐘楼の柱が立ち、屋根が付けられた。
お昼に戻ったら鐘楼の4本の太い柱が立ち、鐘を吊るこれまた太い梁が一本渡されていた。さっき帰ってみると、薄暗い中にブルーシートがかけられていたので、屋根も骨組みができたのだろう。
頼もしい鐘楼の柱が立ち、これからまた後の寺守達に引き継いでいくのだ。ここに住む者によって時の鐘をここがある限り打ち続けることになるだろう。「おじいさんの古時計」のように停まってはしまわない。
デイサービスの利用者と隣町のクラフトパークへ紅葉狩りと称して今週5日間出かける。でもこの時期もう風も強くて寒かった。クラフトパーク自体が富士川沿いの吹きさらしのような場所なので余計に寒いのかもしれない。利用者のおじいさんが売店でワンカップを2本買って、空けようとしていたのを「相談員」が止めたら、「寒いから少し飲ませろよ」と、まあ僕も理解してやりたかったが、我慢してもらった。彼はこのあと帰るまで口を利かずにひたすら煙草をふかして、ふてくされていたのだ。僕もきっとこんな老人になるのかもしれない。

2002年11月10日(日) 晴れ
天に月がある。
夕暮れの空に半月に満たない月がある。高く伸びるケヤキの黒い姿と月がなんとも晩秋の風情を醸しだしている。音はないが、鳥がねぐらに帰る泣き声がそこを通っていくのだ。
昨日の木枯らしの後始末を家内と午前中した。過ぎの枯葉が一杯で、風の無いうちに何か所かで燃した。檀家のM君が子どもの七五三で八幡様にお参りに行った帰りを本堂へも寄った。地区の八幡神社があり、そこに詣でる気持ちが大切で、なにも特別に大きな神社などに出かけていくことはない。ここで十分だし、土地の紙に詣でることが確かなはずだ。
八幡神社の社殿の壁に子どもが生まれると、命名の紙を貼る。僕のところもそうしたし、よくよく探してみると、M君たちの若者の名を見つけることもある。いろんなことがつながりの中で行われていき、それを先へ先へと継いでゆくのだ。それだけのことで、ここに生きる意味や価値がある、と思う。

2002年11月9日(土) 晴れ
木枯らし吹き荒れる。
この秋一番の木枯らしだ。杉の葉が一面に吹き溜まる。夕方のお勤めに本堂へ向かったら、鐘を置くために建てたテントが仰向けになってひっくり返っていて、子どもらにも手伝わせて元に戻した。杭を打ち、しっかりと針金で固定した。油断ならない木枯らしだ。
ところで話は変わるが、僕は歯磨きに、茄子黒や石鹸歯磨きを使っているので泡が立たないのだが、今朝家族の使っているデンターの歯磨きで磨いて、そのあと顔を洗ったら目元がすっきりとした。口の周りの泡が顔を洗うとき目の表面を刺激して気持ちよかったのかもしれない。こんななんでもない事の発見てあるな。これも特別関係ないけど、僕はうちでウンコをする時は、今もズボンを脱いでパンツ一枚になって便器に座る。これが一番楽で、ズボンを穿いているとどうも開放感がなくて、便通に影響があるような気がするのだ。
息子は今朝も早くに甲府へ出かけ、バドミントンの今日は個人戦だったらしいのだが、ダブルスで一試合勝ったらしい。いやぁこりゃ目出度い目出度い。木枯らしも吹くわけだ。明日はこの秋の本格的な庭の落ち葉掃きの始まりになるかもしれないな。

2002年11月8日(金) 晴れ
届きたての、ほかほかなチラシを載せます。
「低音環境」山梨初上陸ライブ!! in 大聖寺。
こんなチラシが今朝早く送られてきた。大きくはこちらをクリック。

2002年11月7日(木) 晴れ
つわぶきがきれいだ。
つわぶきの黄色がきれいな朝だ。立冬。冬の門口の日だ。
だんだん布団から抜け出すのが辛い日が続く。母親は子らに対して朝をぐずぐずとしていられない。僕の朝はそこそこで、お勤めさえすめばいいのである。そんで出勤前の寸暇を惜しんで、朝からPCに向かっている。テクノやトランスを聴きながら、今日の日のよいことを祈っている。香も炊く。左眼で「まんてん」を見る。周りをよく見渡すと、まだまだ花はたくさん咲いているし、冬の花は咲き始めたばかりだ。
(20:57)午後から「山梨県社会福祉大会」へお偉方を引率して行ってきたが、最近のこのての大会は必ず壇上に県の旗と日の丸があり、プログラムに「君が代」斉唱というのがある。暗いような客席なら立たないが、今日は起立して歌い終わるまで目を閉じていた。ただ頭の中に、おそらく小学校の低学年の頃刷り込まれたのであろう君が代の歌詞があの「黒田節」のような節を追いながら浮かんでくることは消すことができない。あ〜あと、何か疲れて座るのだ。帰りに「とよとみ道の駅」に寄ってうどんをご馳走になってきたが、となりのテーブルにかなり出来上がった50歳台の男性が居て、ビールをこぼしては飲んだりと、もうギブアップ状態でビールを飲めそうもなく飲んでいた。僕たちが入ったときから目の前に出されていたうどんには僕たちが居た時間一箸もつけられないでいたし、僕らが帰ったあと彼はまだあの席で、椅子から落ちそうになりながらも居つづけたのであろうか。あんな姿が、でも僕にはどうしても嫌いになれない。僕もいつもあんなだからだ。夕暮れをぶつぶつ独り言しながら帰っていったのではないだろうか。これも立冬の日本の風景なのだ。

2002年11月6日(水) 晴れ
M先生が朝から資料館の草を刈ってくれている。
寺の敷地内にある町の歴史民俗資料館(この春から職員なし)の草刈りを、前の館長のM先生がしてくれている。きょう午後寺と資料館に久しぶりに見学者があるのだ。僕はきょう町の金婚者祝賀会で一日不在なので、女房にお不動さんのお開帳を頼んである。あまり僕が居ないときにご本尊を開帳することはしたくないのだが、これも特別な扱いだ。
北朝鮮からの帰国者たちの気持ちがだんだん、こちらの政府寄りに押し切られているようだが、果たして北は子どもたちだけを日本によこしてくれるのだろうか。この問題かなり長引きそうな予感もするが。
僕は横田めぐみさんが北で亡くなったということを聞いた時、なぜか三上寛の「よいしょ よいしょ」を思い出す。「私ほとんど 泣いて暮らした〜〜」とうたわれるこの歌が、切なくて切なくて、伝えられる横田さんの顔が思い浮かぶようなのだ。
(23:20) 夜も今夜から再来週までの間に5回開く「ボランティア学習会」があって、10時過ぎに帰ってきた。今朝の出掛けに三上寛のことを書いたので、一日中三上寛の詩が頭の中を巡っていた。とくに横田めぐみさんを想像する「よいしょ よいしょ」が多かったが,「おど」や誰を怨めばいいのでございましょうか」などなど、風邪でうなされた頭のように、金婚祝賀会の開場でも頭の中を巡っていた。「N君ならこの気持ちは分かるかもしれないな」と、夕べメールをくれた友達のことを思った。三上寛のalbumもリストにupしなければな。

2002年11月5日(火) 晴れ
「低音環境」大聖寺Live決定!
お待たせしました。「低音環境」の大聖寺Liveが決定いたしました。
日 時  12月14日(土) 午後7時30分から
      (開場とかは考えていません、早い方はお寺の中でご自由にお過ごしください。)
会 場  大聖寺 庫裏
      (とても寒いですが、酒を飲めば温まりますし、飲んでも失礼にはならないということです)
料 金  おとな2,000円 学生1,500円
      ※チケットなどは特に用意するつもりはありません。
その他  酒の持ち込みは上記の理由から規制するつもりはありませんが、師走の第2土曜日ですので、車を運転される方の飲酒はぜひご遠慮いただきとう存じます。

詳しいことチラシなどは追って掲載します。おそらく日本一読者の少ないページかもしれませんが、今、日本のjazzは「渋さ知らズ」を語らずして何になるというような状況でありますので、その「渋さ・・・」のリーダーの不破大輔氏と高岡大祐氏の(二人ダイスケ)が、それぞれ己の一番の自慢できる武器ではなく楽器を携えて、甲斐の国は武田信玄の必勝祈願の寺でもあった大聖寺にお見えになるのですから、ぜひとも「一人2票?否、2人か3人の拉致?否、お友達のお誘いを」切に願うところであります。
今晩は、この口上のみにて失礼。詳細は追って待て!! ドロン。

2002年11月4日(月) 晴れ
草刈りももう一段落だな。
墓地と本堂脇の草を刈って、今年の草刈りももうおしまいになりそうだ。あと百日紅と柊の枝の刈り込みをしたり、庭の体裁を整える。12月にはシルバー人材センターの皆さんが松と梅の手入れをしてくれる。これももう4年くらいの年中行事となった。
檀家のIさんが今日は、お孫さんを伴ってお参りに来た。連休の休みで遊びにきているのだろう。Iさんは、お不動さんへのお参りが日課だ。昨日も網戸を洗っていると「ご苦労さん、ご苦労さん」と、杖をついてゆっくりと歩いてきてゆっくりとまた帰っていった。後姿の弱々しさは否めないが、お不動様が見守ってくれているから大丈夫だと僕は思っている。
池の上の紅葉が少し色づき始めた。西日の当たる白壁はとてもあたたかそうで、天使やら天女やらが遊んでいるように思えた。

2002年11月3日(日) 晴れ
風の強い日が多くなった。もうすぐ落ち葉の季節だ。
午後からは少し風が出てきた。もうすぐ枯葉が舞い落ちる季節になる。ケヤキの葉が大量に境内に降る。掃いても掃いてもエンドレスな掃除の季節到来だ。
午後から女房と網戸を洗った。去年家の改築で洗わずに済ませてしまったので、2年ぶりに洗った。ふた夏の汚れが落ちたのかな。午後の日差しに網戸はすぐ乾いて、お蔵に仕舞った。
僕はその後、庭の掃除をした。ケヤキの伐採の後のチェンソーの切り屑が石畳にたくさん残っていたので掃いた。焚き火を少しして、じ〜んとあたたかな時間を少しだけ過ごした。鐘楼の土台のコンクリートの上に猫の足跡がいくつか着いていた。もう固まってしまっていたので仕方が無いが、これも自然のなせる技なのかもしれない。猫にも思い出となるかもしれない。
ミシェル・ペトルチアーニ(p)のLiveを聴いている。明日もう一日休みだ。へへッ!

2002年11月2日(土) 晴れ
のんびりゆっくり土曜日。
午前中はデイサービスの一般浴槽内に手摺りを付ける工事があったので、業者のためにセンターへ。家に居たらごろっと寝てテレビでも見てしまったかもしれないが、お陰で寺の仕事ができた。年末の護持会の通知や来年の「回忌」を調べたりと、なかなか取り掛かるのがめんどくさい仕事を済ますことができた。
鐘楼の工事も少しずつ進捗している。今日は土台のコンクリート打ちが終わった。
午後からは「アルバムリスト」作業。日本のJazzの持っているものはほぼ打ち終えた。疲れます。
松井の大リーグ挑戦やら、ウド鈴木の傷害事件やら伝えられてくるが、
『新潟県柏崎市の西川正純市長は1日、蓮池(旧姓奥土)祐木子さんの実家を訪問、夫の蓮池薫さんに「市役所で仕事でもしたらどうですか」と提案。蓮池さんが何も言わずに笑みを浮かべたため、西川市長は「その気になったら声を掛けてください」と話したという。』という記事にはちょっと驚いたな。

2002年11月1日(金) くもり
先代住職の5回目の命日。
もう5年が経った。今朝は雨が降っていたので、寒さが厳しいわけではなかったが、どんよりと暗くて冷えていた。小便になんども行った。
11月に入り、いよいよ秋が深く濃くなる。晩秋というやつだ。柿の実のように、周りの景色や空気までが朱色に染まる。風情があって好きだな。僕はこの風景が好きなので、11月生まれでよかったなといつも思う。この季節が大好きだ。大好きな11月のこの季節に11月1日に向こうへ行ってしまった父のことも思えるので、11月好きに拍車がかかった。
障害者の旅行では、清水湾内の遊覧と船上での昼食だった。風も無く海も凪いでいて、富士山がきれいだった。